2022年8月8日月曜日

不安定な天気が続き…

歩き始めは、青空でしたが、次第に黒い雲が現われてきました。
雨が降らずにすみましたが
昨夜、寝ていると雷の音がしてきました。
そのうちに冷汗がドッと吹き出しました(-_-;)
退院(心筋梗塞)後、両親と外食をしようとしていたときに
冷汗が止まらなくなったことがあります。
なんとか我慢して食後、店を出ると空が真っ暗で大雨でした。
気圧が変化すると、体調も悪くなります。

前線は1週間程度停滞 北日本で大雨のおそれ 西 東日本は猛暑に」(NHK)
広島の路面電車 8月6日を乗り越えて」(みちしる 2011年)

被爆電車を見て不思議に思いませんでしたか?
照子さんが路面電車の運転士だったこと。
堀川惠子さんが番組を担当した
「チンチン電車と女学生~ 2003・夏・ヒロシマ ~」(2003年8月31日放送) 
によって少女たちが運転士・車掌をしていたことが知られるようになったのです。
 プロローグ

…前略…

 被爆したチンチン電車が今も広島の町で活躍している、それだけでも、私たちは驚かされる。
さらにびっくりさせられるのは、被爆した七〇両のチンチン電車に乗務していた運転士・車掌の七割ほどが14~17歳の少女たちだった、という事実だ。
戦局がつのり、男性乗務員が次つぎと戦地に取られてぽっかり開いた穴を、少女たちが懸命に埋めていたのである。
そして被爆三日後、奇跡的に復旧して焼け野原を走った電車にも、少女たちの姿あった。
(『チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ』堀川惠子、小笠原信之 日本評論社 2005年)
 「広島電鉄家政女学校」――。
少女たちはこの学校に通いながら、チンチン電車に乗務した。
女学生運転士・車掌の養成校である。
戦時中の1943年春に開校し、被爆までのわずか2年半で短いを歴史を閉じた同校の存在は、広島でも一部の人たちにしか知られていなかった。
学校の建物は被爆で焼失し、当時の写真や生徒名簿などの資料もほとんど埋もれたままで、「幻の女学校」とよばれていた。
その存在に光が当たりだしたのは、つい最近のことである。
 広電は今年(2005年)の8月6日をもって、「650形」の二両を廃車にする予定だ(取材後、方針変更がり、まだ1年ほどは現役を続けることになった)。
残りの二両もいずれ引退させて保存するという。
合理化の波にも耐え抜いた最後の生き証人にも、とうとう肩をたたきの季節がやってきたようだ。
だが、生き証人が表舞台から去れば、歴史の記憶も風化するおそれがある。
そして、チンチン電車とは切っても切れない広島電鉄家政女学校の女学生運転士・車掌たちの存在も、ふたたび忘れ去られてしまうのではないか。
 少女たちはどんな思いで学校に通い、チンチン電車の運転台に立ったのだろう。
どんな思いで切符にパンチを入れていたのだろう。
ピカドンの広島の町で、青春の二年半をどのようにおくったのだろう。
そして今、あの日々をどう振り返るのだろう。
チンチン電車と女学生にまつわる戦争秘話の記憶が風化しないことを願って、私たちは元女学生たちを訪ね、60年前の話を聞いて回った。
第六章 
八月六日、午前八時一五分

 電車のなかで閃光を浴びる

 
 朝食時だったこともあり、寄宿舎で被爆した女学生が少なくなかったが、早番だったりラッシュ応援に出たり、キップの立ち売りに出ていて、常務時にピカドンの閃光を浴びた人はもっと多かった。
全部で三〇九人の女学生のうち二〇〇人ほどが勤務中だったと推測されている。
 後に広電がまとめた「運行中の市内電車被爆状況」(図2参照「全車両の被爆状況 広島電鉄開業80年創立50年史」<省略>)によると、市内を運行中に被爆したチンチン電車は七〇両にのぼる。
いちばん多いのが紙屋町―宇品間の三三両、次いで江波―横川間の二〇両、紙屋町―広島駅前間の八両、土橋―己斐間の六両などとなっている。
爆心地から半径一キロ以内で被爆した車両も、二〇両ほどある。
…中略…

