2019年12月15日日曜日

曇り空…

天気予報では、昨日よりも気温が低いというので
覚悟して公園にきましたが歩いているとあまり寒さを感じませんでした。
午後からの方が晴れているのに風が冷たくて寒かった…
スズメは米などを食べるので害鳥と思われがちですが

 スズメは、町の中にあるさまざまな有機物を食べています。
我々にとって邪魔になる雑草の種を食べ、害虫も駆除してくれています。
実際、スズメを駆除したら、害虫が大発生してしまった、という話は世界各地にあります。
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)
数日前に田舎から送ってきたミカンを二房程、倒木の株にできた穴に突っ込みました。
というのは田舎のミカンは種付きなんです。
もしかしたら芽がでるかなと思ったけど…
なんとカラスが見つけて持っていってしまった。
前に埋め込んだミカンだと気がつくのが遅かったので
ミカンを持っていく姿を写せなかった(T_T)
見えないように隠したつもりだったけどカラスは賢いな…
種を糞にくるんで何処かに撒いてくれるかな?
「新美の巨人たち」(こちらではテレビ大阪) の
昭和の金字塔!東京タワー×井浦新…繊細にして力強い美しさの秘密
初めて知ったのですが、東京タワーと通天閣は兄弟なんですね!
通天閣が次男で、東京タワーは五男だそうです。
通天閣に関連して、
昭和40年(1965)発行の本で資料としては古いのですが
大阪史話 近代化うら話』より「新世界五十年」を転記したいと思いますφ(..)
σ(^-^;的には表現に?と思う言葉もありますが、そのまま転記します。
新世界五十年
 パリのエッフェル塔を真似た通天閣に代表される新世界。
 大阪市民の共同娯楽場として50年。
 入場料5銭のルナパークは、レクリエーションセンターの元祖である。
(『大阪史話 近代化うら話』朝日放送編 創元社 昭和40年)
 明治36年、第五回内国勧業博覧会が現在の天王寺公園の一帯で催され、イルミネーションやアイスクリームなどが大阪市民の人気を呼んだことは、『博覧会七十年』(本書 37ページ参照)の項で述べたが、この時、博覧会に使われた土地が約10万坪、その内4万坪が博覧会終了後土地建物株式会社(現在の同名会社とは関連がない)に払い下げられた。
その4万坪が今日の「新世界」の母体となったが、新世界が誕生したのは明治44年7月3日のことであるから、博覧会が行われてから8年もの年月が経ってからのことになる。
大阪土地建物はこの土地の転用に当たって当初から大衆娯楽場にしたい意向を持っていたが、さすがは生き馬の目を抜く大阪商人、芝居中心に栄えた千日前道頓堀よりうんとハイカラな盛り場を出現させて世間をあっと言わせる魂胆だった。
手本になったのが、パリのエッフェル塔とニューヨークのコニーアイランド遊園。
エッフェル塔を真似たのが通天閣、コニーアイランド遊園を模したのがルナパークである。
もちろん新世界の名も散々頭をしぼってつけたもの、他には「新パリ」「新市街」「第二千日」などという名が候補に上がった。
ルナパークに使われた土地が約3千7百坪、その周りの興行館が8軒、その周りに飲食店、新世界はその規模の大きさと奇抜なアイディアで当時130万の大阪市民の共同娯楽場として華々しく登場したわけだ。
 では時間を一飛びしてわれわれもルナパークに入園してみることにしよう。
 窓口で5銭払って入口へ、入口では真っ黒な顔をしたインド人が、いともにこやかに出迎えてくれる。
黒い上衣に赤いズボンのいでたち、いきなり見物人の度肝を抜こうという仕掛けであるが、ここでびっくりするのはちと早い。
入口から右に回ると最初が、「美人探検館」、左側が入口にスフィンクスを型どった、「エジプト館」である。
「エジプト館」の隣は、「不思議館」、豊太閤の石膏造りの人形が、パッチリ目を見開いて椅子から立ち上がり、カタコトカタコトをエレキ仕掛けで階段を下りる。
続くは「氷山館」、冷蔵庫の原理を応用して館内を冷房しているので、見物に汗だくのお客に好評だ。
汗がひっこむと「観戦鉄道館」に行く。
旅順、撫順、奉天など日露戦争の激戦地がパノラマによって一目でわかる。
「一銭館」は何でも一銭、ノゾキの活動写真が一銭、力試しが一銭である。
芝居好きの人のために、「青華殿(せいかでん)」、動物好きの人のためには「モンキーホール」、音楽好きの人のためには短剣をはき、正装に威儀を正した楽人が演奏する八角形の「音楽堂」が中央にある。
音楽堂の後が泉水、ネオンの光で照らされた綾糸の滝に七色の水が落ちている。
滝の向こうにそびえているのが高さ45メートルの真っ白な「ホワイトタワー」、ここから通天閣へルナパークの上空を一直線に横切って、4人乗りの赤いロープウェーがゆらゆらと空中を進んで行く。
