2019年12月14日土曜日

雲が多くて…

天気予報では午前中晴れだったけど雲が多かったです。
ハシブトガラスがナンキンハゼの実を採ろうとしているのですが
細い枝がユラユラ揺れて苦労していました。
でも嘴の中はナンキンハゼの実がいっぱい入っているみたいでしたp(^^)q

12月14日 
 赤穂藩の旧家臣四十七人が吉良邸(きらてい)に打ち入った。    
                  1702(元禄15)年
 この日の深夜、堀部安兵衛(ほりべやすべえ)宅で勢揃いした赤穂藩の旧家臣大石良雄(よしお)ら47人(46人説もある)は、翌日の早朝、本所(ほんじょ)の吉良邸に乱入し吉良上野介義央(こうずけのすけよしなか)の首をとった。
ちょうど22ヵ月前に主君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)が江戸城内で義央に切りつけたため切腹させられ、藩はとりつぶされてしまった。
旧家臣は幕府の処置が不満で、「主君の敵(かたき)である上野介が生きていてはどこにも顔向けができない」として討ち入ったのである。
なかにはまだ15歳の大石主税(ちから<良金(よしかね)>)もいた。
翌年2月4日、46人が切腹させられると、まもなくこの事件は浄瑠璃や歌舞伎で劇化され、「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」物として人気を集めた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
昨日の記事で13日は「すすはらい」と紹介しました。
NHKの5分間の番組「浮世絵EDO-LIFE」で
年末は大忙し!歌麿“煤掃き(すすはき)」が紹介されていました。
番組のサイトにもありますが、これは「忠臣蔵」をパロディー化したものだそうです。
当時、実際の事件を取り上げることは幕府批判になると厳禁でした。
そんな中でも表現者は知恵を働かせ工夫して浮世絵や浄瑠璃、歌舞伎などで作品を発表していたのです。
そして江戸の庶民も表現の意図するところをくみ取っていたのです。
一方、表現の自由があるはずの今の日本はどうなっているのでしょうね!
映画やテレビなどを見ているとついつい赤穂浪士に肩入れしてしまうのですが(^_-)-☆
古文書で読み解く忠臣蔵』には当時の証言を読むことができますし、時代背景なども知ることができます。
古文書は本を読んでいただくことにして、解説から一部転記しますφ(..)
②栗崎道有(くりさきどうう)記録
 ●額の傷は三寸五、六分

