2019年12月20日金曜日

風が吹いても…

今朝は、風が吹いていたけど
寒さをあまり感じませんねと挨拶をかわしました。
空は青く雲がほんの少しだけ。
広角レンズを持ってきていないので携帯で写しました。
久し振りにキクイタダキに会えたけど
チョコマカ動き回るスピードに追いつけませんでした(^-^;
鳥を撮影されている方は600mm程の超望遠レンズで写しておられます。
σ(^-^;は、70㎜~300㎜のズームレンズです。
重たいレンズを持って歩けるほどの体力はありませんし
高いレンズを買うだけの経済力もありません(^^ゞ
たしか40年ほど前は鳥の撮影は300㎜でいいと本に書いてあったけど
公園で出会う方のほとんどが600㎜相当のレンズで撮影されている。
昔は、300㎜レンズで軽いレンズがあったのだけど
今は、高性能の高くて重いレンズばかりのような…
ミラーレスのカメラなら軽いと思うのだけど
今持っているカメラを買い替える余裕はないし
近い将来、50㎜マクロや24㎜レンズで散歩の記録を撮るようになるなと思っています。
昨夜のEテレ「デザイン トークス+(プラス)
「ソーシャルデザイン」よかったな(*´▽`*)
再放送が25日(水)午前10時25分からあるので
見ていない人にはぜひ録画予約をしてみてもらえたらなあと思います。
最後の方で「NPO法人 おてらおやつクラブ」の紹介がありました。
見ていて目頭が熱くなりました。
代表の松島靖朗さんは
大阪でお母さんとお子さんが餓死状態で発見される事件が起こったのを知って
お寺ではお盆などにたくさんの食べものをいただくのだけれど
その食べ物をいろんな事情で食べものに困っている人たちに
お届けすることができないかということを考えるようになったのがきっかけで活動を始められたそうです。

お寺の「ある」と社会の「ない」をつなぎ直す仕組みのデザインの美しさが
高く評価されこの活動は2018年度グッドデザイン大賞に選ばれました。
今では全国1000を超えるお寺に広がり、
毎月1万人もの子どもたちのもとに食品を届ける新たな「社会インフラ」を創造しています。

(松島)
貧困問題というのは経済的な困窮ということもありますけれども
孤立してしまうということが一番大きな要素で
その孤立感の解消するお力添えが少しはできてるのかなという実感もありますね。


そもそもお寺は数百年もの間地域の信仰の場であり、
人々を見守ってきた場所です。
この活動は苦しむ人々を救うという仏教の教えそのものであるのです。
と、番組の中で紹介されていました。
もうじきクリスマスということで日本の町中はクリスマス一色ですが
商戦としてのイベントのクリスマスでハロウィンの時のように騒々しいだけのような…
Eテレの「グレーテルのかまど」を見ていると
本当のクリスマスは日本と大違いだなと思います。
サンタクロースのことではありませんが
世界神話辞典』より「聖母マリア」の項目を転記したいと思いますφ(..)
聖母マリア】(Virgin Mary)
 字義どおりには、処女マリア。
聖母マリアの人格のなかには、大地女神――古代宗教の「太母神」――の昔の地位の復活と見受けられる点がいくつかある。
はじめ、聖母は他の聖人以上の尊敬を受けていたわけではなかった。
しかし、4世紀以降、キリスト教徒がマリアに捧げる献身的愛情は目立って大きくなっていった。
431年のエペソスの宗教会議は、マリアの遺体があると思われている教会で開催されたが、彼女にテオトコス( Theotokos )「神を生んだもの」という称号を認めたのである。
この語は、ラテン語にすると、マーテル・デイー( Mater Dei )「神の母」ということになる。
そこには、パトゥモス島の聖ヨハネの見解も包括されている。
彼は、『黙示録』にこう書いている。
「また、天に大きなるしるしが現れた。一人のおんなが身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた」1)
(『世界神話辞典』アーサー・コッテル著 佐近司祥子他訳 柏書房 1993年)
 彼女がマーテル・ヴィルゴー( Mater Virgo )「母なる処女」である。
彼女は、創造された多数のもののなかに分割される以前の原材料である。
ステリ・マリス( Stella Maris )「海の星」でもある。
彼女は、神の泉の汚れなき子宮であるが、また、精霊が動きだす最古の水の汚れなき子宮でもある。
彼女は、エッサイの樹であり、世界の心棒であり、「主の精霊の憩う」枝である。
 これらの特性はキリスト教以前からある伝統的なものであり、明らかに民俗的な伝承を大幅に取り入れたものであったが、教会は、聖母マリアの信仰と伝説を認めないわけにはいかなかった。
民衆の圧力が神学の厳密さに勝ったのである。
カトリックの正当派の教義の擁護者、聖ペルナドゥス(1090-1153)は、そういった傾向に歯止めを掛けようとしたが、無駄であった。
彼の建てた修道院クレルヴォーの一修道士は彼の幻影を見た。
聖人は、胸に一点黒いシミをつけて死んでいた。
それは、彼が聖母の無原罪のおん宿りを認めることを拒否したからである。
神学と民間信仰の調整は、今日なお続いている。
1950年、ピウス12世は、その年の回勅 Munificentissimus Dei で、聖母マリアの肉体の昇天という教義を布告した 2)
同じように、東の教会(ギリシャ正教会、ロシア正教会)でも、マリア信仰の人気が高いことは、マリアのイコンすなわち聖像の数の多いことから、明らかである。
 聖母は、いつも深い絶望に落ち込んでいる人びとを慰める。
中世の伝説によれば、貧しい騎士が、財宝のために妻を悪魔サタンに売ろうとしたことがあったという。
不幸な女性は、契約に従って、夫によって悪魔のもとに連れていかれそうになった。
彼女は教会に逃げ込み、聖母に身を委ねた。
騎士の知らないうちに聖母は妻と入れ代わり、地獄の入り口まで連れられていく。
そこで、彼女は、悪魔をつかまえ、彼女に救いを求める人びとに手を出すことを禁じた上で、逃げるのを許してやった。
彼女は騎士に、財宝を放棄するように命じ、騎士が従うと、もっとたくさんの財宝を与えたのである。
 地獄側の欲求不満には、本当のところ理由がある。
聖母は、些細な罪を犯した罪人の住処である煉獄にいる「哀れな魂」の苦痛を和らげるばかりでなく、大罪を犯して死んだ人びとを、地獄から救い上げさえする。
「私は、毎日、この権利の侵害について神に文句を言っている」と、中世の年代記作家は、悪魔に言わせている。
「でも、神は自分の母に関することについては、他人の言を聞こうとしない。彼女を天国の淑女、女主人にしているのだ」。
 地上では、彼女は貧困者を助け、病人を癒すことに従事している。
現代の西ヨーロッパの聖母信仰の中心地は、1858年フランスのルルドに、そして1917年ポルトガルのファティマにつくられた。
これらの地に、彼女が現れたという知らせがあったからである。

1)『黙示録』12章1。新共同訳による。
2) マリアについては被昇天( Assumption )という言葉がつかわれるが、これは以降マリアもキリストと同様、肉体ごと昇天したことになった。
(『世界神話辞典』アーサー・コッテル著 佐近司祥子他訳 柏書房 1993年)
今朝の父の一枚です。
久し振りに山に登りました。
母がこの紅葉を見ながらいろいろ話していた思い出を語っていました。