叡山電鉄「出町柳駅」から電車に乗らずに(^v^)
鴨さんの「新作を楽しむ金平糖 緑寿庵清水」の記事を読んで訪ねました。
平日なのにお店の中は女性客でいっぱい
おっちゃんはなんか肩身が狭かったです(^^ゞ
実は,今朝は天候が悪いためか気分が悪く
電車の中で何度か引き返そうかと思ったくらい…
でも,店内で金平糖の味見をさせてもらったおかげで
元気が出て,次の目的地に行こうという気力がわきましたp(^-^)q
店内は撮影禁止だったので,これは店の外…
右下にあった説明文に
金平糖の歴史と慶応初期の釜
金平糖(こんぺいとう)は,1546年ポルトガルからもたらされた異国の品の一つで,
当時は宣教師から織田信長に献上されたとても珍しい貴重な品とされ,また製法はいっさい秘密でした。
日本では,長崎から京都・江戸と広まってから皆様に親しまれるようになりました。
この頃は,金平糖を広めるにもこの釜を運ぶ道具が無く,人が背負って渡り歩いたと聞かされております。
当時の製法は,現在より1/4ほどの小さなこの釜に,
ケシの実を入れ別の鍋(かま)に蜜を作って小さな杓(しゃく)でコテにたらしながらゆっくりとかき混ぜて,
ひっついたケシの実どうしの固まりを,手でほぐしながら作ったと伝えられています。
当初は,炭で火をおこしていたため,温度調節が大変難しく,釜が固定されているうえに,
今より金平糖が大きいので,一色作るのにたいそう長い日数がかかったと言われています。
現在では,釜は大きくなり,自動で回転するのですが,
それでも,一種類に約十四日から二十日ほどかけて育てております。
こちらに展示しております釜は,世界でも一台しかなく,大変貴重な釜で,
京都や東京の博物館にも展示され,緑寿庵清水(ろくじゅあんしみず)の歴史を刻み続けております。
店主
村上天皇皇后安子
(「火葬」の変換間違いなんだけど…
「花葬」のほうがいいな…)
隣が駐車場になっていて金網越しに見ると…
学生がリヤカーを引っ張っていました(^v^)
今日の目的地
俺なりに考えるに,まず君がやるべきことは,意志を強固に固めて,第一歩を踏み出すことだ。
意志の力を強めるにはどうすればよいか――吉田神社に願を掛けるのだ。
吉田神社は縁起が悪いと君は言うだろう。
確かにあの神社は,合格を祈願する者は大学に「落ちる」,単位修得を祈願する者は単位を「落とす」ことで名高い。
しかし考えてみたまえ。
恋愛問題に関するかぎりはそれがイイのだ。
なんとなれば恋というものは,自分は「落ちる」ものであり,相手を「落とす」ものだからだ。
清水の地主(じしゅ)神社とか,嵐山の野宮神社よりも霊験あらたかに違いない。
何か好きなものを断ち,恋愛成就を祈るがよい。 (P14)
(『恋文の技術』森見登見彦 ポプラ文庫 2011年)
これはあくまでも小説の一文です(^_-)
今宮社
祭神 大己貴神(おおなむちのかみ)・大雷神(おおいかづちのかみ)・健速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
例祭 八月二十四日
神幸祭 十月
由緒
鎮座の年代は不詳順徳天皇健保三年(西暦1215)吉田小社註進状(ちゅうしんじょう)の内にその名既に明かで光格天皇,文化十三年(西暦1816)現地に造営され木瓜大明神と称し吉田町の産土神(うぶすなのかみ)である。
今宮社四神石
今宮社に四神石あり,本殿の東南に青龍(せいりゅう)石,
西南に白虎(びゃくこ)石,西北に玄武(げんぶ(亀))石,共に三石あり。
東北の朱雀(すじゃく)石は内陣に有りと伝えられる。
(文化年記に記載今からおよそ180年前)
いづれも方位を守る霊石なり。
(いつものことですが,転記間違いがあると思いますし,
原文を変えている個所があります(^^ゞ…)
