2015年4月2日木曜日

水火天満宮~上御霊神社

循環器科を受診した後京都に向かいました。
京阪三条駅についてバス停に行くと…
お腹がすく時間(*^▽^*)
中華そばが500円♪
それも昔ながらの懐かしい味♡
具の中に「なると巻き」が入っていたら言うことないのですが(*^▽^*)
「篠田屋」さん。学生時代を思い出すようなお店です(*^-^*)
店の前のバス停で12号系統の市バスに乗りました。
「天神公園前」で下車
たどりついたのが小さな境内の神社です(*^_^*)
水難,火難,学問の神様「水火天満宮
今日はとってもいい天気で京都の桜の名所は
どこも観光客でいっぱいだったと思います。
でも,ここは静かに桜を楽しむことが出来る♪
ここを知ったのは鴨さんのブログの記事でした。
“4月5日(日)「桜花祭」午前11時”
祭神は,平安時代の政治家であり,
漢詩人・学者としても有名な菅原道真である。
由緒書・家系図には,「落陽一条下り松の霊地に,
雨水雷火の難を消除の守護神として菅公を祭る為に,
延暦寺の尊意僧正に勅命ありし,
日の本最初の天満宮の勧請の最初なり」とある。
都の水害・火災を鎮める為に,
第六十代醍醐天皇に命じられた,道真公の師でもあった
延暦寺の尊意僧正(第十三代天台座主主法性坊尊意僧正)によって,
延長元(923)年六月二十五日,
「水火の社天満大神」という神号の勅許を醍醐天皇から賜り,
水火社天神天満宮として,菅原道真公の神霊を勧請し建立された。
水火天満宮が「日本最初の天満宮」と号する所以は,
右記のように「天皇の勅命にて神号を賜り,
天満宮としたこと」及び「初めて道真公の神霊を勧請したこと」による。
文明四(1472)年九月十日,第百四代後土御門天皇の行幸があり,
例祭の日を十月十日(旧九月十日)と改めた。
その後,第二次世界大戦など幾多の変遷を経て,
昭和25(1950)年,堀川通が重要幹線道路となる拡張工事の際,
堀川通りを挟んだ西側の上天神町から現在の扇町に移転した。
   京都市

本殿
登天石
水火天満宮を出て歩いていると
予定になかったけど見事な桜…
本法寺の境内も静かでしたよ(*^_^*)
毘沙門堂ですが,道を歩いているとこんな案内板がありました。

源氏物語ゆかりの寺院薄雲御所と源氏物語
慈受院の開祖は竹庭瑞賢尼和尚である。
尼和尚の俗称は,従一位日野資康の娘・栄子。
室町将軍第四代足利義持の夫人で,第五代将軍義量の生母。
義持亡き後,出家して生長元年(1428)に本寺を建立したが,これは曇華院・総持院と並んで尼五山の第二位通玄寺の三子院の一院となった。
御所名を開祖の一字をとって「竹之御所」と称した。
また,総持院も称光天皇より「薄雲御所」の名を賜っていた。
慈受院は第七世(後西天皇の皇女瑞光内親王)の頃,尼門跡として盛んになったが,七世が亡くなると共に廃絶した。
大正8年に至り,縁故関係にあった総寺院は慈受院の再興をねがって,両院の法灯を引き継ぐこととし,寺号を慈受院とする改称届けを京都府に提出し,許可された。
届書によると,慈受院の旧地は,現在の京都府立鴨沂高等学校(京都市上京区寺町通荒神口下)の位置にあったという。
慈受院の旧地とされる高校の場所は,王朝貴族の代表的な人物で栄華を誇った藤原道長が,建立した法成寺の跡地である。
この寺は,極楽浄土をこの世に再現したといわれ,蓮伽藍であった。
また,道長の娘彰子は一条天皇の中宮(上東門院)となっていた。
宮仕えをした女房に,源氏物語の作者の紫式部がいた。
道長はこの物語を愛読し,また光源氏のモデルとまでいわれた。
この道長の故地であったことから,慈受院が再興される時,源氏物語にちなんだ総寺院の御所名が遺ることになった。
 『薄雲』は光源氏が藤壷中宮の崩御の哀悼を,
  入日さす峰にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまがへる
と詠じている,夕日がさしている峰にたなびく薄雲は,悲嘆にくれる私の喪服の袖に似せているのであろう,という和歌に由来するのである。
  財団法人古代学協会名誉会長 角田文衛

