これから暑さがますます厳しくなります。
今までも、リハビリ散歩の時など、人がいないときはマスクをずらしていました。
「“屋外で会話少なければ必ずしもマスク必要なし” 専門家会合」(NHK 5月19日)風もないのにユラユラ揺れていると思ったらアリがしがみついて?いました。
アップで写そうとしたらポタリと落ちました(*´▽`*)
「国連安保理で食料安全保障の会合 米ロが非難の応酬」(NHK)
前に紹介した『物語 ウクライナの歴史』には、
産業の点からいえば、まず農業が挙げられよう。
ウクライナの耕地面積は日本の全面積ぐらいあるし、農業国であるフランスの耕地面積の2倍ある。
21世紀に世界の食糧危機が起こった場合には、それを救う国のひとつはウクライナだという予想さえある。
「ロシア軍が占領地域で穀物収奪、ウクライナが非難」(ロイター 4月29日)気になるニュース
〝「サル痘」カナダなどでも感染報告 欧米中心に感染拡大懸念〟(NHK)
「サル痘とは」(国立感染症研究所)
WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言がなされたのだけど…
「天然痘は人類が撲滅できた唯一の感染症 では次は?」(朝日新聞アピタル 2019年9月16日)父がマラリア(瘧<おこり>)に感染して水をかけて熱をさましたという話を書きました。
それもくみ置きの水(水道がなかった)では、ぬるいので谷川の水を弟たちが汲みに行っていたそうです。
その話から思い出したのは『平家物語』にある平清盛死去の描写です。
初め読んだときは、清盛のこれまでの所業に対する表現でかなりもっているなぁと思ったけど
父の話を聞いていると、感染の苦しみを表現していると思いました。
『現代語訳 平家物語』より「入道死去」と「経の島」、『平家物語 中 新潮古典集成』より「清盛の死」(注解)を転記します( ..)φ
第6巻
入道死去
宗盛(むねもり)が東国へ出発するという日である。
清盛の健康状態が突然悪化し、それがために出発は一時中止となった。
翌くる日、容態は更に急変し、重病の様子を帯びてきた。
「そらみたことか、悪業の祟(たた)りじゃ」と、京都の街は、その噂でもちきりであった。
(『現代語訳 平家物語(上)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
身体じゅうは、火を噴いたように熱かった。
側近のものは病床に四、五間近づいただけで、耐え難い熱さにうたれた。
清盛は意識不明で、唯、「あつい、あつい」とうわ言をいうばかりである。
叡山から冷い清水を汲んできて、水風呂をつくり、それに入ると、水はたちまち湯に変った。
少しは楽になるかと筧(かけひ)の水をかけると、焼けた石や鉄のように水がはね返ってじゅうじゅうと音をたてる。
たまたま清盛の身体にあたった水は、炎になって燃えあがり、黒煙が邸中に充満するという有様で、さながら焦熱地獄であった。 この、どさくさの中で清盛の北の方二位殿がこんな夢を見た。
猛火に包まれて燃えている車が邸内に入ってきたのである。
前後のお供は、馬の顔をしたのや、牛の顔をした者ばかりで、車の前には、無(む)という字の書いた鉄の札(ふだ)が打ちつけてあった。
「その車はどこから」
二位殿が、そういって尋ねると、
「閻魔(えんま)の使いで清盛入道をお迎に参じました」
という。
「その札は」
と聞くと、
「数々の悪業により、無間(むげん)地獄に落すつもりで、無間と書くはずでしたが、間の字を書き忘れたままで」
という返事であった。 夢から覚めた二位殿は、逢う人ごとにこの話をしたが、誰もが薄気味の悪さに、見の気のよだつ思いであった。
ありとあらゆる財宝を投げうって、あらゆる神社仏閣へ病気平癒のお祈りをしたが効果はなかった。
二位殿は熱さをこらえて、枕元に、にじり寄り、
「お気の確かなうちに、何かいいおくことがおありでしたら何なりとも仰せ下さい」
といった。
さすがに日頃、傲慢不遜の清盛も、病気には勝てない。
苦し気な息の下から、彼は弱々しい声で、
「保元平治の乱以来、たびたびの合戦に殊勲を立て、太政大臣に昇り、帝の御外戚にまでなることができ、思い残すことはないが、唯一つ、伊豆の流人(るにん)頼朝の首を挙げなかったことだけが心残りだ。墓も要らぬ、供養もいらぬ、唯一つ、頼朝の首をはねて、わが霊前に供えてくれ」