吉田神社
祭神として健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いわいぬしのみこと)・
天之子八根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四神を祀る。
清和天皇の貞観(じょうがん)元年(859)四月,古くからの霊域であったこの吉田山に,
中納言藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)卿が平安京の鎮守神として春日の四神を勧請(かんじょう)し,
以来,朝廷の信仰も厚く,正暦(しょうりゃく)二年(991)には,
朝廷から特別の奉幣(ほうへい)を受ける二十二の社(やしろ)「二十二社」の前身である十九社奉幣に列する。
次いで,室町時代の中頃,神官の吉田(卜部(うらべ))兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を大成し,
山上に斎場所大元宮(だいげんぐう)を造営してから,吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権威を誇った。
大元宮(重要文化財)には全国の神々が祀られ,ここに参ると全国の神社に参ったのと同じ効験があると信仰されている。
本殿は慶安(けいあん)年間(1648~1651)の建築で,朱塗春日造(かすがづくり)である。
境内には,大元宮のほか,地域の氏神・雷除神として有名な神楽岡(かぐらおか)社,
吉田兼倶を祀る神龍社(しんりゅうしゃ),料理の神を祀る山蔭(やまかげ)神社,
お菓子の神を祀る菓祖神社など多彩な末社(まっしゃ),摂社(せっしゃ)が多い。
毎年節分の日を中心に三日間行われる節分祭は,
疫神祭(えきじんさい)・追儺式(ついなしき)・火炉祭(かろさい)の三部に分かれ,
追儺式は「鬼やらい」として特に有名で,毎年多数の参拝者でにぎわう。
京都市
(文字が不鮮明になっている部分があり,転記間違いがあると思います)
摂社 神楽岡社
祭神 大雷神(おおいかづちのかみ),大山祇神(おおやまづみのかみ),髙霹神(たかおかみのかみ)
例祭 九月二十三日
神幸祭 十月下旬
由緒 延喜式に霹靂神(ひゃくれきしん)神楽岡に坐するとあり神楽岡地主の神又雷除けの神として崇敬厚き同町の氏神である
吉田神社の名前は知っていましたが
『日本宗教事典』(村上重良 講談社学術文庫 1988年)に
吉田家は,幕府公認の神道家元として,全国の神社と神職の大半に実質的な権限をもつことになり,幕末まで,神道界のほとんどを支配下においた。
吉田神道の教義と行法は,三世紀余にわたって全国の神社に,抜きがたい影響を及ぼしたのである。(P198)
と書かれていたので訪ねました。
菓祖(かそ)神社は1957(昭和32)年に京都菓子業者が建てたものです。
料理飲食の神
山蔭神社
御際神 藤原山蔭卿(ふじわらやまかげきょう)
相殿 恵比須神
例祭 五月八日
由緒
山蔭卿は清和天皇貞観元年(西暦859年)奈良春日の大神を勧請し平安京鎮護の神として吉田神社を創建され
又わが国においてあらゆる食物を調理調味づけられた始祖であり古来包丁の祖料理飲食の祖神にして崇敬厚き神である
昭和32年吉田神社御鎮座千百年大祭を機に全国料理関係者創建に協賛
同34年5月鎮祭
吉田神社を訪ねるにあたって是非,見ておきたかったのが
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)
吉田神社 末社
天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)八百万神(やおよろずのかみ)を祀る大元宮を中心として,
