2023年10月6日金曜日

肌寒い風

今朝も涼しいを通りこして肌寒い風が吹いていました。
空を見ると亀の甲羅のような雲が浮かんでいました(うろこ雲)。
この雲(巻積雲)が現われる時は
天気はしだいに下り坂になるとか…

北日本で大雨 北海道では6日夜にかけ高潮など厳重警戒を」(NHK)
札幌市が2030年五輪招致を断念 2034年以降目指す方針」(北海道NHK 10月5日)
きっぱりと断念した方がいいと思います。
2025年の大阪万博をみると断念するかな?

2020年10月10日の記事で
昭和の歴史第10巻 経済大国』を転記しているのですが

お祭り型地域開発の限界

…前略…

 日本の公共投資は、画一的総花的に全国にばらまかれている。
そこで、地域開発のために集中的にある地域にあつめようとすれば、オリンピックや博覧会に便乗するのが、一つの方法である。
しかし、この集中豪雨のように短期間に、しかもお祭りという対外的イベントを目的としてなされる公共投資は、災害の原因となったりして、結局は住民生活の改善にはつながらない。
このことを、東京オリンピックと大阪の万博はくりかえし証明した。
にもかかわらず、後に沖縄では復帰記念事業として海洋博が計画され、さらに失敗したものの、名古屋がオリンピックを誘致して、東京や大阪に「追いつき追いこせ」をはかるのである。
(『昭和の歴史第10巻 経済大国』宮本憲一 小学館 1983年)
 「福島第一原発の処理水 2回目の放出開始 17日間かけ放出の計画」(NHK 10月5日)

9月23日に放送された
日本人は農なき国を望むのか~農民作家・山下惣一の生涯~
見てから山下惣一さんの本を読みたくなりました。
現在、「現在重版中」ですが、その中から一部転記しますφ(.. )
 第4章 震災と原発、そしてTPP
  そして、彼女たちはいまいちど奮い立った
 (2012年)