 以上ルナパークを急ぎ足で見て回ったわけだが、新世界「ルナパーク」は戦後各地で盛んに開かれてきた博覧会やレクリエーションセンターの元祖だと考えればよい。
それにしても技術革新の今日、いまだに「ルナパーク」のアイディアが死なずに生きているとは驚くべきか、嘆くべきか。
 大正2年には新世界ラジウム温泉、大正4年には花街南陽組合に大正芸者というモダンな芸者衆が出現して新世界の人気はいやが上にも上がった。
と言いたいところだが、実は新世界の人気も大正10年頃まで。
というのは第一次世界大戦後の不況の影響でこういった歓楽街の存在が世の中から忘れがちになったことも原因の一つだが、ルナパークそのものが十年一日のごとく、同じものを同じ仕掛けで見物客に見せていたから、行き詰まってしまうのも当然だった。
大正14年には早くもルナパークは別会社に買収されて、事実上解体することになってしまった。
ルナパークは全部解放され、中に新しくパーク劇場、公楽座、世界座といった興行館が誕生した。
現在、新世界松竹座の支配人である柴清一郎さんは当時公楽座の支配人だった。
「その頃はまだトーキーがなかった時分ですが、新世界創業当時のハイカラな気風は、まだまだ生きていたんでしょうね、大阪ではじめて西部劇を上映したんです。トミックス、バックジョーン、フレッド・トムソンなどといった人気俳優が、馬に乗って西部の荒野を駆け巡る勇ましい映画です。弁士の解説つきでこれが非常にうけたんです。一時は、日本で独占して西部劇をかけていたこともありました。そのほか、千日前楽天地にも出演していた田中絹代さんが、琵琶を弾いて人気を呼んでいましたし、原駒子、森静子といった後の有名な映画スターも新世界の「日本クラブ」という演芸場で活躍していたものです。しかしルナパーク時代から比べてみますと、大正10年に飛田(とびた)遊廓が出来たこともあって、お客の層ががらりと変わってしまいました。何といってもルナパークは子供連れ、家族向きの遊園地であったのに、演芸中心の新世界になったんですからこれは当然の成り行きですが、これが以後の新世界の運命を大きく左右したと思いますね」
 それにしても大正から昭和にかけて、千日前の楽天地、築港の潮場と並んで、新世界は大阪の三名所の一つに謳われた。
その新世界の栄枯盛衰を上空からじっと見つめ続けて来たのが、「通天閣」。
新世界を語るに通天閣なしでは語れない。
通天閣観光の野原稔専務の話を聞いてみよう。
「今の通天閣が二代目の通天閣であることはよくご存知の通りですが、昔のと今のとを比べてみますと、高さは昔のが74メートル、今のが103メートル、建築費が昔のが9万7千円、今のが3億4千万かかっています。もちろん金額を直接比べるわけにはゆきませんが、設備面でも相当の開きがあります。私も古い通天閣には何回も登りましたが、エレベーターが金網で囲まれていたり、展望台も貧弱だったりしたもんで、お客も余り登っていなかったと思います。しかし上に登ってみると、大阪の空は本当にきれいに澄んでいました。それとネオンの大広告、広告主は今は変わってしまいましたが、これは印象的でしたね。その後、吉本興業によって買収されましたのが昭和13年9月21日、買収金額は25万円でした。通天閣の収入はもっぱら15銭のエレベーター代でしたが、はやらなくなってから下に作ったアシベ劇場と花月でもっていたようなもんです。
 戦後、他の盛り場に比べて新世界の復興のテンポが遅かったので、これを取り戻すにはまず通天閣をと、地元の商店の人達の間で千円二千円と零細な基金の募集が始まったのです。新通天閣はこうした地元の熱意が結実したものですが、工事に当たった奥村組の積極的な協力も忘れられません」
 確かに通天閣の再建は大阪商人のど根性が発揮した壮挙に違いない。
恐らくこれだけでも一編の大阪物語が出来ることだろう。
 なお旧通天閣は昭和18年1月16日、足下の大橋座の火事で類焼、脚が曲がってしまって、しばらく醜い姿を曝していたが、時あたかも一億総決起、金属回収のやかましかった時代、通天閣も戦争に勝つためと称して、国家に献納されることになった。
同年2月13日、肌寒い朝、通天閣の下には坂間大阪市長らが国民服とゲートル姿で集まり、献納式が行われた。
やがて通天閣は解体され、屑鉄と化した。
しかし通天閣が果して戦争の役にたったのかどうかはまだ明らかでない。
一説には終戦当時、明石の海辺で錆ついた通天閣の残骸が空しく眠っていたとも言われている。
(『大阪史話 近代化うら話』朝日放送編 創元社 昭和40年)

 カラスウリは野山のつる植物。
巻きひげを絡ませながら細いつるを伸ばして長く伸び、やぶを覆って繁ります。
地下にはサツマイモ大のイモがあり、食用にはなりませんが、昔は近い仲間のキカラスウリとともにデンプンをベビーパウダーに使いました。
(『身近な植物に発見! 種子(タネ)たちの知恵
  多田多恵子 NHK出版 2008年)