周囲に伊勢二宮をはじめ,全国の延喜式内社(えいんぎしきないしゃ)三千百三十二座を奉祀する。
もとは,神職の卜部(うらべ)(吉田)家邸内にあったものを文明十六年(1484)に,
吉田神道を創設した吉田兼倶(かねとも)がここに移建したもので,吉田神道の根本殿堂とした。
天正十八年(1590)には天皇守護のため宮中の神祇官(じんぎかん)に祀られていた八神殿(はっしんでん)が社内後方に遷され,
慶長十四年(1609)から明治四年(1871)まで,神祇官代としてその儀式を執行した。
本殿(重要文化財)は慶長六年(1601)の建築で,平面上八角形に,
六角形の後房(こうぼう)を付した珍しい形をしている。
屋根は入母屋造(いりもやづくり)で茅葺(かやぶき),棟には千木(ちぎ)をあげ,
中央には露盤宝珠(ろばんほうしゅ),前後には勝男木(かつおぎ)を置く特殊な構造である。
この形式は密教・儒教・陰陽道・道教などの諸宗教,諸思想統合しようとした「吉田神道」の理想を形に表したものといわれる。
全国のあらゆる神々を祀るため,当社に参詣すると,全国の神社に詣でることと同じ効験がるとされ,
毎年節分の日を中心に前後三日間に行われる「節分祭」には多数の参詣客で賑わう。
京都市
実は,この後,訪ねようとした神社への道を通り過ぎてしまい…
下まで降りてしまった(+_+)
コンビニで店員さんに聞いて道を戻ると…
なんと大元宮から左の上り坂を行けば…宗忠神社
神明宮本殿
御際神 天照大御神
由緒
二條関白殿の鎮守神明宮を慶応二年(1866)九月十六日
当地に御遷座申し上げた
神明宮または上社と申し上げる
本殿
御際神 宗忠大明神
由緒
黒住左京藤原宗忠と申され安永九年(1780)備前国(岡山市)今村宮の神職の家に生まれらる
文化十一年(1814)冬至の日,日の神(天照大御神)を拝せられる中に
比類なき神人一体の大霊覚を得られ爾来生涯を天照大御神の大道宣布のために尽くされた
安政三年 宗忠大明神の神号を朝廷から裁許された
幕末の国事に貢献するところ大であり孝明天皇の御信仰篤く慶応元年四月勅願所を仰せ出された
黒住教(本部岡山市北区尾上神道山)の教祖
忠春社
御際神 赤木忠春神
由緒
宗忠大明神の高弟で美作(岡山県久米郡)の生まれ
宗忠神の明らかにされた天照大御神の大道宣布のため身も心も捧げつくして京都布教に献身した
また幕末動乱の京師に勤皇の大義を貫き国事のためにも寄与した
そのまま吉田山頂上を目指すことに
竹中稲荷社
祭神 宇賀御魂神(うがのみたまのかみ) 猿田彦神(さるたひこのかみ) 天鈿女神(あめのうずめのかみ)
由緒 古記に「在原業平」の居を神楽岡稲荷神社の傍らに卜す云々とあり
天長年間既に社殿の在った事が知られ又古伝に「天保年間に子女群詣し昼夜の別なく満山に踊躍す之を蝶蝶踊という其後鳥居参道に樹立し雨雪為に傘を要せず」などとあり現在の建物は天保十一年(西暦1840年)信徒の寄附金で造営されたもので右説と同時代である
現今も竹中稲荷講社が多数の崇敬者によって組織されている
明治五年 吉田神社末社に指定
例祭 九月二十八日
講社大祭 四月二十九日 十一月三日
天満宮
祭神 菅原道真公(すがはらみちざねこう) 文道の神として崇敬厚し 鎮座年不詳
嘉永五年(西暦1852年)信徒の請願により智福院山内より卜部良芳現地に遷座
明治五年吉田大社末社に指定
例祭 二月二十五日
吉田山山頂(標高102m)
女性のグループによく出会ったのは「茂庵」があるからかな(・・?
向こうに見えるのは
大文字山
ほんの少し山歩きの気分を味わいましたp(^-^)q
出町柳駅に向かって歩きました
行きは,気分が悪く昼食を食べる気にならなかったのに
金平糖のおかげかな(・・?