 市川照子さん(一期生)は、爆心地から2キロほど離れた広島駅前で乗務中に被爆した。
 市川さんはラッシュ応援の運転士に出ていた。
応援が終われば、この日から1週間、姉妹校だった実践女学校(広島実践高等女学校、現・鈴峯女子高)に疎開する予定だった。
疎開中は仕事から解放されてのんびりとすごせるので、気分もうきうきしていた。
乗務から帰ったらすぐに出かけられるように、とすでに荷物もすっかりまとめてあった。
 この朝は、本社前を出て広島駅に向かう電車が担当だった。
7時すぎから乗務し、8時すぎに広島駅に着いた。
<さあ、今日はこれで終わりだ、帰れる>と喜んだが、残念ながらそうはいかなかった。
どの電車も満員で、次の電停でお客さんを乗せないまま通過しているから、応援が必要だというのだ。
監督さんに「お前が応援に行ってくれ」と頼まれた。
また電車を走らさなくてはならなくなった。
 「はい」と答えた市川さんが、電車の方向幕を変える。
監督が発車の合図の笛を鳴らした。
運転台の制御盤のハンドルを左手で握り、一ノッチを入れた瞬間だ。
斜め後ろからサーッと光が入った。
 事故だ。自分がやってしまったのだ。
彼女はこう思い込んで、自分を責めた。
そこで、車掌のほうへ行って何がおきたのかを確かめようとした。
後ろに行こうとした。
すると、ガクッと床から足を踏み外してしまった。
通路中央の床板が爆風で吹き上げられ、モーターが剝き出しになっていた。
それに気づかなかったのだ。
 爆風の音がゴーッと鳴っていた。
市川さんは一ノッチを入れているので、電車はまだ惰力で動いていると思っていた。
爆風の音もモーターの音だと勘ちがいし、踏み外した足をモーターで切断されるのではないかとこわくなった。
 「お母さん~っ」
 恐怖にかられて叫んでいた。
それから急いで車外へ這い出た。
すると、「警戒警報」と叫ぶ声が聞こえ、そこではじめて、事故ではなく、爆弾が落ちたのだと悟った。
そのうち、周囲がだんだん晴れ上がってきた。
視界が明るくなった。
だが、そこでハッとする。
周囲の家々がなくなっている。
見慣れた風景がすっかりなくなっているのだ。
爆弾はドカンと落ちてそれまでと思っていたので、それとはずいぶんちがう。
変だなあと思ったが、そんなことを考えているときではない。
…後略…
(『チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ』堀川惠子、小笠原信之 日本評論社 2005年)

広島電鉄の設立と戦時下の状況(昭和17年~昭和20年)」(広島電鉄)

今朝の父の一枚です(^^)/

映画「この世界の片隅に」に食糧事情の悪化で、米以外のものを入れた「かて飯(糅飯)」が登場していました。
カボチャもその材料の一つとして登場していました。

食糧事情の変化

 開戦のころ、コメの自給率はおよそ75%ほど。
それ以外に朝鮮や台湾のコメや、それ以外の国からの輸入に頼っていた(本編でも台湾米のヤミ販売のシーンがある)。
 戦争が激しくなるにつれ、海を越えてくるコメが減り、さらに人的・資源的リソースが軍事中心になったため、農業の生産性も低下。
国民一人あたりの米の配給量が減っていった。
そのため、コメ以外のもので嵩増しをすることが当たり前となり、かて飯が食卓に上るようになった。
楠公飯は、炒ってはぜさせた玄米を炊いて、ぶよぶよにふくれあがらせた食べ物で、これも嵩を増すためのレシピだ。
 そのほかの食品も似たような状況のため、人々は食べられるものなら、野草でもなんでも食べるように工夫するようになったのだ。
(『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』  双葉社 2016年)