2022年8月14日日曜日

リセット

 時々、風が吹くのだけど暑い…
台風から湿った風が送られてくるのかな?
大阪は、あまり雨が降らないのに…

北~西日本で大気不安定 北海道猛烈な雨 土砂災害など厳重警戒」(NHK)
朝、いつものように録画しているテレビ体操をしようとすると音が聞こえない…
右耳も失聴したのかとドキッとしました(*_*;
レコーダーをいろいろ触ったけど分からない…
仕方がないので無音で父とテレビ体操をしました。
終了後、リセットしたらどうかなと思ってリセットボタンを押しました。
リセット終了後、録画を再生すると音が出ましたホッ!
今日は
大阪の京橋駅空襲から77年 遺族たちが犠牲者追悼する慰霊祭」(関西NHK)

第2章 大空襲の炎に追われて
  造兵廠爆撃の巻き添えとなった京橋駅の惨状
 京橋駅の慰霊碑
 

 善教寺のように、いまもなお空襲で亡くなった人びとへの追悼供養が各地で営まれています。
JR環状線京橋駅の慰霊碑の前でおこなわれる8月14日の法要もその一つです。
 天皇が「ポツダム宣言」を受諾して降伏することをラジオで国民に告げ、戦争が終わろうという8月15日の前日、アメリカ軍は、大阪砲兵工廠(当時の呼称は大阪陸軍造兵廠)への最後の猛爆撃をおこないました。
(『大阪 戦争モノ語り―街かどの「戦跡」をたずねて―』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
 大阪陸軍造兵廠は、アジア・太平洋戦争の末期には、本廠(現在、その場所に大阪城公園、大阪ビジネスパーク、JRの森ノ宮電車区が位置する)のほか、枚方や播磨などに四つの製造所をもつ巨大な兵器製造工場でした。
学生・生徒や女性、市民、朝鮮人が動員・徴用され、工員と合わせて全部で約6万4000人もの人びとが働いていました。
 アメリカ軍は、造兵廠本廠の破壊を狙って6月以降3回の爆撃を加えていましたが、被害が小規模にとどまったうえ、日本の降伏決定が遅れると予想されたので、最後の空襲の目標に選ばれたのです。
B29 145機が来襲して午後1時16分から始まった爆撃は、45分間におよび、700トン余りの爆弾が投下されました。
 その結果、造兵廠は壊滅的な打撃を受け、あたり一面、工場の残がいがゆがんだ鉄骨をさらし、いたるところに爆弾による大きな穴があいて、爆撃のすさまじさを見せつける廃墟と化したのでした。
京橋駅での被災は、この時の空襲の巻き添えになったものです。
 いま、駅の南口を出たところに慰霊碑と釈迦像などが建てられていて、そのかたわらに国鉄京橋駅長名による説明板があり、次のように記されています(写真<省略>)。

 太平洋戦争終戦前日の昭和二十年八月十四日、大阪は最後の大空襲を受けた。
B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の一トン爆弾が四発、京橋駅に落ちた。
うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。
判明している被爆犠牲者は二百十名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、五百名とも、六百名とも言われている。
 当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和二十二年八月十四日、自費で建立された慰霊碑である。