チキンオムライスの中にはキノコも入っていて美味しかったp(^-^)q
おむらはうす(出町柳店)
この後,駅に直行のつもりが道をまた間違えてしまった…
でも,そのおかげで
常林寺(じょうりんじ)
当山は浄土宗光明山摂取院常林寺と号する
天正元年(1573)に念仏専修僧魯(ろ)道和尚によって開祖され,現在の寺町通荒神口の一角に最初の堂宇が建立された。
知恩院末の有力寺院で,総本山の役番として末寺へ発布された通達には常林寺の書判がみられる。
寛文十一年(1671)の大火で類焼して,現在地への地所替えとなり,元禄十一年(1698)に現本堂が建立された。
本尊は来迎の阿弥陀三尊,境内の世継子育地蔵尊は門前から若狭街道を往還する人々の信仰を集めた。
砂の河原に囲繞され,肩を寄せ合って立つ当山と長徳寺,正定院の浄土宗三カ寺は「砂川の三軒寺」と呼ばれた。
昔から当山は「萩の寺」として知られ,毎年九月の初めより,庭一杯に咲く萩の風情はえもいわれない。
海軍伝習生として長崎や神戸にしばしば赴いた若き日の勝海舟が京における宿坊にしていたといわれている。
京都市
(かなり文字がかすれていたので,読み間違いがあります)
[囲繞(いじょう/いにょう)]かこいめぐらすこと。
少しだけ咲いていました!(^^)!
吉田家は,幕府公認の神道家元として,全国の神社と神職の大半に実質的な権限をもつことになり,幕末まで,神道界のほとんどを支配下においた。
吉田神道の教義と行法は,三世紀余にわたって全国の神社に,抜きがたい影響を及ぼしたのである。(P198)
と書かれていたので訪ねました。
菓祖(かそ)神社は1957(昭和32)年に京都菓子業者が建てたものです。
料理飲食の神
山蔭神社
御際神 藤原山蔭卿(ふじわらやまかげきょう)
相殿 恵比須神
例祭 五月八日
由緒
山蔭卿は清和天皇貞観元年(西暦859年)奈良春日の大神を勧請し平安京鎮護の神として吉田神社を創建され
又わが国においてあらゆる食物を調理調味づけられた始祖であり古来包丁の祖料理飲食の祖神にして崇敬厚き神である
昭和32年吉田神社御鎮座千百年大祭を機に全国料理関係者創建に協賛
同34年5月鎮祭
吉田神社を訪ねるにあたって是非,見ておきたかったのが
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)
吉田神社 末社
天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)八百万神(やおよろずのかみ)を祀る大元宮を中心として,
周囲に伊勢二宮をはじめ,全国の延喜式内社(えいんぎしきないしゃ)三千百三十二座を奉祀する。
もとは,神職の卜部(うらべ)(吉田)家邸内にあったものを文明十六年(1484)に,
吉田神道を創設した吉田兼倶(かねとも)がここに移建したもので,吉田神道の根本殿堂とした。
天正十八年(1590)には天皇守護のため宮中の神祇官(じんぎかん)に祀られていた八神殿(はっしんでん)が社内後方に遷され,
慶長十四年(1609)から明治四年(1871)まで,神祇官代としてその儀式を執行した。
本殿(重要文化財)は慶長六年(1601)の建築で,平面上八角形に,
六角形の後房(こうぼう)を付した珍しい形をしている。
屋根は入母屋造(いりもやづくり)で茅葺(かやぶき),棟には千木(ちぎ)をあげ,
中央には露盤宝珠(ろばんほうしゅ),前後には勝男木(かつおぎ)を置く特殊な構造である。
この形式は密教・儒教・陰陽道・道教などの諸宗教,諸思想統合しようとした「吉田神道」の理想を形に表したものといわれる。
全国のあらゆる神々を祀るため,当社に参詣すると,全国の神社に詣でることと同じ効験がるとされ,
毎年節分の日を中心に前後三日間に行われる「節分祭」には多数の参詣客で賑わう。
