でも、ひんやりした朝でした。 母の日
毎年5月の第二日曜日が母の日になったのは、昭和24(1949)年以降である。
元来、母の日はなかったが、昭和23年発布の「国民の祝日に関する法律」により、5月5日の子どもの日が、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日と定められた。
法律的には母の日と子どもの日が一致しているが、慣習として母の日は5月第2日曜日になって、現在も盛んに行われている。
その日、母を亡くした子は白いカーネーション、母が健在な子は赤いカーネーションを胸に飾り、母に花束を贈る風習がある。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)ルーツはアメリカのウェスト・ヴァージニア州の教会のミス・ジャービスという女教師が亡くなり、命日の追悼式にジャービスの一人娘が生前母親が好んだ白いカーネーションを捧げたことにはじまる。
ジャービスはいつも母の恩の教えを世に伝え、母に感謝したいと念じたのである。
そして集まった信者たちにも白いカーネーションを配ったという。
その話を聞いたデパート経営者が、1908年5月の第2日曜日を母に感謝する記念の日として宣伝したことから、アメリカ国内に反響をよび、1912年にウィルソン大統領はこの日を国民の祝日と定めた。
キリスト教文化の一環として、母の日は人々に支持されたが、日本でもキリスト教会がこの話を広め、しだいに母の日が定着した。
ちょうどクリスマスと同様なかたちで日本文化の中に定着している。 (宮田)
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)5月8日 世界赤十字デー
1948年にストックホルムで開催された、第20回赤十字社連盟理事会で定められた。
赤十字社の創設者アンリ・デュナンの誕生日が5月8日であることから、この日が「世界赤十字デー」となった。
(『世界の祝祭日の事典』中野展子 東京堂出版)
今朝の新聞に
〝防衛力強化「賛成」6割超 有権者、ロシアの侵攻影響か〟(朝日新聞)
ロシアのウクライナ侵略や中国軍の動きが影響していると思います。
思うのは、コロナ禍で生活に困っている人が増えているのに防衛費を増やしていくと
北朝鮮のように国民が飢えに苦しんでいるのを無視してミサイル開発などを進めるようなものだと思う。昭和30年(1955) 5月8日
東京都砂川町で、立川基地拡張反対決起大会開催、砂川闘争はじまる(12日、砂川町議会、基地拡張反対を決議)。
(『日本史「今日は何の日」事典―367日+360日・西暦換算併記―』吉川弘文館 2021年)
BSでは、2021年5月21日に放送されたようですが
新日本風土記「松本清張 昭和の旅」に『ゼロの焦点』の舞台の一つとなった米軍の立川基地に関連して砂川闘争が紹介されていました。
「砂川基地闘争 激化」(NHKアーカイブス 1955年)
「地元の抵抗に政府が砂川町の測量断念」(NHKアーカイブス 1956年)
この反対運動がなければ東京都立川市は沖縄のようになっていたでしょう。
「立川飛行場の歴史」(防衛省・自衛隊)
違った作品ですが、大学で所属していたサークルの先輩が登場してきてビックリしました。
伝統の味を守るために地道な努力をされていた。
『少女たちの明治維新』には
「ただし捨松は実際には目にしていないだろう。日本語の読み書きがまだ完全ではない彼女がこの小説を読めたとは思えないからだ。」
と、書かれていました。
先人たちの底力 知恵泉「明治維新 大山捨松 敗者の再出発 日本初の女子留学生の格闘」
にリモートで出演されていた久野明子さんの本には、小説『不如帰』をめぐって
小説『不如帰』
大山家の人々が薄幸の娘信子を失った悲しみからようやく立ち直りかけた矢先、大山家にとっては迷惑千万な小説が世に出た。