(「大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑 他」総務省)
  500~600名と、犠牲者数がはっきりせず、しかもそのうち身元が判明したものが半分以下ということから、当時の現場の混乱と、遺体の損傷の激しさを推測することができます。
 遺族のひとり戸塚ヨリ子さんは、「父の想い出」と題する「手記」のなかで、被災後の京橋駅の惨状を次のように書き記しておられます(長森利春編『霊に捧ぐ 国鉄京橋駅爆撃被災記録』より)
 昭和二十年八月十四日。
父は国鉄京橋駅への米軍の爆弾投下によって一瞬のうちに尊い命を奪われてしまいました。
遺体はおろか遺品すら発見されず、今日まで過ぎてきましたが、この目で父の死を確認できていないことは、何とも言い知れない気持で一杯です。
父は当時四十四歳、私は十九歳の時でした。
 その日、父は高槻の軍需工場へ行くと言って早昼を食べて出て行きました。
現在の八尾市久宝寺の家から近鉄と国鉄城東線(大阪環状線)で大阪へ向かいました。
その途中、たまたま乗り合わせた電車が空襲警報のため京橋駅で退避、他の乗客と一緒に父も駅に避難したところへ直撃弾が落され、爆死したんだろうと思っています。
いつもなら夕方に帰ってくるはずの父が夜遅くなっても帰ってこない。
いま帰って来なければ『ケガしてるか、死んだか、どちらかだ』と私は直感でそう思いました。(中略)
 翌朝早く、私は母と一緒に京橋駅へかけつけました。
ひたすら父の無事を祈り、一時間半ほど歩いてやっとのことでたどりついた被災現場の京橋駅は見るも無惨。
跡形もなく焦土と化していました。
地面はすり鉢状に抉られ、土砂・瓦礫(がれき)の埋まった、それはもう大池といった方がいいほど、直径五十メートルもある巨大な穴が二つもあいていました。
即死と思われる多くの死体が、あちこちに横たわり、爆撃の壮絶さを如実に物語っていました。
駅周辺には切断された手足が散乱し、肉片が鉄橋にへばりついているやら、それはそれは全く地獄絵そのものでありました。
 復旧と救済活動の続く大混乱の現場で、私は毎日懸命に父を探しました。
死体を運び込んでいた付近のお寺は、どこも収容しきれなくなったとかで、現場でブリキ板に死体をのせ荼毘に付すことになりました。
一体一体『父ではない、父ではないか』と思いながら、反面、『いや、いないでほしい。父は死んでなんかいない』と心で叫びつつ、複雑に交錯する気持の中で自分で自分を励ましながら探し続けました。
現場へは二週間にわたり、毎日、毎日母をともない御線香と御ローソクとお花をたずさえて足を運びました。
 けれどもその効もなく父の遺骸はおろか遺品すら出て参りませんでした。
  爆撃直後の現場には大きな石の下敷きになり助けを求める人々もいましたが、これをとり除いてあげればこの人達は助かるのにと思ってもかよわい女の身でどうすることもできず、せmて、焼きつくような暑さの中で、大きな石と石との間から、やっとの思いで首をのぞかせ、はりさけんばかりの声で「水をくれ!」と必死に叫んでおられる方々に何とかして一滴のお水でもさしあげたいとあちこちさがし歩き、やっとの思いで手にしたお水をストローでお口に入れてあげました。
「ああおいしかった。ありがとう」と言うなり、こときれてしまわれました。
瞬間、私はよいことをしたのか、わるいことをしたのか。
この時ほど複雑な気持に見舞われたことは今もなお心痛く残っております。(後略)
 森本栄一郎という方が建てられた慰霊碑は、写真の右手にある「南無阿彌陀佛」と彫られたのがそれで、碑の右側面に、「昭和二十年八月十四日 受難者供養之為」、裏面に「昭和二十二年八月十四日 森本栄一郎建立」と刻まれています。
その後、三七回忌を機に左端の「納経塔」が、五〇回忌の時に中央の「釈迦牟尼仏尊像」が建てられました。
これらを取り囲むように、近くに所在する聖賢小学校の生徒たちなどが折った千羽鶴が飾られています。
 これらの碑や像の前で、毎年、遺族の方々や妙見閣寺の檀信徒などによって慰霊祭が施行されています。
妙見閣寺は京橋駅に近い城東区鴫野に1955年開創し、それ以来、慰霊祭を執りおこなってこられたものです(1999年に旭区中宮5丁目に移転)。
(『大阪 戦争モノ語り―街かどの「戦跡」をたずねて―』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)/

(1957年以前 高校生時代)
 列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし
(『寺山修司全歌集』講談社学術文庫 2011年)

今月10日のWindowsアップデート。
インストール失敗が続いたので遠隔サポートをお願いしました。
数時間、操作をしてもらったけど失敗が続いていました。
作業員の方の話では、インストールできているようだけど、
何等かの不具合でエラーメッセージが出ているようだとのこと。
9月もエラーになるようだったら再度連絡することになりました。
その間の作業代をお聞きすると無料でした。

その後、何度も再インストールが続いていたのだけど失敗!
今日、更新の履歴を見ると
セキュリティ更新プログラムが8月10日に正しくインストール
累積更新プログラムが、今日、正しくインストールされていて「最新の状態です」と表示されている!
あのエラーメッセージは何だったのだろう…