2019年12月27日金曜日

ころころ変わる…

朝食の用意をしているときに体が熱くなり、掌に汗が
こんな時は脈拍が速くっているなと血圧を測ると
上が128で下が91、脈拍が94でした。
外を見ると雨…
気圧の急な変化に体がついていけていないようなのでリハビリ散歩を諦めました。
午前中、何もしていないと眠くなるばかりなので
昼食後、血圧も脈拍も通常になっていたので出かけました。
メタセコイアの葉がドサッと落ちていた…
公園で出会った鳩(ドバト)。
左足が悪いようで、ピョンピョンと右足だけで移動していました。
こんな子を見ると自分も頑張らないといけないなと思うp(^^)q
それにしても今日の天気はころころ変わる。
青空だなと思っていると黒い雲が出てきて風も強く、時々、パラパラと小雨…
早目に帰ることにしました。

先日、大田垣蓮月尼のゆかりの地、西賀茂を訪ねましたが
世界人物逸話大事典』より蓮月尼の逸話を幾つか転記しますφ(..)
大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)1791~1875
 江戸後期の歌人。
伊賀上野の家老藤堂良聖の子として京都に生れ、知恩院門跡の坊官(ぼうかん)大田垣光古の養女となる。
名は誠(のぶ)
7、8歳頃より亀岡城主に仕え、武芸や和歌などを学ぶ。
33歳のとき二人目の夫に死別し、出家する。
「屋越しの蓮月」といわれるほど転々とし、晩年に西賀茂神光院境内の庵に落ち着き、85歳で寂した。
和歌は六人部是香に学び小沢蘆庵に私淑していた。
家集を『海人の刈藻』という。
また焼物や書にも一風の雅味を有している。
(『世界人物逸話大事典』朝倉治彦 三浦一郎編 角川書店 平成8年)
◇ 文久元年9月26日、橘曙覧(たちばなのあけみ)が蓮月尼を訪問した。
初対面ではあるが、以前から消息のやりとりをしていたので、気心がしれていた。
蓮月はたいそう喜んだ。
曙覧が暇を乞うと、蓮月は宿を聞いた。
曙覧が、三本木の山紫水明の所に借居しようと思っていると言うと、蓮月は大きな急須や茶袋などを渡して、「借屋は物の足りないものです。御用がありましたらお告げください」と、返すがえす言って別れた。
(橘曙覧『榊の薫』)
◇ 蓮月に帰依していた室町の法被屋海老屋長右衛門の老母が、尼に阿弥陀如来の像を寄進しようとした。
蓮月は、「こんな仏様を拝んでいたら執着が深くなってしまうから、どこかのお寺様へやってくれ」と言ったという。
また、ある冬の日にその老母の店に蓮月が来てふるえている。
近所の単衣一つの人に上着をやったという。
そこで老母が小袖を着せると礼を言って清水へ参りに行った。
しかし帰ってきたときには再び上着が無くなっている。
物貰いにやってしまったと言う。
(大内青巒『破木杓』)
◇ 尼の引っ越しが頻繁であったことは有名だが、三浦松平という大工がいつも荷を運び、繕いをしていた。
その妻のうたさんの話では、「松平が行かなければ、何日でもお待ちなさるので、夫も他の仕事を差し置いても必ず行きました。宿替えの回数は三十四度まで覚えています」という。
(三浦うた談)
◇ 春の頃、ある人が尼を訪問すると、土鍋にお粥が焦げようとしていた。
鍋を下ろして待っていたが帰ってこない。
その後再び訪問すると、今度は在宅で、先日の事を聞くと、「粥のおかずに豆腐を買いに出たのですが、ふと吉野の花を思い出して、吉野の方に行ったのです。旅費も持たないので山家に泊めて貰おうとしたのですが、駄目なので、仕方なく花の下で寝て思う存分花を見てきました」といって、懐紙に

