2023年10月22日日曜日

秋空

買い物に出かけると夕焼けがまるで炎を上げているように見えました。
朝、青空が広がりヒンヤリして歩くのにちょうどよかった。
午後は、暑いくらいでしたが、夕方になると寒さを感じるほどでした。
それでも北海道と比べると…

旭川で初雪を観測 平野部では今季全国初 札幌では初氷を観測」(北海道NHK)
記事を書こうとしていたら太鼓の音と鉦の音に山車を引くかけ声が聞えてきました。

第二章 四季五節の循環
 (四)秋まつりと供えもの
 新米を献じる秋まつり


 ドンドンヒャララ ドンヒャララ
 ドンドンヒャララ ドンヒャララ

 唱歌「村祭」の囃し言葉である。
その前に「村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日」とうたう。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)
 といっても、いまどきでは、その風景を連想できる人が少なくなっているのではあるまいか。
村の鎮守の神様とは、氏神様のこと。
ドンドンヒャララとは、太鼓と笛の擬音。
などと説明を加えなければいけいないことは、昭和も遠くになりにけり、だ。
 昭和40、50年代の高度成長期からのち、日本人の生活様式は大きく変わった。
その結果が、都市への人口集中。
あおのあおりで、農山漁村の過疎化。
最近は、村まつりの維持さえままならなくなっている集落もでてきている。
 かつては、といっても、ほんの半世紀も前でのこと。
村まつりは、各地でにぎわっていたのである。
 神輿や山車も境内から御旅所(おたびしょ)へと繰りだした。
子どもたちが歓声をあげながらそれを追った。
夜神楽も、大勢の人を集めて演じられた。
商店もないような小村にも、行商人がやってきて飴やおもちゃの露店をだした。
村まつりは、一大行事だったのである。
 もちろん、現在も各地に秋まつりが伝わる。
 時期は、一般的には10月から11月。
もっとも、古くは旧暦だったのを近代以降は新暦に移したので、現行より約一月おくれが本来のまつりの時だった、としなくてはならない。
 それは、稲刈りをすませ米の収穫が成った直後なのである。
稲作中心の平場農村では、旧暦10月までに収穫を終えたら直ぐにまつりができた。
一方、中山間の農村では、稲作とほぼ同じ面積の畑作がある。
畑作の始末まですませるには、さらに一ヵ月ほどかかる。
そこで、「霜月まつり」(旧暦11月)となる。
とくに西日本の山地農村には、霜月まつりが多く分布する。
  秋まつりは、いうまでもなく「実りの秋」の祝祭である。
 秋の実りの代表が米であることは、いうをまたない。
 まつりの神前には、穀物や野菜、海の幸、山の幸など種々のものが供されるが、いつも不可欠なのが、飯と酒と餅である。
それは、神官が奏上する祝詞(のりと)にもよく表されている。
「大前に御飯(みけ)、御酒(みき)、御餅(みかがみ)をはじめて種々(くさぐさ)の物を横山の如く机代に置足らわして……」と、一般的には続く。
その順が前後することはまずないはずだ。
つまり、常に最上位に飯・酒・餅が位置しているのである。
 これを熟饌(じゅくせん)という(もう一方に生饌<せいせん>がある)。
熟饌は、いずれも「米」の加工品である。
 今でこそ米ばなれの食生活が主流をなしているが、それは歴史からみると現代にかぎっての新現象にすぎない。
かつて、米は、常食としてゆきわたらなかった。
江戸期の年貢米制度や戦時中の配給米制度をもちだすまでもなく、一般的には米だけで毎日三度の食事を賄うことはできなかった。
が、さいわいにも、一方で畑作物に恵まれていた。
長く日本では、専業の稲作農家は少なく、稲作と畑作の兼業農家が圧倒的に多かったのだ。
そこで、少量の米に雑穀や根菜類を混ぜて増量した糅飯(かてめし<麦飯や稗飯など>)や雑炊で日常を食べつないできたのである。
 米はあくまでもハレ(非日常)の食材であった。
ゆえに、それをチカラ(力)とかトシ(稔)と呼び、霊力の宿る神聖な食料としたのだ。
とくに白米だけの加工品は最大のごちそうであった。
そこに「御」を冠するごとくにである。
 米は、というよりも稲は、もともと南方系の農作物であった。
日本は、稲作地帯の北限にあたる。
私どもの祖先は、代々を通じて品種を改良し、農法を開発して、この列島に稲作を定着させたのだ。
したがって、まつりの最大の動機は、先祖の労苦をしのんで稲作の豊穣を感謝することであったに相違ない。
そこで、米を第一の供えものとするのは道理というものであろう。
そして、「神さま、仏さま、ご先祖さま」の召し上がりものとしては、白米だけをふんだんに使って、しかも調理の手間をかけた御飯(もしくは、強飯<おこわ>)・御酒・御餅を用意するのも道理というものだろう。
 また、それをあとで下して氏子や産子が分配していただくのである。
神人が相嘗(あいな)める。
あるいは神人の共食。
まつりでのそれを「直会(なおらい)」ともいうが、それは、日本人のまつりの最大の特色といってよい。
それによって、私どもは「おかげ」があったとするのである。
 とくに明治以降、まつりの供えもので米がさらに特化することになった。
生饌の最上位も米(玄米と白米)、ということが日本中に徹底されたのだ。
それは、神仏判然令(神仏分離)にともなって、神社神道を国是と定め、公的行事の祭式統一がはかられたからにほかならない。
そして、村里においても宮中儀礼にならった「新嘗祭(にいなめさい)」がもっとも重要なまつりとして位置づけられたのである。
秋まつりが新嘗祭に。
それも、以前から各地で土着の秋まつりが行われていたからこそ、それにかぶせるかたちで新嘗祭をとりいれることが可能だったともいえるのだ。
 ちなみに、新嘗祭の「嘗」の語義も、カミとヒトとが嘗(な)めあうことで「饗」とも通じる。
つまり、神人が共食することを意味しているのだ。
そのところでは、日本のまつりの祖型は官民ともに同根にあった、といえるのである。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)
今朝の父の一枚です(^^)/
公園の田んぼでも稲刈りの後、天日干しをしていました。