 梅・桃・桜の花が同時に咲く。
三つの春が一度にくる。
それが美しい町名の由来だという福島県の三春町は、今回の被災地を訪ねる旅でオレが唯一希望した町だ。
この町で農村女性たちのグループが農産加工に使う電力を太陽光発電に転換した。
原発の足元から「脱原発・エネルギー自給」という取り組みである。
「脱原発」も「原発に依存しない社会」と言うは易いが、言うだけでは実現できない。
一人一人の生き方が問われる。
被災地の農村女性たちが、その具体的な取組みを始めたことがオレは嬉しくて、グループの女性たちの話を是非とも聞きたいと考えていたのだ。
この事業は「被災地の農業を支援する」東京の市民グループなどの後押しで実現したものだが、じつはオレも要請を受けてカンパした。
だから知っていたのだ。
(『山下惣一 百姓の遺言』家の光協会 2023年)
 代表の金沢テルさん(71)と道の駅で待ち合わせ、彼女の軽トラックの後について山の中へ向かう。
三春町は事故を起こした東京電力福島第一原発から西に45キロ。
町の人たちは原発とは何の関係もないと思って暮らしていたという。
ところが事故直後に東風が吹いて放射能渦に巻きこまれた。
町独自の判断で町民全員が甲状腺ガンを予防する安定ヨウ素剤を飲んだそうだ。
 山の斜面の民家に「芹沢農産加工所」の小さな看板がある。
屋根に太陽光パネルはない。
「パネルはどこですか」と問うと、「それはこっち」とテルさんが先に立って、家の横の細い坂を足早に登っていく。
ついていくのに息が切れた。
 パネルは小さな畑の岸に沿って南向きに建てられた。
合計36枚、毎時5キロワットの発電能力だそうだ。
これで加工場の電力をすべてまかない、残りは電力会社に売電する。
畑はメンバーの加藤艶さん(68)の所有で黒マルチにピーマンが元気に育っていた。
 農産加工は秋から冬が中心で自家産の米、大豆、野菜等を原料にして、餅、饅頭、凍み餅、凍み大根、漬物などを作る計画だ。
 代表の金沢テルさんに話を伺った。
彼女はJA福島女性部協議会の前会長であり、地元の役職をいつくもこなしている農村の女性リーダーである。
まして「原発の足元から脱原発を」という勇ましいスローガンから、男勝りの女傑を想像していたら、これがまるで違っていた。
その逆だ。
「もう大変でしたよ」。
遠くを見るような表情でテルさんは穏やかに語る。
「放射能が降ってくるから外には出るな。土をいじるなでしょ。素肌はダメだ。常時マスクを着用しろでしょ。これから農作業が始まるというのにどうしろというのよ」。
まさに寝耳に水の話だった。
「町に直売所が二つあるのですが、事故直後はまったく売れなくなった。JAは売れなくても作れという指導でした。作っていないと補償してもらえない」
 テルさんの話をメモしてると話が途切れた。
次が出てこない。
「あれっ」と思って見上げると泣いていた。
涙をこらえるのに必死で言葉が出てこないのだ。
「たくさんの高齢者が少しばかりの野菜や山菜などを直売所に出していたんです。もうけようというのではない。わずかばかりの売り上げを蓄えてお盆に帰省する孫たちに道の駅でアイスクリームを買ってやる。それが生甲斐であり働く楽しみだったのです。そのつましい、ささやかな願いすら原発に奪われてしまった。それが一番つらい。口惜しい」
 原発事故後は出荷物すべてが放射能の検査を受けなければならなくなった。
少量多品目生産ではこれは大変だ。
検体のサンプルは一品目500グラム。
これを3ミリから5ミリの大きさに刻んで提出しなければならない。
3回連続して計って基準値以下であればOKが出る。
検査料金は一品500円から1000円のところが多いが、三春町では町が負担している。
キャベツやハクサイ等の重量野菜ならともかく、大葉、小葱、らっきょう、ぎんなん、たらのめ、わらびなど高齢者のわずかな出荷物から検体のサンプルを除くと出荷する分はなくなる。
そしてもし自分の出荷物から高濃度の放射性物質が検出されたら、仲間だけでなく町にも県にも大きな迷惑をかけることになる。
「だからみんな出荷をやめてしまったのよ」。
それが無念だとテルさんは涙ぐむのである。
みんな気力が萎えてしまって、何かを思い立とうにも声をかけられる雰囲気ではなかった。
「それでも原発は必要だという人には、あんたここに住んで暮らしてみろといいたい」。
 芹沢農産加工グループは「3・11」以後初めて結成されたグループだった。
テルさんが「食文化を次世代に伝えるのは私たちの責任ではないか」と説いてまわり、ようやく「やっか!」というメンバーが6人集った。
オレはただただ黙って聞くしかなかったよ。
(『山下惣一 百姓の遺言』家の光協会 2023年)

山下惣一(やましたそういち)1936~2022 農民作家」(NHKアーカイブス)
今朝の父の一枚です(^^)/
母が、「柿の実がいっぱいなっているなぁ」と見ていたそうです。
11月の項目ですが

 柿

 既に取り入れもすんだ田の片隅や農家の庭先に、鈴成りになった柿の実が夕陽に輝いているのを見ますと「秋深し」としみじみ感じます。
 長野県は生柿も干柿も生産量の多いことで知られていますが、ここ飯田、下伊那地方ではもう千年も前から柿が栽培されていて、間食にする他、柿は「掻き取る」に通じるので縁起が良いといって正月に食べたり、鏡餅の飾りになっていました。
さらに、およそ250年前に飯田城主の脇坂氏が柿の栽培を盛んに勧めましたので、飯田市の柿が有名になり、特に飯田立石の干柿は甘いとして盛んに江戸に出荷されました。
 柿の皮むきはかっては夜なべ仕事で、夕食後家族皆で柿の山のまわりにすわり、器用に手でむきました。
その様子は「柿をむくにもむきがよがござる。肩を張り上げくるくると」立石民謡の一節に残っています。
 皮をむいた柿は長い竹串に五つさして、横に何段も並べて縄でスダレのように編んで軒下などに下げました。
…つづく…
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)