と、烈しい調子でいった。 清盛の死んだのは、閏(うるう)二月四日だった。
その最後はあまりにも無慚(むざん)なものでありすぎた。
板に水を流したところを、あっちへごろごろ、こっちへごろごろしながら、熱い熱いと、わめき叫びつつ、ついに板の上をのたうちまわって最後の息をひきとった。
時に六十四歳、栄華を極めた人にしては、あまりにも哀れな死にざまである。
同じく七日、火葬にして、骨を円実法眼(えんじつほうげん)が首にかけ、摂津国経(きょう)の島(しま)におさめた。 経の島
清盛の葬儀の夜、いろいろ思いがけないことが起った。
先ず第一に、豪華壮麗を誇っていた西八条の邸が火事で焼けてしまった。
これは、まったく突然の出来事で、出火の原因もはっきりせず、放火だという声もちらほら聞かれた。
また同じ晩、二、三十人ほどの人の声で、「嬉しや水、鳴るは滝の水」と歌いさざめく声がした。
よりのよってこんな晩に、踊り騒ぐなどとは、気の確かな者のすることではない、あるいは天狗(てんぐ)のたぐいではないかと、血気にはやった若侍が百余人声をたよりにしらべてみると、かつての院の御所であった法住寺殿の中から聞えてくる。
ここはこの二、三年、院のお渡りもなく、備前前司(びぜんのぜんじ)基宗(もとむね)というものが留守居をしていた。
この法住寺殿の中では、時ならぬ酒盛が始っていたのである。 基宗の知合いが、二人三人と集っていつか酒を飲み始めた。
時が時だから、静かに飲もうと戒め合っていたのに、いつか酔いが廻るにつれて、ついうっかり大声で拍子をとり、舞まで踊り始める者も出る始末になった。
怪しい歌声と思ったのは実はこの酔っ払いどものさわぎ合う声だったのである。
「時節柄、不届な奴」というわけで、三十人ばかり皆な引っくくられて六波羅へ連れてゆかれたのだが、酔っ払いではいたし方ないとうので無罪放免された。 清盛の骨をおさめた経の島は、応保(おうほう)元年二月につくられたものであるが、一度、大風のために崩れ去ったので、同三年三月再工事にかかった。
その際、人柱を立てようという意見もあったのを、かえって罪なことだと、石の面に一切経を書いて、その代りとした。
そのため経の島と名づけられたが、この島のお陰で、その後、通行の船舶の安全がどれほど、保障されたかわからぬ。
清盛とても決して悪業ばかり重ねていたわけではないのである。
(『現代語訳 平家物語(上)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)*清盛の死
清盛急死は当時驚嘆の衝撃であった。
「去夜戌時入道太政大臣已薨之由自所々有其告、或云臨終動熱悶絶之由巷説云々(返り点など省略)」(『明月記』治承五・閏二・五)。
大仏を焼き、死後の供養を拒み、頼朝を呪って死んだ清盛は、仏に背いた不遜の英雄であった。
その英雄も無常の理を実証して無間地獄に堕ちて行く一亡者にすぎない。
平家物語は哀悼の美文を以て英雄の罪業を断罪するのである。
だが彼の悶死は、反面恐るべき迫力を以て描かれる。
(『平家物語 中 新潮古典集成』水原一校柱 昭和55年)詳細を極めた死の描写――それは文学的には礼讃とさえ見なしうるのではないか。
この英雄と無常との背反する二律のいずれに平家物語の立場があるのか。
永遠に繰り返される課題のようである。
優れた文学は大きな主題とともに大きな反主題を抱くと言うべきか。
当時の人々がすでに清盛解釈に種々の動揺を見せていた。
ともあれ歴史は宗教時代から英雄時代へ向かってゆく中で、清盛の海外への雄心をも秘めていた姿は巨大である。
経が島はまさにそのことの象徴であろう。
(『平家物語 中 新潮古典集成』水原一校柱 昭和55年)
今朝の父の一枚です(^^)v
なかなか面構えが凛々しいなぁ!
「スズメ」って何者?
…前略…
スズメというと、地味で茶色い鳥というイメージがあると思います。
でも15ページの絵(省略)を見てください。
よく見ると、その背中はとても複雑な模様をしています。
首からほっぺたあたりの白さもそれを際立させています。
そして、なかなか渋さもあります。
江戸時代には、この渋さが好まれて、スズメの色というのは着物の色の基本に使われたくらいです。
(『スズメの謎 身近な野鳥が減っている!?』三上修 誠文堂新光社 2012年)