2023年10月19日木曜日

ひこうき雲がなが~く伸びていた

昨日のニュースの中で気象予報士の近藤奈央さん
昨日の天気は「一円玉天気」と呼ぶことがあるそうですと教えてくれました。
今朝も青空が広がっていました。
でも、昨日の夕方、買い物に出かけるとひこうき雲がなが~く伸びていました。
今朝もひこうき雲が消えずに残っている。
明日は、天気がしだいに崩れるそうです。
昨日は、循環器科の診察日。
診察の後、インフルエンザの予防ワクチンを接種しました。
山内一也さんが

 そもそもウイルスに感染するとなぜ病気になるのだろうか。
ウイルス感染症の発病メカニズムは、ウイルス学が著しく進歩した現在でも、実はほとんどわかっていない。
 ウイルスを病原体として見ていると忘れがちだが、ウイルスに感染すると必ず病気になる(症状に気付く)とは限らない。

(『ウイルスの世紀 なぜ繰り返し出現するのか』山内一也 みすず書房 2020年)

と書かれているように感染したから発症するとは限りません。
よく学級閉鎖や学年閉鎖などのニュースをみかけますが、全員が発病していません。
でも、狭い教室の中でくしゃみをするとほとんどの人が感染しているはずです。
以前は、インフルエンザが流行していてもマスクをすることはほとんどなかったと思います。
私のように基礎疾患(心臓病)があり、高齢者の場合、感染すると重症化することがあるのでワクチン接種をしています。
ワクチン接種をしなくても大丈夫な人、逆に、副反応でひどいことになる人もいるのですから
接種をするか、しないかはそれぞれの判断に任せるべきで、強制されることはないと思います。
スズメたちが稲刈りのあとの落ち穂拾い?をしていました。
これから冬に向かって栄養を蓄えないと厳しい冬を生き延びることはできません。
ウクライナやガザの人たちは、どうなるのだろう…
アメリカ大統領のイスラエル訪問は、まるで地上侵攻へのおすみつきを与えに行ったようなものだと思っています。

須賀川拓さん

そして、ニュース23の中継でもお伝えしましたが、責任はだれにあるのか、といったことはとても重要なことですが、それ以上に深刻なことがあります。
それは、電気や水道が無いだけでなく医療機器の不足によって、この攻撃で重傷を負った人、病院内部にいて生き延びた人への治療が、限りなく困難になっているということです。
一つ一つの攻撃は、その瞬間の犠牲者や被害に注目が行きがちですが、周囲に住む人々の生活を根底から崩しているということを知ってほしいです。
幼い時に移り住んだので大阪弁のことはよく分らないので…

