父が夜中に雷が鳴っていたと言っていましたが
気がつかなかったなぁ(^^ゞ
Eテレ0655今週のたなくじは
「のどが渇く前に水を飲むと吉」と出ました。
気温が急に上がってきたので水分補給とマスクに気をつけなくてはいけない!
〝「新しい生活様式」における熱中症予防行動のポイント〟(厚生労働省) NHK NEWS おはよう日本で
久保達彦広島大学教授がモルドバで避難民の医療支援に日本の経験を伝えていました。
課題となったのが「情報の共有」
患者の状況把握を各国チームで共有するためにカルテの報告様式をシンプルにすること。
このカルテの報告様式は2011年の東日本大震災での苦い経験から生れています。
当時、どこのチームが、どこで、どんな患者を何人治療したのかその集計が当時は全くできなかった。
救援医療に携わったチームのカルテが、ばらばらなものを使ってしまっていたので、カルテを引き継ぐことができなかった。
そこで、けが、感染症、皮膚の病気など災害現場でよくみられる基本的な50項目に絞りました。
2016年の熊本地震でこのカルテが初めて導入され威力を発揮しました。
避難所で下痢などの症状が増え、感染症の拡がりを察知。
消毒液などの衛生用品が送られ、ニーズに合わせた医療支援が可能になったそうです。
「ウクライナ避難民に必要な医療支援」(解説委員室 NHK 5月2日)パソコンを修理していて、過ぎてしまったのですが、5月12日は、
ナイチンゲールデー
イギリスの看護師で「近代看護学の母」とも称されるフローレンス・ナイチンゲールは、クリミア戦争での負傷兵への献身的看護で知られている。
宗教系ではない看護学校として、世界初のナイチンゲール看護学校を設立した。
彼女の誕生日を記念して、ナイチンゲールデーが制定された。
国際看護師の日
1962年、国際看護師協会(ICN)がナイチンゲールの誕生日にちなんで制定。
日本では、当初「国際看護婦の日」と呼んでいたが、2002年に看護婦の呼称が看護師に変更されたため、「国際看護師の日」と改称。
(『世界の祝祭日の事典』中野展子 東京堂出版)第1次世界大戦ではスペイン風邪がパンデミックを引き起こしました。
発生源はスペインでなく
「世界を揺るがしたスペイン風邪の発生源は米国だった」(板谷敏彦 エコノミストOnline 2020.4.25)
クリミア戦争ではコロナのパンデミックが起きています。
その感染力の凄さは… 黒海艦隊の報告
以下の引用は、1854年8月22日付のバルジク〔ブルガリア〕の黒海艦隊の軍医将校の手紙からのもので、9月30日付の『メディカル・タイムズ・アンド・ガゼット』に掲載されたものである。
「艦隊がバルジクへ戻ってから1週間後の8月7日、約4000人のフランス軍がわれわれの停泊地の上の高台に野営した。
彼らは、約10日前にコステニェ〔アルバニアの中東部の地名〕に進軍した第一師団の一部であったが、それによって、同盟軍†の側に最初の流血が見られた。
戦闘での損失は少なかったが、彼らは、ロシア人以上に恐ろしい敵に遭遇していた。
彼らの間でコレラが発生し、最初の夜だけで400人が発症し60人が死亡した。
損害の合計は信じられないほどだった。
1万1000人の兵士のうち5000人が数日間に亡くなったという。
この恐ろしい災難は、腐敗した死骸を放り込んだ井戸の汚染された水を飲んだことが原因だった。
†(訳者中)クリミア戦争(1853~56年)におけるイギリス、フランス、オスマン帝国、サルデーニャ王国の連合軍。
(『コレラの感染様式について』ジョン・スノウ著 山本太郎訳 岩波文庫 2022年) 「こうした破壊的事象を最もよく説明する意図的な毒の投与という疑問はさておき、この例はコレラの毒素が水を媒介して運ばれるという説の裏付けとなる。
それは、私が目撃した別の状況でもそうだった。
コレラの感染地からの行軍で疲弊した兵士たちは自分たちの身体や衣服を、フランスの全艦艇やイギリス艦隊の大部分が水を得ていた小川で洗っている姿が数多く見られた。
これが〔8月〕7、8日とつづいて、9、10日の夜には、いくつかの艦艇の乗組員の間で病気が流行した。 「9日の夜、何隻かのイギリス艦が最初に被害を受けた。
それらの艦艇は翌朝、沖合に出た。
10日の夜、他のイギリス艦とフランス艦の何隻かに被害が出始めた。
被害はフランス艦の方で圧倒的に多かった。
「二隻の旗艦モンテベロとヴィル・ド・パリの被害は大きかった。
前日はいつものように元気に過ごしていたが、コレラの襲われた夜には、モンテベロで200人の男性が発症し、朝までに40人が死んだ。