作者は、当時ジャーリストとして名声を馳せていた「国民新聞」の創立者でもある徳富蘇峰の弟の徳富蘆花で、彼の書いた悲恋物語『不如帰』は、明治31年の暮から翌年の5月まで「国民新聞」に連載された。
(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』久野明子 中公文庫 1993年) ヒロイン「浪子」が、肺結核を患ったため愛する夫「武男」と無理やりに離縁させられ、骨と皮ばかりに痩せ細り、血を吐きながら死んでいくという筋書きとしてはお涙頂戴調のひどくたわいないものであった。
しかし、「浪子」の口から出る「ああつらい! つらい! もうもう婦人(おんな)なぞに生れはしませんよ」「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」という言葉が世間の人々の涙を誘い、『不如帰』は十年間で百版を重ねるベストセラーとなった。 作者の徳富蘆花は、逗子に住んでいた時、大山巌の副官だった人の夫人から聞いた話にヒントを得てこの小説を書き下ろした。
第百版の巻首に蘆花は、「『浪さん』が肺結核で離縁された事、『武男君』が悲しんだ事、片岡中将が怒って娘を引き取った事、病女のために静養室を建てた事、一生の名残に『浪さん』を連れて京阪の遊をした事、川島家からよこした葬式の生花を突っ返した事」だけが事実であると書いている。 しかし、「大山巌々として物に動ぜぬ大器量の将軍をば……」とか、「体重は二十二貫、アラビア種の逸物も将軍の座下に汗すという……ただこのからだに似げなき両眼細うして光り和かに、さながら象の目に似たると、今にも笑まんずる気はいの断えず口もとにさまよえるとは、いうばからざる愛嬌と滑稽の嗜味をば著しく描き出しぬ」と書かれれば、世間は容易に片岡中将を大山巌であると想像してしまう。 さらに、片岡中将の後妻繁子夫人は「長州の名ある士人の娘にて、久しく英国ロンドンに留学しつれば、英語は大抵の男子も及ばぬまで達者なりとか」でその容貌は、「束髪の前髪をきりて、ちぢらしたるを、隆き額の上にて二つに分けたり。やや大きなる目少し釣りて、どこやらちと険なる所あり。地色の黒きにうっすり刷きて、唇をまれに漏るる歯はまばゆきまで白くみがきぬ」とある。
前髪をカールして額にたらすヘアースタイルは、捨松のトレードマークであった。
捨松の髪形は着物を着た時も同じで、ニューヘイブン時代から夫大山巌が亡くなるまで一度も変えたことはなかった。
明治の古い写真の中にも、「鹿鳴館時代」の上流階級の貴婦人達を多く描いた浮世絵師周延の作品を見ても捨松以外は前髪をちぢらせた女性は一人も出てこない。
新派女優一号となった川上貞奴でさえも額にかかる後れ毛をかるくカールしている程度である。
従っていくら小説であっても、片岡中将夫人に捨松のイメージをだぶらせて読んでいた読者がいても不思議はない。 さらに捨松にとって非常に迷惑だったことは、片岡中将夫人が継娘「浪子」に冷たくあたるいじわるな継母として書かれていることであった。
「げにもロンドンの煙にまかれし夫人は、何事によらず洋風を重んじて、家政の整理、子供の教育、皆わが洋のほかにて見もし聞きもせし通りに行なわんとあせれど、事おおかたは志と違いて、僕婢は陰にわが世なれぬをあざけり、子供はおのずから寛大なる父にのみなつき、かつ良人の何事も鷹揚に東洋風なるが、まず夫人不平の種子なりけるなり」といかにも理性のかった冷酷な女性に仕立てあげられ、主人公「浪子」に読者の同情を誘うために、「慈母に別れ浪子の哀しみは子供には似ず深かりしも、後の日だに照りたらば苦にもなく育つはずなりき。束髪を結いて、そばへ寄れば香水の香の立ち迷う、目少し釣りて口大きなる今の母を初めて見し時は、さすがに少したじろぎつるも、人なつこき浪子はこの母君にだに慕い寄るべかりしに、継母はわれからはさしはさむ一念にかあゆき児をば押し隔てつ。世なれぬわがまま者の学問の誇り、邪推、嫉妬さえ手伝いて、まだ八つ九つの可愛児を心ある大人なんどのように相手にするより、こなたは取りつく島もなく寒ささびしさは心にしみぬ」と十分なお膳立てが出来ていたのである。 私の祖母留子もおしゃまな末娘「駒子」として登場してくる。
