2023年10月21日土曜日

11月並み…

今朝の天気予報を見ていると
西高東低の冬型の気圧配置で11月並みの気温になると放送していた
自転車なのでウィンドブレーカーを着て行きました。
大阪万博建設費、2度目の負担増に「説明不足」…関西の財界幹部「びた一文出せない」〟(読売新聞)
(もともと関西の経済界は、反対というか消極的だったと記憶しています)

まだまだ負担増が起きると思うなぁ…

予算の負担増だけでなく
いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)
をかかげていながら
パビリオン建設遅れの大阪万博、残業上限の「例外」要請…働き方改革に逆行と反発も予想〟(読売新聞 7月27日)
NHK映像ファイル あの人に会いたいアンコール「緒方貞子 元国連難民高等弁務官

慈善援助ってかわいそうだからあげるんじゃなくて尊敬すべき人間なんです。
人間の尊厳というものを全うするためにあらゆることをして守らなければならない。


(研究テーマは満州事変)
どうしてそういう戦争をしたんだろうかという疑問は非常にその留学を通して余計に持ちました。
責任ある政府というもは、政府の中の序列に従ってやれば組織に従って物事を検討し、その検討の結果というもを計って進めていく、これが最も正当なやり方です。
ところが満州事変はそういうものを壊した戦争でしょ
だから最後に抑えられなくなる
太平洋戦争に突入するんです、結果的には、陸軍を抑えられなくなったから。


(1991年、国連難民高等弁務官に就任)
(イラク難民のクルド族)
この山の中にいる人たちに安全を与えなきゃならない
極めて現実的な判断からルールを変えることにはなるけど
基本原則の根幹は同じなんじゃないかと
つまり「難民を保護する」ということです。
生命の安全を確保する
自信を持ってこれで行こうと考えたわけです。
(1992年 ボスニア戦争)
(サラエボから)出て行きたいと言うので手伝えば、正に民族浄化に手を貸したことになるわけだし
置いておけば殺されるだろうと
「どっちをしたらいいか」というギリギリの選択に悩まされて
最終的には、人を生き延びさせる選択を取るほかしょうがないじゃないか
生き延びればもう1回チャンスが出てくるかも知れないんです
人間って
そこで殺されたらそれまでですから


(空輸開始から6日目。砲撃が続くサラエボに重さ15キロの特製防弾チョッキを身に着けて降り立ちます。難民たちの恐怖と苦痛を身をもって感じるためでした)
これは政治的にすごくインパクトがあったんです。
つまり「国際社会はサラエボを見殺しにしているんじゃないぞ」と。
「みんながサラエボを見ているんだよ」というシンボルは空輸だったんです。
非常に温かい歓待を受けたんです。
今でも忘れられませんね。
街の旧市街の窓から、みんなが手を振って非常に温かく迎えてくれて


(ボスニア・ヘルツェゴビナで3つの民族が一緒に働ける環境を整えることで地域経済の復興を図りました。)
一緒に仕事をすることによって、ともかく和解とまでいかなくても
共生のチャンスをどうやって作るかという様な事で
今、共同体づくりのプログラムを工夫しはじめているんです。
3つの民族が一緒に仕事をするとうことを条件に投資して
いろんな工場なんかを作ったり、牧場を作ったりしたらどうなんだろうかと


(そういうのは現場に行って考えられる?)
現場に行かないと抽象的に考えたものは本当に効果ないです。
現場が分るからそういうことが出てくる。
(2000年、3期10年をもって国連難民高等弁務官を退きます)
難民たちの表情に私たちの成功と失敗が刻み込まれています。
家を追われ貧困に苦しむ難民を支援するために最前線で闘ったすべての人々に尊厳を
そして誰よりも難民に尊厳を


(上智大学での講演 2007年)
私は、今非常に日本は内向きになっていると思います。
これは外国人労働者の問題もありますし
それから難民の受け入れにも問題があるのですね。
非常に少ないんです
それはやっぱりあまりに自分たちのこと
あまりに日本の内向きのことばかり考える。
上から下まで
自分のことだけじゃなく、広がりをもった日本を作っていただきたい。


