2020年2月6日木曜日

寒かったけど…

今朝は、冷え込んだのですが、まだ氷が張っていませんでした…
心臓機能が低い私にとって暖冬が続くのは嬉しいけど
夏に蚊が大量に発生するのかなと思うと不安です。
北~西日本 厳しい冷え込み 東京都心では観測史上最も遅い初氷」(NHK)
2月6日 
 森有礼(もりありのり)が契約書交換の結婚式をあげた。 1875(明治8)年
 27歳の森有礼は19歳の広瀬阿常(おつね)と、東京府知事大久保一翁(いちおう)の前で福沢諭吉を証人として結婚式をあげ、つぎのような意味の契約書をとりかわした。
 二人は相敬し相愛し夫婦の道を守ること。
 二人の共有の品は、双方話し合いの上でなければ、他人に貸したり売買したりしないこと。
 この結婚式は当時たいへん珍しがられ、各新聞で報道された。
 アメリカに留学したこともある森は、1873年に福沢諭吉らと「明六社(めいろくしゃ)」を作り『妻妾論(さいしょうろん)』等を書いて封建的な家族制度や男尊女卑思想を批判した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
今夜、午前0時25分から再放送があるのですが
前から気になっていたマイクロプラスチックのことを知ることができました。
マイクロプラスチック自体は体外へ排泄されるから〝無害〟だそうです。
でも、海洋に薄く広がっている有害物質(PCBなど)を集めてしまう性質があるそうです。
有害物質を吸着させたマイクロプラスチックを魚などが体内に取り込んでしまう。
それを私たちが食べる…
又吉直樹のヘウレーカ!「プラスチックがどうにも止まらない!?
コサギ〔小鷺〕コウノトリ目・サギ科

