2020年2月27日木曜日

青空と雨雲が同居…

青空が広がっているなと思うと、黒い雲が出てきて雨が降り出し
しばらくするとまた青空、そして雨の繰り返しでした。
山を歩いていた頃は、空を見上げながら雲の動きをよく見ていました。
天気の移り変わりを見るためですが
空を見上げると疲れがやわらいでしました。
又吉直樹のヘウレーカ!「雲の“心” 読めますか?」で
荒木健太郎さんが「地震雲」だと騒ぐ人は、雲愛が足りないからだと話していました。
確かに、地震雲と検索して表示される雲は、見慣れた雲が多いなと思います(^_-)-☆
地震雲はあるのですか?」(気象庁)

今回の「だましの手口が今、明らかに!」も面白かったです(^^)v
2月27日 
 徳川光圀(みつくに)が『大日本史』の編さんを始めた。 1657(明暦<めいれき>3)年

 江戸小石川の水戸藩邸を大火で失い、駒込(こまごめ)の別邸(現、東京大学農学部)に移っていた徳川光圀は、この日、その邸内に史局(しきょく)を作り、『大日本史』の編さんをはじめた。
史局は、人見林塘(ひとみりんとう)、辻端亭(つじたんてい)など4人の儒学者や、文庫番1人、下僕(げぼく)2人のこぢんまりとしたものだった。
 61年に光圀が二代藩主になると学者もふやされ、史局は小石川の本邸に移されて彰考館(しょうこうかん)とよばれた。
館員には昼夜の食事がだされ、仕事が終ると館内で入浴もできた。
朱子学の立場で編さんされていった『大日本史』39巻が完成したのは、1906年であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
東京新聞労組のTwitter

会議時間は平均11.9分…
あ然とする安倍首相の新型コロナ対策
「何かを議論して決める場というより…首相がペーパーを読む姿をマスコミのカメラに撮らせる場になっていました」


検索すると
午後0時20分から同32分まで、新型コロナウイルス感染症対策本部。」(時事ドットコム 首相動静 2月26日

新型コロナウイルス 政府 対策基本方針を決定」(NHK 2月25日)で
イベントの開催は現時点で、全国一律の自粛要請は行わない
としていたのに翌日には

首相 大規模なスポーツやイベント 中止か延期など求める考え」(NHK 2月26日)
たった1日で変わる!朝礼暮改ですよね。
会議は長ければいいのではないけど、首相がテレビに映るだけでいいという会議では、いい加減なことしか決まらないのだと思います。

首相や大臣は、時代劇の「水戸黄門」で
どんな登場人物の役をされているのでしょうかね!
この時期、新型コロナに限らず、インフルエンザにかからないかビクビクしています。
だいぶ前ですが、朝、起きたときに頭がくらくらするので熱を測ったら39度を超えていました。
その日は、日曜日で病院は閉まっていました。
とりあえずスポーツ飲料などを買いに出かけ、
帰宅後、大人しく寝ていたら夕方近くまでに37度台に下がりました。
当時は、発病前なのでなんとか回復できました。
でも、今は、心臓の機能が低いので、感染すると厳しい状態になると思っています。
できることは、インフルエンザに対するように手洗い。
新型ウイルス『家庭でできる予防対策』ハンドブック公開」(NHK)
今朝も50mmマクロでリハビリ散歩をしていました。
昨日の二・二六事件(1936年)については語られていませんが
当時の社会的背景がわかります。
それでも、日本人は「戦争」を選んだ』より
陸軍のスローガンに魅せられた国民」を転記しますφ(..)
 戦争の時代へ 
   陸軍のスローガンに魅せられた国民

 それでは、いよいよ日中戦争へ向けた話に入ります。
満州事変が1931年に起きて、日中戦争が37年に始まる。
この6年の間になにが起ったのか、大きな流れをお話しします。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子 朝日出版社 2009年)
 一つ目に考えたいことは、当時の社会のなかで軍部がどのように見られていたかということです。
まず、軍隊というものが、その物理的な圧力でもって政治に介入することは、立憲制がとられた世の中では不当なこと、正しくないことです。
しかし、ここが悩ましいところで、本来、政治に干与してはいけない集団が、政治がなかなか実現できないような政策、しかも多くの人々の要求にかなっているように見えた政策を実現しようとした場合はどうなるか。
満州事変から日中戦争の間の6年間に起っていたのは、そのような悩ましい事態でした。
 さて、1930年の産業別の就業人口を見てみますと、農業に従事する人は46.8%いました。
国民の約半分が農民だったのですね。
ですが、1928年から政党内閣のもとで行われた、25歳以上の男子に認められた、いわゆる普通選挙権によってなされた選挙は3回あったのですが、その農民が望んでいた政策は、普選を通じてもなかなか実現されなかった。
たとえば小作人の権利を保障する小作法などの法律は、すべての農民が望んでいたにもかかわらず、帝国議会を通過しない。
 しかも29年から始まった世界恐慌をきっかけとした恐慌は日本にも波及し、その最も過酷な影響は農村に出たのです。
そうしたとき、政友会も民政党も、農民の負債、借金に冷淡なのです。
たとえば、生糸(きいと)を生みだす蚕(かいこ)は桑の葉を食べますが、この桑畑が害虫でやられてしまったとする。
そうしたときに低利で金を貸してもらえれば、その農家は打撃から回復できますが、もし高利貸しなどに手を出してしまったらアウトですね。
にもかかわらず、農民に低利で金を貸す銀行や金融機関をつくれという要求は、政友会や民政党などの既成政党からは出てこない。