 これは(原文略)吉良義央(よしひさ)の外傷を診断した外科医、栗崎道有(くりさきどうう 1664―1726)の記録である。
栗崎家の祖、初代の栗崎道喜はルソンで金創外科を習得して長崎に持ち帰った人で、以後代々南蛮外科医の家として知られる。
道有は元禄4年に幕府の医官となり、この年38歳。
(『古文書で読み解く忠臣蔵』吉田豊・佐藤孝亮 柏書房 2001年)
 道有はこの日、朝から神田明神下の酒屋伊勢屋半七の療治に出掛けていたところ、高家の畠山義寧から至急の登城を促す手紙が来たのだった。
刃傷事件が起きて吉良を最初に診たのは本道方(内科)の津軽意三と外科方の坂本養慶だったが、出血が止まらず外科の第一人者である道有に非常召集がかけられたのだった。
 道有が登城して見たのは、いまだ出血が止まらずに生あくびを繰り返し、ぐったりとしている吉良の姿だった。
 さて道有の治療は以下の通りである。
額の傷は筋交(すじかい 斜め)に眉毛の上の骨まで切れている。
傷の長さは三寸五、六分(10.5センチ)で、熱湯で温めて洗い小針、小糸で6針縫う。
ウスメチヤを付けて、ふたにも黄芩(おうごん 漢方薬。止血・鎮痛・解熱作用がある)を付ける。
なお、ここで言う「ウスメチヤ」「ふた」については、残念ながらよくわからない。
一方、額の傷に比べ背中の傷は浅い。
それでも3針を縫って、額と同じように薬を使った。
巻き木綿(包帯)は下着の白帷子を引き裂いて手際よく包んだ。
 応急の処置をした道有は、つぎに血の付いた衣類が散乱している部屋中を片付けさせ、汚れた畳は吉良の家来に申し付けて掃除をさせた。
役人が来て言うには、穢れのある体では、たとえどんな理由であれ、公の場には出られない。
吉良のためにせめて部屋の中だけでも綺麗にしたいと、吉良の家中の者と一緒になって掃除をした。
 道有は台所よりご飯を、湯呑所より湯を取り寄せた。
これは儀式のために吉良が朝から何も食べていないのではないか、そのために体力が落ちているのではないか、とみたからだった。
この道有の見立ては当たっていた。
吉良は焼き塩を少々入れた湯漬けにして二杯食べると、たちまち元気を取り戻した。
生あくびを繰り返して草臥(くたび)れたと見えたのは、原因は決して出血ばかりではない。
空腹で体力が落ちたからだと考えた道有はやはり外科医として名医であった。
 なお台所で病人に食べさせると言っては穢れを嫌う目付衆がくれないと考えて、それは隠して求めた。
道有の細かい神経が吉良を救ったといえよう。
◆吉良と道有
 道有と吉良はこの「湯漬け二杯」以来、懇意となり、吉良が本所へ屋敷替えになっても、5、60日に一度は頼まれて往診に行った。
平癒したときには多額の謝礼を頂いたという。
さらに言えば、後に浅野家浪人の討入りで討取られた吉良の首を後で返された際、胴体に縫合したのも道有だった。
 上野介の遺骸は万昌院に葬られたが、後に栗崎道有もその遺志により同じ万昌院に葬られた。
同院は牛込から現在は中野区上高田に移転しているが、不思議な縁で結ばれた二人は同じ墓地で仲良く眠っている。
(『古文書で読み解く忠臣蔵』吉田豊・佐藤孝亮 柏書房 2001年)
番組は見ていないのですが(^^ゞ
NHKの連続テレビ小説「あぐり」がありました。
吉行淳之介(作家)と吉行和子(女優)の母親である吉行あぐりさんがモデルになっていて
あぐり」という名は洒落た名前だなと思っていたのですが…
◆花岳寺と「あぐり」
 浅野家と吉良家の史料を読んでいるうちに、不思議と両者に共通していることが多いことに気づく。
たとえば花岳寺といえば赤穂の浅野家の菩提寺であり、忠臣蔵関係の史料も多数所蔵されていることで知られる。
 ところで三河吉良町、つまり吉良家の領地にも花岳寺があり、なんと吉良家の菩提寺の一つなのである。
もっとも吉良家の菩提寺では華蔵寺が有名だが花岳寺も間違いなく菩提寺として現存している。
なお赤穂の花岳寺は曹洞宗、吉良のは臨済宗妙心寺派である。
(『古文書で読み解く忠臣蔵』吉田豊・佐藤孝亮 柏書房 2001年)
 もう一つ、浅野長矩夫人(瑤泉院)の本名が「阿久里(あぐり)」であるのは知られるが、吉良義央の次女にも「阿久利(あぐり)」がいて、陸奥黒石藩主津軽政兕(まさたけ 釣りの書「何羨録(かせんろく)」を著したことで知られる)に嫁いでいる。
なお将軍綱吉の最初の御用人だった牧野成貞の妻も「あぐり」と称した。
 「あぐり」とは女性の止め名で、次に男児が欲しい時に付けられた名で、当時よく用いられたとの説がある。
(『古文書で読み解く忠臣蔵』吉田豊・佐藤孝亮 柏書房 2001年)
播磨赤穂 台雲山 花岳寺

 「花岳寺本堂(かがくじほんどう)」(愛知県)

あぐり【阿久里】
女児ばかり生れて、男児が欲しい時、末の女児に付け、あるいは、もう子が欲しくない時に、生まれた子に付ける名。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年)
今朝の父の一枚です。
公園でも迎春準備が始まっています(*´▽`*)