2022年8月3日水曜日

今朝も警戒アラートが

今朝も厳しい暑さでした。

熱中症で搬送 全国で1週間に7116人 前週の1.7倍に 厳重警戒を」(NHK 8月2日)
亡くなった方が6人も…。
搬送された人の年齢別では、65歳以上の高齢者が3820人と最も多く、半数以上を占めています。
一方、
新潟県下越 山形県置賜で線状降水帯 非常に激しい雨のおそれ」(NHK)
ピンク色の花が見えたのでネムノキかな?
ほかの場所では、花の時期は過ぎて豆果ができている。
花と豆果が同時になっている…
あまりの暑さにリズムが狂ったのかな?
NHK俳句「歳時記食堂~おいしい俳句いただきます~2022夏
第一句が橋本多佳子の

  淋しさが目鼻つきぬけ夏蜜柑

最近の果物は甘くなっていて、酸っぱい夏蜜柑が見当たらないのが寂しいです。
山を歩いていたころは、レモンや青リンゴなど酸味があるのを好んで食べていました。
酸っぱさが汗をふきだした体と心に活を入れてくれた!

第二句が芥川龍之介の

  更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁

昭和2年、芥川龍之介を東京・田端の自宅で撮影した映像がうつされていました。
この映像が撮影された数か月後、龍之介はこの家の2階で自ら命を絶ちました。

第三句は、一般の方の作品。

  「あなたのは」とばかり訊く妻
      さくらんぼ

             小山正見

思い出を句にすることで宝物になるのだなと思いました。
第5回 戦後・新たな潮流

 橋本多佳子


 大正9年、小倉市(現在は北九州市)中原(なかばる)の小高い丘に、実業家橋本豊次郎氏の居宅で「櫓山荘(ろざんそう)」と呼ばれる瀟洒な洋館が建てられました(口絵2ページ参照<省略>)。
正しくは和洋折衷の建物だったとのことですが、写真に残る外観を見るかぎりではモダンな西洋館です。
暖炉やバルコニーなど当時としては珍しく、ときに作家や文化人の集うサロンでもあったのです。
大正11年3月、高濱虚子をここに迎えて「ホトトギス」の句会が開催されました。
出席者は杉田久女ほか六、七人のささやかな句会だったのですが、このとき虚子のつくった

  落椿投げて暖炉の火の上に  高濱虚子

 に触発されて俳句に関心をもったのが、のちに4Tの一人と称される橋本豊次郎氏の夫人橋本多佳子でした。
その後、足しげく櫓山荘に通うようになった久女から俳句の手ほどきをうけた橋本多佳子はしだいに俳句に親しんでゆきます。
大正14年には「ホトトギス」雑詠に初投句、昭和2年に<たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏>で初入選、その後も同欄にぽつりぽつりと入選してはいるのですが、とくに印象に残る句はありません。
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』 宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)

(「杉田久女・橋本多佳子」 北九州市 小倉北区)
 ところが昭和4年に小倉から大阪に移り住むようになり、ここで山口誓子(せいし)に会います。
誓子に師事するようになり、「ホトトギス」を離脱して水原秋櫻子(しゅうおうし)の「馬酔木(あしび)」に投句開始、昭和16年に早くも第一句集『海燕』を刊行しています。

  月光にいのち死にゆくひとと寝る  多佳子

 実力ある男性俳人の打ちそろった「天狼(てんろう)」にあって、ズバリと主情を立てた橋本多佳子の句は独特の勢いをもって自らの境地を開拓してゆきました。
折から「天狼」即ち「根源俳句」という声が聞かれるようになりました。
誓子の「人生に苦労し齢を重ねるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現れるか――」を端緒にした論だったのですが、これについて「天狼」内部に緒論が湧出しました。
 橋本多佳子の第三句集『紅絲』には、そんな時期の句がひしめいています。

  雪はげし抱かれて息のつまりしこと

  毟りたる一羽(は)の羽毛寒月下

  雄鹿の前吾もあらあらしき息す

  夫(つま)恋へば吾に死ねと青葉木菟

  乳母車夏の怒濤によこむきに

  一ところくらきをくゞる踊の輪

  祭笛吹くとき男佳(よ)かりける

  いなびかり北よりすれば北を見る
 いずれも橋本多佳子の代表句であり、昭和の女性俳句の代表句でもあります。
嫋々とした女ごころを吐露しながら、どの句も鋼(はがね)のような強さを身上としています。
俳句の持つ断定の強さが、なよなよした見てくれの女情を消しているのです。
 これらの句のいくつかは、いまも語り草になっている奈良の旅館、日吉館での句会で出された句だったとのこと。
「天狼」の男性俳人たちを相手に切磋琢磨していた様子のうかがえる句です。
「天狼」同人になってからというもの、橋本多佳子は「天狼」の僚誌である「七曜」を主宰、全国各地への旅行など、精力的に活動をつづけています。
そして昭和29年の九州旅行の際には、杉田久女の亡くなった地に立ち寄り、

  万緑やわが額(ぬか)にある鉄格子

  つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため

 をつくっています。
「鉄格子」というのは、久女の最後の入院先が筑紫保養院という福岡県立の精神科の病院であったこと、その個室に鉄格子が入っていたことへのあわれを具象的に表したものです。
多佳子にとって、杉田久女は最初に櫓山荘で俳句の手ほどきを受けた先生です。
そして、肝臓疾患悪化のため、久女は鉄格子の中で不遇な最期を過ごしました。
その終焉の地に立った多佳子の脳裏には、さぞいろんな思いが去来したことと察します。
  雪の日の浴身一指一趾愛し

  雪はげしき書き遺すこと何ぞ多き

 昭和38年5月29日、橋本多佳子は入院先の大阪回生病院で亡くなりました。
 入院するときに、四女でのちに多佳子の主宰していた俳誌「七曜」を後継した橋本美代子に句帳を渡し、自分に万一のことがあったらこの句帳の句をまとめて句集を出してほしいと自らの意志を伝えました。
したがって最後の句集『命終』は没後の遺句集として刊行されました。
ここにあげた句がつくられたのは3月、『命終』最後の句です。
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』 宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)