第4章 失われた船場ことば

 このごろ東京にいても、電車内などで関西弁を耳にすることが珍しくない。
それほど関西弁が一般的になったからだろう。
それには、戦後普及したラジオやテレビで、関西発信の「お笑い番組」が多くなったのが大きく働いていると思う。
しかし、昭和二十年代には東京で関西弁を聞くことは滅多になかった。
私の友人で京都大教授になった森毅(もりつよし)君(一風変わった男で、朝ドラに俳優として出演したりして名物教授になっていた)が東大生だったころ、満員電車(都電)の奥の方へ進めないので「すんまへん、奥へ行かしとくなはれ」と大声で叫んだところ、乗客が驚いて通路をあけてくれたと聞いたことがある。
また、自分の部屋の掃除をすませて、下宿の小母さんにゴミを捨ててもらおうと「小母さん、このごもく(関西では塵<ちり>のことを「ごもく」という)ほってもらえまっか?」とたのんだところ、怪訝(けげん)な顔をして考えていたが、しばらくすると五目めしが来たという。
当時の東京では、それほど関西弁が珍しかったわけだ。
そのかわり、元来関西弁だった「しんどい」は全国どこでも通じるようになった。
(『京なにわ 暮らし歳時記 船場の「ぼん」の回想録』山田庄一 岩波書店 2021年)
 それはそれで有難いことなのだが、一方では大阪の「古き良き大阪弁」は、全く影をひそめてしまった。
もちろん、言葉は時代とともに変わってゆくものであるが、それとは違った意味で、大阪弁が全く変わってしまったのである。
 それは第二次世界大戦の戦災によるところが大きいと思うが、戦災に遭わなかった京都でも言葉の変化はあるようで、かつて狂言の三世茂山千作さんが「近ごろ京都弁が変わりました。このごろの若い娘さんは「○○しおし」(しなさい)てなこと言わはりますけど、私らの時分は、あんなことは言わなんだもんどす」と嘆いておられた。
だが、大阪弁の変化は次元が違うのである。
 古くから大阪弁の基本は「船場ことば」だった。
「船場ことば」とは、船場・島之内・雑喉場(ざこば)・堂島から天満にかけての大店(おおだな)の主人たちによる一種の社交用語で、自らを謙(へりくだ)り相手を奉る丁寧な話し方である。
もともと大阪の大店では、上方落語の『百年目』などに描かれているように、商売の実務は力のある番頭が仕切る。
主人は奥にいて全体の動きを見るほか、出入り屋敷への挨拶や同業者の寄合いなどに顔を出して、いろいろな情報を集めたりするのが仕事だった(もちろん商いの実態を知らなくてはならないから、若い間に親戚や同業者の店に奉公して実務を勉強する)。
そこで「○○でござります」というのが訛(なま)って「○○でごわす」となる。
戦前の大阪では、これが一般的な言葉遣いだった。
主人の言葉遣いに従って、使用人なども自然に丁寧な言葉遣いになっていた。
私なども、学生時代に友人の両親と話すのに「○○でごわす」と言って、「マア古い言葉を使いはる」と笑われたものだ。
文字にすると、西郷さんが喋(しゃべ)る薩摩弁に似ているが、発音が柔らかで全くニュアンスが異なる。
文楽三味線の古老だった二代鶴沢清八(四代叶)などは、もう一段丁寧で「ござらっしゃります」と言っていた。
 時代に連れて話し言葉が変わってゆくのは自然の流れである。
昭和初期のころ、わが家と親交のあった高安六郎氏(船場の古い医家に生まれ、家業のかたわら演劇評論家として活躍。昭和22年<1947>の昭和天皇による初の天覧文楽で説明役を務めた)が、わが家を訪れて祖母と話すと、「あんたのとこへ来ると古い大阪弁が聞ける」と懐かしがられていたから、私の父や母の遣う大阪弁も昔とは違っていたのだろうと思う。
 平成元年(1989)の秋に山村楽正君が国立劇場で「舞の会」を開いた時に、ゲストとして大阪の地唄の代表的存在だった菊原初子さん(人間国宝)を招き、私が「浪速今昔」と題する対談のお相手を務めたことがある。
菊原さんは数え年の4歳から、父の琴冶(ことじ)師やさらにその師匠だった菊植明琴(きくえめいきん)について、琴の稽古を始めたとのことだ。
若いころから船場の名立たる大家(たいけ)へ父の代わりに稽古に行ったというだけあって、実に綺麗な大阪弁で話す人だった。
その時に聞いた話の中で忘れられないのは、そうした大家は通り庭を奥へ行くのに三の簾戸(すど<普通の家は中簾戸までしかなくしかなく、私の家もそうだった)があり、それから奥は女子衆(おなごし)さんの着物も髪型も変わり、挨拶のお辞儀の仕方も違うので、表の奉公人は奥へは通れなかったとのことである。
まるで「大奥」の感がある。
また、稽古が遅くなり道が暗くなった時は、必ず男性の奉公人が提灯を持って、家まで送り届けてくれたそうだ。
菊原さんの綺麗な大阪弁も宜(むべ)なるかなと思った。
こうした古い話し方が、最近は完全に消えてしまっている。
 私の家でも年取った女子衆さんは、「頭を下げて頼んだ」ことを「手摺(てす)り体貌(たいぼう)で、頼んで参(さん)じました」などといった古い言葉を使うことがあったものだ。

…つづく…

(『京なにわ 暮らし歳時記 船場の「ぼん」の回想録』山田庄一 岩波書店 2021年)
今朝の父の一枚です(^^)/
逆光になって残念がっていました。

✤はやにえ

 モズは、捕らえた獲物を、そのまま食べてしまうこともあるが、いったん有刺鉄線や木の枝や刺(とげ)などにさしたり、枝にはだんだりする〝はやにえ〟という奇妙な習性がある。
〝はやにえ〟が最も目立つ季節は、秋である。
公園や空き地、農耕地などの有刺鉄線や木の枝などを注意してみると、いろいろな小動物が〝はやにえ〟になっている。
主な〝はやにえ〟としては、次のようなものが観察されている。
 昆虫類(バッタ、イナゴ、カマキリ、ケラ、コオロギ、トンボなど)、クモ類(ジョロウグム、クサグモなど)、甲殻類(アメリカザリガニ、ザリガニ、スジエビなど)、環形動物(ミミズ、ヒル)、魚類(ドジョウ、タナゴ、モツゴ、フナ、ハヤ、ハゼ、メダカ、キンギョなど)、爬虫類(カナヘビ、トカゲ、ヤモリ、ヤマカガシ、シマヘビ)、鳥類(スズメ、カワラヒワ、ジョウビタキ、カシラダカ、アオジ、ウグイスなど)、および、哺乳類(アカネズミ、ハタネズミ、ノネズミ)など。
…つづく…
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)