ヴィル・ド・パリにも多くの死者が出た。
フランス艦隊は11日の午後に出港し、翌朝にはイギリス艦隊も出港したのが確認された。
* * * *
「14日の正午頃、元気に出港したブリタニア号で、突如、コレラが発生した。
20時間で50人以上の乗組員が亡くなった。
各艦からの報告が提督に送られてきた翌朝まで、私たちは死亡者数について何も知らなかったが、それは、提督を圧倒するほどの規模であった。
16日の夜までに80人が死亡し、200人以上が多かれ少なかれ危険な状態にあった。
「16日の夜、艦内は大恐慌をきたしていたに違いない。前日はいつものように元気に過ごしていたが、コレラの襲われた夜には、モンテベロで200人の男性が発症し、朝までに40人が死んだ。
ヴィル・ド・パリにも多くの死者が出た。
フランス艦隊は11日の午後に出港し、翌朝にはイギリス艦隊も出港したのが確認された。
* * * *
「14日の正午頃、元気に出港したブリタニア号で、突如、コレラが発生した。
20時間で50人以上の乗組員が亡くなった。
各艦からの報告が提督に送られてきた翌朝まで、私たちは死亡者数について何も知らなかったが、それは、提督を圧倒するほどの規模であった。
16日の夜までに80人が死亡し、200人以上が多かれ少なかれ危険な状態にあった。
流行は、暴力的な状況でつづいた。
士官たちは自発的に患者を看護したが、コレラを発症しなかった乗組員と看病していない乗組員では、航海中の任務を遂行するには不十分であった。
したがって提督は、ひどく被害を受けたトラファルガーとアルビオンを伴って、バルジクに戻ることを決断した。
「ブリタニア号の乗組員たちは、すぐに小さな集団に分かれて艦から離れ、稼働していない輸送船へ送り出された。
これによって、伝染病の影響は、根絶されていないにしても、大幅に緩和されたようだ。」
(『コレラの感染様式について』ジョン・スノウ著 山本太郎訳 岩波文庫 2022年)1831年
良寛が他界したころ、ヘーゲルがコレラで死す!
禅僧・歌人・書家として知られる良寛(1758年生まれ)が死去したのは1831年。
前年秋にかかった「重い痢病(赤痢のたぐい)」が原因だった。
晩年、五里の道のりを長岡から国上山(くがみさん)の五合庵に通ってきた弟子貞信尼(ていしんに)らに介抱されながらの最期だった。
良寛については、さまざま語られているが、そのほとんどは口碑(こうひ)で、彼自身が書き残しているのものは少ない。
同じ年、ドイツの哲学者ヘーゲルがアジアから広まったコレラで世を去っている。
ちなみに十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)もこの年に他界している。
(『日本史・世界史 同時代比較年表 そのとき地球の裏側で』楠木誠一郎 朝日選書 2005年)1858年
日本でコレラが大流行しているころ ドイツの病理学者が『細胞病理学』を出版!
日本ではじめてコレラが流行したのは1822年だが、最大の流行は1858年だった。
長崎に入港した米艦ミシシッピ号から持ち込まれた。
九州から箱館まで広がり、「ころり」と死ぬことから、そのまま「ころり」と呼ばれた。
江戸だけで死者10万人とも26万人ともいわれる。
その年、ドイツの病理学者フィルヒョー(1821~1902)が『細胞病理学』を出版。
生命の最小単位が細胞であり、病気も細胞の活動であることを明らかにした。
(『日本史・世界史 同時代比較年表 そのとき地球の裏側で』楠木誠一郎 朝日選書 2005年)
「ドイツの切手に現れた科学者、技術者達(27)ルドルフ・フィルヒョウ」(関東化学株式会社 平成21年10月1日)
今朝の父の一枚です(^^)v
シオカラトンボ[トンボ科]
未成熟のときは胸・腹部は黄褐色であるが、雄は成熟すると黒くなり、体表に白い粉が生じるので全体に灰色に見える。
雌は成熟しても黄褐色のままで、別名ムギワラトンボともいい、別の種類と思っている人もいる。
開張(かいちょう)は85㎜前後。
●日本全土の平地や丘陵地の池や沼、さらに公園の池や学校にプールなどにも生息し、もっとも普通に見られるトンボの一種である。
●出現期は4~10月。
●雌は尾端で水面を連続的に打つように産卵する(打水産卵と呼ぶ)。
●本種に似たものに大シオカラトンボがいるが、こちらの方がやや大きく太めで、体色も濃い。
(『校庭の昆虫』田仲義弘・鈴木信夫 全農教 平成11年)