 このようなうなときに、「農山村漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」と断言してくれる集団が軍部だったわけです。
ここにカッコつきで引用したスローガンは、陸軍の統制派といわれた人々が34年10月に発行した「国防の本義と其(その)強化の提唱」といわれるパンフレットに載っている言葉です。

・「国防の本義と其強化の提唱」(13/42 国立国会図書館)
 さらに、当時の農村が、軍隊に入る兵士たちの最も重要な供給源だったことも頭に入れておいてください。
当時は、いまだ徴集猶予(ちょうしゅうゆうよ)という制度があって、旧制の中等学校、高等学校、大学などで学んでいる男子に対しては、徴兵検査を施(ほどこ)しても、実際には軍隊に徴集しない仕組みがあった。
また、大企業や重化学工業などの工場で働く熟練労働者などは徴集されなかった。
となると、どうしても、兵士になるのは上級の学校に進学できない階層、しかも都市ではなく農村部の人々が多かったのですね。
  陸軍には皇道派と統制派という二つの派閥があると説明しましたが、皇道派は隊付将校(たいつきしょうこう)と呼ばれた人々に多かった。
連隊に入営していた農民出身の兵士たちと兵舎で寝起きをともにしているような人たちです。
一方、統制派は、陸軍士官学校や陸軍大学校を卒業し、陸軍省や参謀本部などの中央官庁の中堅として働く人々が多かった。
陸軍パンフレット、略して陸パンなどと呼ばれましたが、この陸パンは、悲劇の人そてい紹介した最も典型的な統制派軍人・永田鉄山(ながたてつざん)が、陸軍省軍務局長の地位にいたときに作成されたものです。
 陸パンの内容を少し紹介しておきましょう。
なかなか読ませます。
わざと旧仮名づかいをそのまま残して書いておきます。
「たたかひの定義」として、「たたかひは創造の父、文化の母である」とまあ、こう始まるわけです。
いままでの統制派は、どちらかというとう軍備増強のことばかりいっていて、帝国議会で軍事予算が通ればそれでいいとの態度をとってきました。
けれども、ここでちょっとスタンスを変えてくる。
国防とは軍備増強だけではないといいはじめる。
国防は「国家生成発展の基本的活力」だと定義するのですね。
そして、いちばん大事なのは国民生活。
「国民生活の安定を図るを要し、就中(なかんずく)、勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済は最も重要」と書く。
なんだか、今の政党の選挙スローガンとまちがえそうな文句ですね。
 同じく陸軍の統制派が、34年1月に作成した計画書「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」にも、農民救済策が満載されていました。
政友会の選挙スローガンなどに農民救済や国民保健や労働政策の項目がなかったのに対して、陸軍はすごいですよ。
たとえば、農民救済の項目では、義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護をめざすなどの項目が揚げられ、労働問題については、労働組合法の制定、適正な労働争議調停機関の設置などが掲げられていた。
戦争が始まれば、もちろん、こうした陸軍の描いた一見美しいスローガンは絵に描いた餅になるわけですし、農民や労働者の生活がまっさきに苦しくなるのですが、政治や社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるをえない国民の目線は、確かにあったと思います。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子 朝日出版社 2009年)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、新潮文庫でも読むことができます。

昼からテレビを見ていた父の呼ぶ声…
見に行くと、テレビの音声は聞こえるのに画面は真っ黒…
いろいろ触ったけど分からないので、テレビの裏を見ると「2008年製」。
寿命かなと諦め、いつもお世話になっている電気店に行って注文しました。
大きなテレビは、部屋に入らないので小さいの頼みました(20インチ程)。
今、新型コロナウイルスの関係で搬入が遅くなるそうです。
いろんな所に影響が出ています。