祖母は時々「国民新聞」に連載されたこの小説を読み、世の中には随分と自分と似た境遇の人もいるものだと思ったという。
しばらくして、既に嫁いでいた次姉の芙蓉子から「ママちゃんには決して見せてはいけませんよ」とそっと渡された本を読んで初めて大山家の人々がこの小説のモデルとなっていたことに気づいたのである。
そして、祖母は小説の中で余りにも捨松が悪く書かれすぎていることにひどく傷つけられ怒りを覚えたという。 生涯日本語の読み書きに苦労した捨松が小説『不如帰』を読んだかどうかは疑問であるが、小説の内容をそのまま信じこんでしまっている世間の人達の陰口や中傷は、いやでも捨松の耳に入ってきた。
日本の社会は「出る釘は打たれる」の諺通り、捨松のように人と違った体験をし、優れた能力を持った人間、とりわけ女性に対しては拒絶反応を示しひどく風当たりが強いところである。
この『不如帰』騒動で捨松はそのことをいやというほど思い知らされ、晩年になるまで心に深い傷として残った。 大正8年の冬、雑誌「婦女界」に「不如帰の真相」という記事が載り、大山家と三島家の内情を説明した後、終りに「不如帰の小説は姑と継母を悪者にしなければ、人の涙をそそることが出来ぬから誇張して書いてあるので、二人とも現在生存中お気の毒にたえない」と結んであった。
涙を流しながらこの記事を読んだ捨松は、「お信さんは本当に神様のような子だったが、死後私がこのように苦しめられた事を知ったなら、身の置き所もないように悩み苦しんで恐縮した事だろう」と次男柏の嫁武子に語っている。
(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』久野明子 中公文庫 1993年)
「於鹿鳴館貴婦人慈善会之図 / 揚洲周延 筆」(早稲田大学図書館)
「錦絵れきし探偵団」(博物館明治村)
今朝の父の一枚です(^^)v
センダンを写していました。
しどけなく道芝にやすらひて
どむみりとあふちや雨の花曇 (芭蕉翁行状記)
『蕉翁句集』には「道芝にやすらひて」と前書がある。
「しどけなく」は路通の書き加えたものか。
箱根と島田との途中の吟。
「道芝」とは、道のふちに生えた芝である。
道芝に休んで遠くを見ると、空はどんより曇っておうちの花がけぶるように紫の色を浮き立たせている。
景そのものがどんよりとけだるさを誘うようで、それが句のリズムに乗り移っている。
「どむみりとあふちや」と「雨の花曇」とは、いわば言葉の重複で、一つの風景画を描くのに淡い絵具を塗り重ねたような感じである。
その色は同時に、けだるいような作者の心の色でもある。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)
今朝の父の一枚です(^^)v
センダンを写していました。
しどけなく道芝にやすらひて
どむみりとあふちや雨の花曇 (芭蕉翁行状記)
『蕉翁句集』には「道芝にやすらひて」と前書がある。
「しどけなく」は路通の書き加えたものか。
箱根と島田との途中の吟。
「道芝」とは、道のふちに生えた芝である。
道芝に休んで遠くを見ると、空はどんより曇っておうちの花がけぶるように紫の色を浮き立たせている。
景そのものがどんよりとけだるさを誘うようで、それが句のリズムに乗り移っている。
「どむみりとあふちや」と「雨の花曇」とは、いわば言葉の重複で、一つの風景画を描くのに淡い絵具を塗り重ねたような感じである。
その色は同時に、けだるいような作者の心の色でもある。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)