  宿かさぬ人のつらさを情けにて
  朧月夜の花の下ぶし


と認めたという。
 (西村時彦『近古歌話』)
◇ 多くの人々が尼の歌を求め、机の上には色紙や短冊を山をなしていた。
そこで蓮月は年格好の似ている尼を身代りにして、自分は隠遁していた。
ある日その尼がやってきて「いつもいつも同じ歌では疑われます。新しい歌をください」という。
蓮月が「まだ人は書かせに来るのか」と聞くと、「机上に三百や五百の短冊のないひはありません」という。
蓮月は「それは大変だ。少し代筆するから、こっそりもって来なさい」といった。
 (新保磐次『女子日本読本』下篇第二)
◇ 明治4年4月、原宏平が蓮月を訪問したところ、外出中だといわれた。
ちょうど雨が降っていたので、

  一声もきかで帰らばほととぎす
  ぬれて尋ねしかひやなからむ


と書いて渡して帰ろうとすると、その老女があわてて後を追ってきて、「私が蓮月です。お入りなさい」と招き入れた。
蓮月は「この頃、風流を解さない人々が多く訪ねてきて煩わしいのです。お許しください」といって食事をご馳走して、原が暇乞いをすると、自分の陶器などに添えて、

  いたづらに君をかへさばほととぎす
  ひとりやなかむ聞人なしに


と書いてさしだした。
「これは何よりもうれしい」といって、宿に帰った。
 (原宏平文)
◇ 蓮月への短冊や陶器の注文を仲介をしていた森茂助は、あるとき、期限を切った注文だと嘘をついた。
それをすっかり忘れてしまい、遅れて取りにいった。
茂助の顔を見ると、尼は血相を変えて怒った。
茂助は、娘が病気だったと再び嘘をついた。
すると尼はにわかに態度を変え、畳に頭をすりつけて茂助に謝った。
そのうえ薬や菓子などを茂助に与えた。
茂助は後悔して、決して以後は嘘をつかないと心に誓った。
その後も、娘への見舞いと茂助への詫びの気持ちだといって、友禅の上等の縮緬の帯を渡した。
また、娘に会ってとても可愛がって色々なものをくれた。
この後、茂助は性格が一変し、相当の人物になった。
 (森茂助談、西行庵小文聞)
◇ 尼は常に棺桶を用意し、中には夏冬両様の経帷子を作っていれていた。
帷子には、

  ちりばかり心にかかる雲もなし
  けふを限りの入相のそら


と書いてあった。
しかし尼は長命だったので、その棺桶を村内の貧しいものが死んだとき必ず与えた。
村人も「先生の所へいって貰ってこい」という具合で、西賀茂だけでも棺桶を施された数は少数ではない。
  (和田僧正談)
◇ 蓮月尼の臨終が迫ったときに、富岡鉄斎に連絡があったので、鉄斎は上田涼湖と駆けつけたが、尼はすでに危篤であった。
二間の部屋に急須と茶碗があるだけの庵であった。
そこへ村人が二人来て、尼の後の世話をする人を尋ねた。
縁者のない尼であるので、鉄斎がするというと、一つの包みを取り出して、先年預かったものだと言う。
開いてみると三十両の金が入っていた。
清貧の中にも死後の用意をしていたのである。
 (小原頼之「蓮月逸話」『心の花』明治37年4月号掲載)
     〔古相正美〕
(『世界人物逸話大事典』朝倉治彦 三浦一郎編 角川書店 平成8年)
午前中に耳鼻科を受診しました。
30年以上お世話になっている。
先生は90歳になられるのでいつかはと覚悟していましたが、明日で閉院される。
お聞きすると60年もの長きにわたって診察されている。
今までお世話になったことのお礼を先生と受付の方にお伝えました。
心筋梗塞を発症したのが2011年7月31日の日曜日。
その前日に受診していました。
その時は、左耳も聞こえていて、右耳も聴力は普通だった。
2011年9月13日に退院して、14日に当院を受診しました。
治療後、外に出ると母が心配そうな顔をして待っていました。

風邪かなと思った時は、内科でなく先生に診てもらっていました。
先生は、あまり薬を処方せず、出しても四日分と少なめに出されていた。

新たに耳鼻科の病院を探さなくてはいけないのだけど、先生のような良心的な病院に出会えるかな…