向き合ってぶち破っていかないと
向き合って進んでください。
乗り越えるためにある
危機とか難局は


10月28日まで見逃し配信を視聴することができます。

国連事務総長 ガザ地区とエジプト境界のラファ検問所を訪問」(NHK 10月20日)
 「第4章 失われた船場ことば」つづき

 実は船場、島之内の崩壊はすでに昭和初期から始まっていた。
それは先にも述べたように、各店の主人たちが、店だけを残して家族の生活拠点を阪神間へ移す傾向が強くなりつつあったからである。
私の母校であった船場小学校も、昭和10年を過ぎると学童数が急激に減り出して、隣接する愛日(あいじつ)小学校と合併となった。
あの「産めよ増(ふ)やせよ……」の時代にである。
近くの小学校も同様で、空いた校舎は中学校や女学校(船場は女学校)に転用された。
それは当時、中等教育を望む傾向が強くなっていたからではないか?
それでも、主人たちは昼間は店へ出勤するし、店に勤める人たちはほとんど地元生まれで変わることはなかった。
(『京なにわ 暮らし歳時記 船場の「ぼん」の回想録』山田庄一 岩波書店 2021年)
 けれども、度重なる空襲の結果、「船場・島之内」をはじめ大阪の中心部が根こそぎ焼野原になったことにより全く変わってしまったのである。
街は戦後いち早く復興し、戦前よりもむしろ立派なビルがつぎつぎと建てられていった。
だが、代々世襲だったオーナーたちは、シャウブ税制(第2次大戦後に、ジャウブ勧告にもとづいて行われた税制改革)による法人化や、財産税、度重なる相続税などの重圧に耐えられず、一介のサラリーマンとなり果てていく。
加えてラジオ、テレビのお笑いブームや、今東光の小説、勝新太郎の映画「極道シリーズ」などにより、「河内弁」が大阪弁の代表とされ、かつての船場・島之内の優美な「船場ことば」は姿を消すことになった。
 そこで、昔は広く使われていたのに、現在ではほとんど、あるいは全く聞かれなくなった「船場ことば」を、思いつくままにアトランダムに並べてみよう。

 ○とうさん・いとさん(いずれもお嬢<じょう>さん。姉妹が多いと、上からおいとさん、中いとさん、小いとさん、豆いとさん、芥子<けし>いとさん、と呼ぶ。「こいさん」というのは小いとさんの略であり、妹娘に限る呼び名である)
 ○ぼんさん・ぼんち(坊<ぼっ>ちゃん。これも上から、おぼんさん、……芥子ぼんさん、となる。私の家では●という字を使っていた。なお、大阪では「さん」付けで呼び「はん」は目下の人以外には使わない。また独身の間はいつまでも「ぼんさん」であり、結婚して初めて若旦那<わかだんな>さんになる)
(●上に「幼」、下に「男」)
 ○お早(はよ)うお帰(かえ)り(いってらっしゃいの意味で私などは普通に使っていたが、いまは全く聞かない。「行って来ます」は「行って参(まい)りますが」が普通で、奉公人は、「行って参(さん)じます」と言った。今は大阪でも「いってきます」「いってらっしゃい」と言う)
 ○なぜる(撫<な>でる) ○おます(あります、そうです。これも最近ほとんど聞かない)
 ○ずつない(苦しい=術<じゅつ>ない)
 ○けなるい(羨<うらやま>しい) ○こそばい(擽<くすぐ>ったい) ○ねそがこと(そ)する(目立たぬような人が大事を起こす)
 ○きんとと(金魚) ○かっか(下駄) ○ちちくま(肩車) ○きびしょ(急須<きゅうす>
 ○おむし(味噌) ○おまん(饅頭、生菓子) ○がんじ(丸薬<がんやく>) ○おひつ(飯櫃<めしびつ>、おはち)
 ○おしたじ(醤油) ○しっかい(悉皆=布の洗い張り) ○おじゃみ(お手玉) ○ちちりん(松毬<まつかさ>
 ○しぶちん(けちんぼ) ○がらんど(空<から>っぽ)
 ○びびんちょ(汚<きたな>い、不潔。トイレに行って手を洗わなかったりすると「ビビンチョ、カンチョ」とはやしたてたりした。いまだったら「いじめ」だろうか?)
 ○かんしょやみ(潔癖症=常軌を逸した清潔者)
 ○ちんこのまじない(呪文か?2、3歳ぐらいの幼児が転んだりして泣いたときに、こう唱えながら撫でると痛みが止まるとされた。私も小さいころ母がやってくれたが、実はショックで泣いたので、本当は最初から痛くなかったのかもしれない=チチンプイプイ)
 ○ねき(傍<そば>) ○とうない(とても) ○あんさん(あなた。親しい間柄だと「あんた」となる)
 ○あとじょり(後<うし>ろ下がり) ○あも(餅) ○いらち(せっかち) ○いてる(寒い)
 ○うろ(周章<あわ>てる) ○べんちゃら(お世辞) ○ええし(金持ち) ○おすもじ(寿司)
 ○おてしょう(手塩皿<てしおざら>) ○おとがい(顎<あご>) ○ごきんとさん(きっちり計算する。釣銭や割り勘のとき)
 ○えんばんと(折悪しく。米朝君の『上方落語ノート』には京都だけのように書いてあるが、大阪でも使った)
 ○あつけ(熱中症などを「暑気(あっけ)が入る」といった)
 ○はばかりさん(ご苦労さん) ○おけそく(仏前に供える餅) ○おんびき(蟇<ひきがえる>
 ○おんごろもち(土竜<もぐら>) ○おねきり(おにやんま) 
○らっぽ(銀<ぎん>ヤンマの雄) ○べに(おなじく雌) ○ぼっかぶり(ゴキブリ)

まだまだあると思うが、このくらいにとどめておく。
(『京なにわ 暮らし歳時記 船場の「ぼん」の回想録』山田庄一 岩波書店 2021年)