慈受院は,源氏物語ゆかりの寺院だそうですが非公開です。

広徳山慈受院門跡(こうとくざんじじゅいんもんぜき)(薄雲御所(うすぐもごしょ))
竹之御所・烏丸御所とも呼ばれる。
正長元年(1428)室町幕府第四代将軍足利義持の正室,日野栄子が夫の遺言により皇室の菩提を弔うために創建したと伝えられる。
慈受院という寺名は日野栄子の法号『慈受院浄賢竹庭尼大禅師』に由来する。
以後,後西天皇の皇女瑞光内親王,伏見宮息女が入山するなど代々宮家(王女・皇女)将軍足利家・近衛家・花山家から交互に住持(じゅうじ)が入っていた門跡寺院として法灯を伝えている(大正8年総寺院と統合)
また近年,角田文衛博士の調査により慈受院は『源氏物語』に登場する薄雲御所ゆかりの寺院としての側面を有していたことが明らかになった。
御所文化のおもむきを残し,『源氏物語』ゆかりの門跡寺院である慈受院には今も皇室ゆかりの調度品などが数多く残る。
   京都市
女性にオススメの宝鏡寺(ほうきょうじ)
尼門跡寺院で,百々(どど)御所とか人形寺とよばれる。
「百々」とは『古今物語集』や『応仁記』にもみえる地名で,
百々某が住んでいたことから起こったという。
寺はもと景愛寺の子院で福尼寺として五辻(いつつじ)大宮西に創建され,
応安年間(1368~75)に焼失したのを,
光厳(こうごん)天皇の皇女で景愛寺6世の華林恵厳(かりんえごん)禅尼が現在地に再興,
本尊が手に宝鏡をもつので宝鏡寺にしたと伝える。
1644(寛永21)年後水尾天皇の皇女理昌尼王(りしょうにおう)(久厳禅尼)が入寺して以来,
皇女が住持となっている。
応仁の乱ですたれ,天明の大火で焼失したが,
光格天皇らの援助で再興したのが現在の建物である。
仏堂は阿弥陀像と日野富子像を安置し,
襖絵は狩野探幽筆金碧極彩秋草花図,
書院の襖絵は円山応挙筆四季耕作図,吉村孝敬筆猿鳥鶴図である。
また光格天皇遺愛の品,多数の人形や
双六(すごらく)・投扇(とうせん)・貝覆(かいおおい)などの遊戯具を所蔵し,
春秋2回人形展を,10月10日人形供養を行う。

(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)

現在「春の人形展」が開催されています。
寺院内や庭は撮影禁止ですが,ここだけ許可が出ていました(^_^)v

百々橋(どどばし)の礎石
この石は,応仁の乱(1467~1477)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の礎石の一つである。
百々橋は当地を南北に流れていた小川(こかわ)に架かっていた橋(長さ約7.5メートル,幅約4メートル)で,
橋名は,応仁の乱以前の風景を描いたといわれる「中昔京師地図(ちゅうじゃくけいしちず)に
当地が「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられる。
応仁の乱の際,細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が,
橋を隔てて数度にわたり合戦を行い,
この小さな橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることとなった。
古来板橋であったが,近世になって石橋に架け替えられ,
昭和38年(1963)に小川が埋め立てられた際,橋も解体されたが,
地域の方々の御尽力により,橋材は一時,室町小学校で保管された。
その後,橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され,
竹林公園内に復元されたが,
橋脚を支える四基の礎石のうち一基は室町小学校の校庭に,
一基は百々橋をしのび貴重な遺構として当地に遺(のこ)された。
  京都市

ここにも見事な桜

そして境内は静かでしたよ

妙顕寺(みょうけんじ)
正しくは四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺といい,日蓮宗の大本山の一つである。
日蓮聖人の孫弟子に当たる日像(にちぞう)上人が,元亨(げんこう)元年(1321)に,京都における日蓮宗最初の道場として創建したのが当寺の起こりである。
建武元年(1334)には,後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の綸旨(りんし)(詔(みことのり)の趣旨)を受け,法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位に認められた。
しかし,度々の法難と災禍により寺地を転々とし,天正11年(1583)に秀吉の命により西洞院(にしのとういん)二条の旧地から現在地に移された。
その後,天明の大火(1788)で焼失したが,天保5年(1834)に再建され,今日に至っている。
寺宝として尾形光琳筆の「松竹梅」図三幅などがあり,塔頭の泉妙院には,光琳と陶工として有名な弟乾山(けんざん)の墓がある。