〝白鷺〟の中では最もポピュラーで、数も多いのがコサギである。
狩野派がよく取り上げていたが、今でも日本画では,よく見られる。
蓮の花や枯葦と一緒に描かれることが多いが、コサギが活発に動きまわっている姿よりも、くびを縮め、背を丸めかげんにし、じっと立っている姿の方が多いようだ。
あの姿には淋しさと孤独と、それにちょっぴり哲学的な雰囲気がある。
コサギは繁殖期になると頭から二本の長い飾羽と肩から背に飾羽が生じる。
北半球の温帯にある日本では、繁殖期が、春から夏の間だから、一般にはよく夏羽と言われたするが、枯れた蓮や蒲の穂とは季節が全々違うのである。
季節によってコサギも姿が違っているのだから、絵を描くときにはそこまで気をつかって描いて欲しいものだ。
(『都市のバードウォッチング・バイブル』
  千羽晋示・柳沢紀夫著 朝日出版 1981年)
ダイサギは池沼の深みにじっと立ち、近くを通る魚などを捕えるが、コサギは浅瀬を走りまわって餌を追ったり、片足を底でふるわせ、泥中にいる生物が動きだしたところを捕える。
よく似た種類のダイサギとコサギが同じ方法、同じ場所で餌をとっていたのでは競争になってしまい、どちらかが滅んでしまうだろう。
ここに自然の仕組みの巧妙さを感じることができる。
コサギは池沼、河川、湿地、海岸など水辺にすんでいるが、最近は山間の流れにまで入り込んだり、住宅地の庭の池に現れたりすることも多くなっている。
彼らが本来必要としている自然が失われてしまっているために、少しずつ新しい環境になじもとしているのだろうか。
それにしても十分な量の餌を確保するには住宅地の池などでは何ヵ所もさがして飛びまわらねばならないだろうから、広い範囲で生き残れるのはやっと一羽だけということになる。
(『都市のバードウォッチング・バイブル』
  千羽晋示・柳沢紀夫著 朝日出版 1981年)
女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』(永井路子著)より
吉野ヶ里の謎から清盛へ」を転記しますφ(..)
吉野ヶ里の謎から清盛へ
 遺跡発掘で話題を呼んだ吉野ヶ里から話しだしたら、呆れる方もあるかもしれないが、じつは、ここには「大平家商事」を解く大きな鍵がひそんでいる。
というのは、あの吉野ヶ里では大陸や朝鮮との交流があり、それら海の向こうのものは、有明海から伝えられた、ということが今度の発掘であきらかになったからだ。
 ある考古学者とお話していて、偶然、吉野ヶ里の話が出たとき、その方は、
「やたらに大騒ぎをしてますがね、唯一の収穫は、有明海経由の交流が証明されたことだけでしょうね」
 と、さりげなく言われた。
もう一つ、つけ加えておくと、別の考古学者の話では、あの遺跡は、邪馬台国よりも古いのだそうである。
「みんな邪馬台国にきめておられますがねぇ」
 と、その方は閉口しておられた。
 有明海は遠浅なので、港には不向きだ、と考えられがちだが、昔は海岸線がかなり内陸部まで入っていたらしい。
大型の船の出入りも、今よりずっと自由だった。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』永井路子 PHP研究所 1992年)
 さて、この吉野ヶ里あたりは、平安時代には神崎荘(かんざきそう)と呼ばれる荘園になっていた。
現在は有明海からは隔てられているが、その当時は、海に面していた荘園であったことは疑いない、と、この荘園にうちて研究された瀬野精一郎氏は書いておられる(『肥前国神崎荘史料』、なお、崎は埼とも書かれた)。
「神崎荘」の名前は、すでに平安朝中期に見えているし、そのころは皇室領の荘園になっており、その後、白河・鳥羽院のころには、院領の荘園になった。
 この神崎荘を鳥羽院から預かって管理したのが、清盛の父、忠盛だった。
ちょうどそのころ、有明海に宋の船がやってきた。
本来ならば、こういう場合、大宰府のお膝元である博多湾に廻航させ、大宰府の役人が貿易の交渉にあたるべきなのだが、忠盛は、
「神崎荘は、鳥羽院の御領分である。だからここについた船については、大宰府は関与してはいけない。これは院の仰せによるものだ」
 と言い、直接貿易を行おうとした。
大宰府側はかんかんで、中央に、
「忠盛は密貿易をやっております」
 と訴えている。
が、そのために忠盛が罰せられた気配がないところをみると、最高権力者である鳥羽院の御威光で、ことはうやむやに終ってしまったのか。
 もっとも当時、九州では大宰府を無視して勝手に貿易をやっている連中は多かった。
なにしろ、現在のように、外国船の着く港が決まっていたわけではない。
「船は博多だけではありません。唐津へでもどこでもやってきました」
 と言われたのは、福岡でお目にかかった大圓寺(だいえんじ)住職、波多野聖雄(はたのせいゆう)師で、いまは福岡にある櫛田(くしだ)神社も、もともと神崎荘にあったことなども教えてくださった。
その波多野師のお話では、海の交通は四通八達(しつうはったつ)で、いまは陸地になっている福岡県前原(まえばら)町のあたりは唐津湾と博多湾を結ぶ糸島(いとしま)水道があり、物資輸送の重要ルートにもなっていたという。
 まさに九州は対宋貿易のための開かれた土地だったわけで、神崎荘を預かった忠盛が、これを利用しないはずがなかったのである。
貿易で手に入れた宋からの輸入品は、多分背後の背振(せぶり)山を越えて北へ運ばれ、そこから都をめざしたと思われるのだが、さて問題はその先である。
 いかにして、この宝物を安全に都へ運ぶか。
 当時の治安は、無警察状態に近い。
いくら鳥羽院領の荷物だといっても、無事に運べる保証はない。
在地の弱小勢力なら密貿易といっても量はたかが知れているし、都へ運ぶなどということはせず、近くの仲買と取引してしまうわけだが、忠盛の場合はスケールが違う。
 そう思ったときに、改めて気づくのが、忠盛の周到さである。
この事件の起こる数年前に、彼は朝廷の命令をうけて、山陽、南海道の海賊の追捕(ついぶ)を行っているのだ。
 海賊というといかにも盗賊団のように聞こえるが、実体は瀬戸内海や九州沿岸の海の武士団である。
彼ら自身も密貿易をやっているし、金目(かねめ)のものを積んだ見知らぬ船が通ると、
「水先案内をしてやろう」
 といって近づく。
瀬戸内海には、島も暗礁も多いことは事実だから、慣れない船には、たしかに案内人が必要だ。
すなおに案内料をさし出せば案内してやるし、断ればたちまち海賊に変じて積荷を奪う。
そうした連中が、あちこちにはびこっていた。
忠盛は有力な武士を率いて、彼らを征服したのである。
こうしておけば海路も安全、まんまと忠盛は密貿易品を都に運びこみ、巨利を得ることができた。
 と書けば、忠盛が陣頭指揮して華々しい海戦でもやったようにみえるが、彼の海賊追捕は、しかし、そんなものではなかったらしい。
これは密貿易の後だが、彼はもう一度海賊征伐を行って、その賊の何人かを捕らえて都入りした。
そのとき捕らえられた彼らは口々に言ったものだ。
「私どもは、ほんの小者でして。忠盛さまはもっと強い大ものを全部手なづけて家人としておしまいになりやした。そして私どもような力の無(ね)え奴らだけを摑まえなすって、都に連れておいでになりやしたんで、へい」
 忠盛のたくみな懐柔策がわかろうというものだ。
これは瀬戸内海の海賊の場合だけにかぎらない。
肥前(ひぜん)の松浦党や、大宰府官人の系譜を引き、すでに在地化していた大蔵(おおくら 原田)氏等も、こうして平家の傘下に入った。
 もう「大平家商事」の成立は目前である。
いや、現代の商事会社よりも強固な地盤ができた、と見てもいい。
いわば商社が独自の軍事組織まで持っているようなものではないか。
いくら巨大な現代商社も、自前の軍艦の護衛つきでタンカーを動かしているわけではない。
そう思えば、忠盛の軍事力を背景にした凄みわかろうというものだ。
 さらに、彼は、備前(びぜん)、美作(みまさか)、播磨(はりま)などの国の守(かみ)を歴任している。
陸地も勢力下におさめて、海に睨みをきかすこの態勢によって、瀬戸内海は、ほんとうに平家の地になった。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』永井路子 PHP研究所 1992年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♀が地上に舞い下りて、朝ごはんを真剣な顔で探していました(*´▽`*)

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今日の名言
理性、判断力はゆっくりと歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる。
 ルソー『エミール』(上)

偏見は知らない、分からないことから発生してくると思います。
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