京都市
実は,この後,訪ねようとした神社への道を通り過ぎてしまい…
下まで降りてしまった(+_+)
コンビニで店員さんに聞いて道を戻ると…
なんと大元宮から左の上り坂を行けば…宗忠神社
神明宮本殿
御際神 天照大御神
由緒
二條関白殿の鎮守神明宮を慶応二年(1866)九月十六日
当地に御遷座申し上げた
神明宮または上社と申し上げる
本殿
御際神 宗忠大明神
由緒
黒住左京藤原宗忠と申され安永九年(1780)備前国(岡山市)今村宮の神職の家に生まれらる
文化十一年(1814)冬至の日,日の神(天照大御神)を拝せられる中に
比類なき神人一体の大霊覚を得られ爾来生涯を天照大御神の大道宣布のために尽くされた
安政三年 宗忠大明神の神号を朝廷から裁許された
幕末の国事に貢献するところ大であり孝明天皇の御信仰篤く慶応元年四月勅願所を仰せ出された
黒住教(本部岡山市北区尾上神道山)の教祖
忠春社
御際神 赤木忠春神
由緒
宗忠大明神の高弟で美作(岡山県久米郡)の生まれ
宗忠神の明らかにされた天照大御神の大道宣布のため身も心も捧げつくして京都布教に献身した
また幕末動乱の京師に勤皇の大義を貫き国事のためにも寄与した
そのまま吉田山頂上を目指すことに
竹中稲荷社
祭神 宇賀御魂神(うがのみたまのかみ) 猿田彦神(さるたひこのかみ) 天鈿女神(あめのうずめのかみ)
由緒 古記に「在原業平」の居を神楽岡稲荷神社の傍らに卜す云々とあり
天長年間既に社殿の在った事が知られ又古伝に「天保年間に子女群詣し昼夜の別なく満山に踊躍す之を蝶蝶踊という其後鳥居参道に樹立し雨雪為に傘を要せず」などとあり現在の建物は天保十一年(西暦1840年)信徒の寄附金で造営されたもので右説と同時代である
現今も竹中稲荷講社が多数の崇敬者によって組織されている
明治五年 吉田神社末社に指定
例祭 九月二十八日
講社大祭 四月二十九日 十一月三日
天満宮
祭神 菅原道真公(すがはらみちざねこう) 文道の神として崇敬厚し 鎮座年不詳
嘉永五年(西暦1852年)信徒の請願により智福院山内より卜部良芳現地に遷座
明治五年吉田大社末社に指定
例祭 二月二十五日
吉田山山頂(標高102m)
女性のグループによく出会ったのは「茂庵」があるからかな(・・?
向こうに見えるのは
大文字山
ほんの少し山歩きの気分を味わいましたp(^-^)q
出町柳駅に向かって歩きました
行きは,気分が悪く昼食を食べる気にならなかったのに
金平糖のおかげかな(・・?
チキンオムライスの中にはキノコも入っていて美味しかったp(^-^)q
おむらはうす(出町柳店)
この後,駅に直行のつもりが道をまた間違えてしまった…
でも,そのおかげで
常林寺(じょうりんじ)
当山は浄土宗光明山摂取院常林寺と号する
天正元年(1573)に念仏専修僧魯(ろ)道和尚によって開祖され,現在の寺町通荒神口の一角に最初の堂宇が建立された。
知恩院末の有力寺院で,総本山の役番として末寺へ発布された通達には常林寺の書判がみられる。
寛文十一年(1671)の大火で類焼して,現在地への地所替えとなり,元禄十一年(1698)に現本堂が建立された。
本尊は来迎の阿弥陀三尊,境内の世継子育地蔵尊は門前から若狭街道を往還する人々の信仰を集めた。
砂の河原に囲繞され,肩を寄せ合って立つ当山と長徳寺,正定院の浄土宗三カ寺は「砂川の三軒寺」と呼ばれた。
昔から当山は「萩の寺」として知られ,毎年九月の初めより,庭一杯に咲く萩の風情はえもいわれない。
海軍伝習生として長崎や神戸にしばしば赴いた若き日の勝海舟が京における宿坊にしていたといわれている。
京都市
(かなり文字がかすれていたので,読み間違いがあります)
[囲繞(いじょう/いにょう)]かこいめぐらすこと。
少しだけ咲いていました!(^^)!