  京都市


光琳菩提所 興善院旧跡 泉妙院(非公開でした)
猿田彦神社
御霊神社(上御霊神社)
赤矢印のところに
応仁の乱 勃発の地
文正2年(1467)正月18日朝,この付近すなわち御霊(ごりょう)の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁の乱」は始まった。
前日の17日深夜,畠山政長(はたけやままさなが)は自らの屋敷を焼いて,一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣(じょうしんいんこうせん)らと兵約二千を率いてここに布陣した。
翌18日早朝,畠山長政と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就(よしなり)が兵三千余で攻撃をしかけ,18日は終日激しい戦いが続いた。
義就方には朝倉孝景(たかかげ),ついで山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))の命を受けた山名政豊が加勢した。
しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず,まる一日の合戦の結果,政長方は持ちこたえられず退去した。
これが「押印の乱」の最初の合戦である。
その年の3月,年号は「文正」から「応仁」と改まり,細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味方を集めて戦時体制をかため,5月から上京を中心に,将軍・足利義政の後継者争いも絡み合う,東西両軍の全面的な戦いに入った。
この戦いは京の都を疲弊させ,室町幕府の権威を失墜させたが,厭戦(えんせん)の風潮の中,細川・山名両氏の間に和睦が成立し,文明7年(1477),11年間に渡る大乱はようやく収束をみた。
なお,宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。
   京都市
上御霊(かみごりょう)神社は平安遷都以前からこの地に存在していた
上出雲寺(かみいずもじ)の鎮守社が前身で,
平安遷都の際,大和国宇智(うち)郡の霊安寺御霊社から
他戸(おさべ)親王と井上(いのうえ)内親王の霊を遷座したのが起源ともいわれる。
その後早良(さわら)親王など八所(はっしょ)御霊を祀るようになった。
八所御霊には諸説があるが,
当社は早良親王(崇道(すどう)天皇)・井上内親王(光仁天皇皇后)・
他戸親王(光仁天皇皇子)・藤原吉子(きつし)(伊予親王母)・
文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)・橘逸勢(はやなり)・
吉備真備(きびまきび)・火雷神(ほのいかづちのかみ)(菅原道真とも)とする。
中世までは上出雲寺御霊堂として知られていたが,その後寺は衰退した。
1467(応仁元)年,畠山政長(まさなが)がここに陣し,
畠山義就(よしなり)と戦ったのが応仁の乱の起こりで,政長軍は火を放って脱出した。
社前に応仁の乱発祥地の碑がある。
当社は皇室の産土(うぶすな)神で,
社殿の造営には内侍所(ないしどころ)の建物を下賜するのを例とし,
今の本殿は1755(宝暦5)年下賜の賢所(かしこどころ)を1970(昭和45)年に復元したものである。
境内の末社のうち花御所八幡は,
近くの閑臥庵(かんがあん)の北東にあった五所八幡社を明治時代に移したものである。
5月1~18日の上御霊祭は863(貞観5)年の悪疫退散の御霊会に始まるといわれ,
1日は居祭,18日は還幸祭で,太鼓を先頭に獅子舞,各町内の鉾(ほこ),
稚児(ちご)行列,御所車,神輿が町内を巡行する。
神輿3基のうち2基は後陽成・後西(ごさい)両天皇が
内親王の安産を祈って寄進した鳳輦(ほうれん)の改作である。

(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
芭蕉句碑
俳聖松尾芭蕉は元禄3年(1690)
当社に参詣「半日は神を友にや年忘」の句を奉納。


ここも静かな境内でした(*^_^*)
 「晴明心の像」
お尻が可愛かったな(@^▽^@)
お土産に買った「唐板」(700円)
鳥居前に名物唐板煎餅(からいたせんべい)をつくる水田玉雲堂がある。
神泉苑の御霊会の供物(くもつ)に由来し,応仁の乱後製造を始めた。

(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
四条に出てお土産に漬物を購入しました「村上重本店
高瀬川もカメラマンがいっぱいでしたが(*^ー゜)
学生時代に通った喫茶店でレアチーズケーキと珈琲(*^_^*)
「ソワレ」ここはオッチャン一人で来ると恥ずかしいかも(^^ゞ
すぐそばに一番のお気に入りの「みゅ~ず」があったのだけど…
今日は,「応仁の乱」をキーワードに巡りました。