2020年2月4日火曜日

立春

今日は「立春」。
それにしてもこの冬、公園で田んぼや池で氷が張っているのをみたことがない…
「さっぽろ雪まつり」きょう開幕 新型肺炎や雪不足の影響も〟(NHK)
薬局に行くと、マスクや消毒液の棚が空っぽです。
マスクは新型コロナウイルス騒動が起きる前から買ってあるのだけど
品不足に乗じて高くマスクを売るサイトがあるみたいですね。
マスクで、ウイルスを完全に防ぐのは難しいと思います。
マスクがなければ手洗いをしっかりするといいと思います。
 「新型肺炎 知っておきたい “ひじブロック” と “ねじり洗い”」(NHK)
立春の歌を『四季の歌 恋の歌―古今集を讀む』より紹介したいと思いますφ(..)
なお、漢文の返り点は「(レ)」などと表記しています。
 5 四季の歌 春1
 四季の歌の春の部から、古今集の巻々を順に追って読んでゆきましょう。
 まず、二番の歌から

   春たちける日よめる
  袖ひぢてむすびし水のこほれるを春たつけふの風やとくらむ 二   紀貫之
(『四季の歌 恋の歌―古今集を讀む』大岡信 筑摩書房 昭和54年)
 この歌は紀貫之の歌で大変よく知られた歌です。
つくり方が、古今和歌集がつくられた当時の歌風をよくうかがわせます。
「袖ひぢて」の「ひぢて」はぬらして。
「むすびし水の」の「むすぶ」は水をすくうということ。
袖をぬらしてすくった水が凍っていたのを、春立つ今日、「春立つ」は立春のことで、旧暦ではおよそ立春が元旦に重なったわけですが、春立つ今日の風がとかすであろうか。
「とく」はとかすです。
「とくらむ」の「とく」が上の「むすぶ」と対応していまして、こういう対応関係が意識的に用いられている両語を縁語といいます。
 この歌は中国の四書五経の五経のひとつに『礼記(らいき)』という本があります。
周末から秦を通って漢の時代までの儒者の書いた本で、宮中における礼法に関するいろいろな説をあつめたものです。
『大学』とか『中庸』とかという有名な本もこの『礼記』に含まれるわけです。
この『礼記』の中に「月令(げつりょう)」という篇があります。
古代中国で公式の年中行事を十二か月それぞれの季節に行った、その年中行事に関して書いてある記録を集めた本です。
この本が日本に入って来て宮中の年中行事にさまざまな影響を及ぼしました。
日本ふうに変えてはあるのですが、根本的には中国の暦の知識を日本が受け入れ、それに基いて十二か月に割りふられた年中行事を、日本人が模倣しながら日本ふうにつくり上げていったのです。
その「月令」の中に、春が立つと「東風解ク(レ)」という一節があり、貫之の歌はこの立春になると東の風が氷を解くという知識をふまえてつくられた歌です。
東という方角は季節では春を意味していました。
「東風」とは春風です。
春風が吹くころになれば当然氷もとけるわけですが、それを自然の成行きまかせで歌うのでなく、立春の日に春風が氷を解くという、中国の言葉をわざわざふまえて歌をつくったわけで、一種の権威主義ですが、中国のものに拠るというところに、当時の人びとの新しい知識を喜び迎える気持、権威あるものを求める気持が働いていた。
歌人たちはそういう知識をふまえて歌をつくることによって、それまで全盛を誇っていた漢詩の領域に和歌も肩を並べうるのだと考えたのでしょう。
 暦の知識の上に立った歌はこの歌だけでなくて、古今集にはいくつもありますが、この歌の場合、立春になっても必ずしも東の風が吹くわけではないと思いますが、東から吹いてくる春の風が冬の間に凍りついた氷をとかして、躍動する春の喜びがやってくるだろうという心でうたっているのです。
 この歌は、もう少し近寄ってみるとなかなかおもしろい。
「袖ひぢてむすびし水の」と言っているのはいつ頃を指しているか。
明らかに去年の夏のことを言っています。
昔の人は夏になると水辺に出て涼む、つまり納涼ということをしました。
水辺で水にたわむれた、その時に袖がぬれたという去年の夏の記憶があって、その水がやがて秋を経て冬になると凍ってしまった、という時間の経過があり、その凍ってしまった水も、今日立春になったからには、東から吹いてくる春風にとけていくのであろうか、ということになる。
この歌には、したがって夏から秋、冬という季節のめぐりがふまえられて春に来ているので、ほとんど一年間のことを一首の歌でうたってしまっている。
もう少し考えを進めてみましょう。
 現実にとけるのは氷ですから冬のものですが、その氷の中には夏の思い出がとじこめられています。
この歌で春風がとき放ってくれるものは、凍った水だけではなくて、その水にまつわって思い出されてくるたのしかった去年の夏の行楽の日々の思い出までとき放たれてくる。
ですからこの歌は目の前の実景をうたっているわけではありません。
先にも言ったように、暦の知識に基づいてうたっているわけですが、その知識の中には、実際に自分たちが去年水辺で遊んだときの実生活の記憶も加わって一首に味がついている。
知的であったも概念的であるというわけではなく、むしろ季節にまつわる人間生活の喜びが、具体的に作者紀貫之の中では思い出されているということが言えます。
 一首の歌の中で相当長い時間をうたってしまうこととか、自然の水が凍ってやがて解けるというような自然現象にひっかけて、水辺で友達と楽しく遊んだ過去の日の日常生活の記憶も呼び戻されているといわけで、一首の中にいろいろな内容が含まれているところに、古今集の歌の方法の一特徴があるわけです。
大体、紀貫之はひとつのことをうたっているように見せかけて実はいくつもの内容をうたうということに大変長けていた人で、それが紀貫之を古今時代の代表的な歌人にした理由のひとつだと思います。
今の歌からいくつも思い出されてくる歌がありますが、その中に次のような歌があります。
…(後略)…
(『四季の歌 恋の歌―古今集を讀む』大岡信 筑摩書房 昭和54年)
昨日の記事で一風変わった厄落しを紹介しましたが(^_-)-☆
三省堂 年中行事事典(旧版)』より「厄落とし」を転記しますφ(..)
厄落(やくお)とし
 男の25歳・42歳、女の19歳・33歳などの厄年の者が災厄をまぬかれるために行なう儀礼。
正月ないしは節分に行なわれることが多い。
厄払い、厄除けなどという語も同じ意味で用いられることがあるが、とくに厄落としという場合には、何かに厄をつけて落とす呪術的な儀礼をさすことが多い。
広く各地にみられるのは、節分の晩に自分の年齢の数だけの豆を辻や村境などに落としてくるというものである。
このとき、他人に見られてはならない、後ろを振り返ってはならない、ともいう。
わざわざ物乞いの前に紙につつんだ豆や銭を落して拾わせるような例もある。
湯具を落とすこともあった。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
このほか、人を招いて宴を張ったり、餅を配ったり、あるいは小正月の訪問者として餅をもらい歩いて食べたりする共食の儀礼によって厄を逃れようとする習俗もある。
さらに、年重ねなどと称して、小正月・2月1日・節分・6月1日などに門松を立てたり雑煮を食べたりしてもう一度正月を迎え、一つ余計に年をとったとして厄年をやり過ごす風もある。
また、節分の晩の社寺参拝は厄参りなどといって、厄落としのために参るものとされる。
近世の江戸や京坂には、節分の晩に厄落としの祝いの言を唱えて歩く門付けの者があった。(小嶋)
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)