2019年12月22日日曜日

今にも降り出しそうな空模様だったけど…

予報では、午前中曇りだったので出かけました。
暗いとピントを合わせるのが難しい(^-^;

午後からは、図書室に資料探しに出かけないで年賀状の作成。
今回で年賀状を失礼することにしました。
去年、胆のう摘出手術を受けて以来、終活を考えるようになりました。
心筋梗塞を発症したときも考えていたけど
今年戴いた年賀状の中に私よりもズーッと若い方が
年賀状を今年限りと書かれていたので決断しました。

今朝のEテレ
こころの時代~宗教・人生~「沈黙は共犯 闘う医師」(再放送は12月28日午後1時から)
デニ・ムクウェゲさんすごかったな…
録画したのをゆっくり見てデニ・ムクウェゲさんの言葉を心に刻みたいです。
「沈黙」「無関心」は犯罪者に手を貸すことだと仰っていた。
今の日本を見ていると…被害者を非難、中傷する人さえいる。

検索するとデニ・ムクウェゲさんの講演が掲載されていました。
広島で10月6日行われたドゥニ・ムクウェゲ氏の講演全文」(中國新聞)

平和・正義の実現と女性の人権(日本語字幕表示可能)」(東大での講演 2019年10月4日)
アメリカン・ホリデー ●その神話と現実』(東京書籍 絶版)より
(3)キリストの生命と自然の生命の復活」を転記したいと思いますφ(..)
読んでいて、キリスト教徒でも宗派によってクリスマスへの考えの違いがわかって興味深かったです。
なお、デニ・ムクウェゲさんの父はプロテスタントの宣教師でした。
(3)キリストの生命と自然の生命の復活
 祝日あるいは聖日から宗教色が消えてしまったのは日曜日だけではない。
合衆国のすべて州で、法律で制定されている祝祭日「クリスマス」も同様である。
『イギリス宗教史』の著者ビードは、「古代アングリア(イングランドのラテン名)の民族は、われわれがキリストの生誕を祝う12月25日を、一年の初めとした」と書いているという。
現在アメリカでは、クリスマスは単にホリデーではなく、クリスマス・ホリデーズと呼ばれ、12月24日から大晦日までの期間がほぼそれにあたる。
(『アメリカン・ホリデー ●その神話と現実』
 大島良行 東書選書110 昭和62年)
 12月25日は紀元前のローマでは「征服されない太陽」を祝う日で、1週間にわたる祭期の最重要の日であった。
この1週間が「サターネーリア」で、サターンの祭り、農神祭である。
サターンは農耕の神で、ジュピターにその地位を譲るまでの黄金時代の世界の支配者であった。
この日は収穫祭で、冬至を祝い、奴隷が解放され、大祝宴が催された。
これが後世のクリスマスの起源とされている。
この日は紀元前の数世紀にわたって、ミスラの誕生日として祝われていた。
 キリストの誕生日については聖書に記述がない。
初期のころの神父たちは根拠を探したり、推測したにちがいない。
しかし、ミスラ教の勢力が衰えると、キリスト教会は古い民間の祭日を巧みに利用して、教会暦をつくりあげた。
その後世に伝わる一例が2月24日のヴァレンタイン・デーである。
 この日は小鳥たちがつがいになると信じられ、若い男女もこの日を巧みに恋愛に利用した。
この日が偶然にも皇帝クローディウスの時代にヴァレンタインが殉教した日にあたることから、16世紀に前述のグレゴリウス法王が聖日にしたのである。
キリスト生誕もサターネーリアの日に組込まれて、1年のうちの重要な大祭になった。
この日は毎年12月21日か22日に決まっている冬至から始まる1週間の中日にあたる。
つまり、冬至を祝う記念日にすぎないともいえる。
収穫の感謝祭であり、11月の感謝祭とも重なるが、冬というところに意味がある。
秋に実りをもたらした自然は、冬にはあらかた死滅している。
冬至は一年中で夜の時間がもっとも長く、この日の前日には篝火(かがりび)が燃やされた。
ゾロアスター教の名残りである。
 プロテスタントの神学者たちは、クリスマスの根拠が不明であるという理由で、この日の祝祭に反対した。
英国教会は名目だけのプロテスタントで、クリスマスを祝ったが、過激な分離派(セパレーテイスト)のピルグリムズたちはもちろん、マサチューセッツの清教徒たちも排斥した。
彼らは仲間うちの民間の祭礼としてこの日を認めなかった。
この日の特徴である祝宴や娯楽を許すと、堕落の原因となるというのだった。
一方、英国国教会の影響下にあった南のヴァージニアはクリスマスを祝った。
その北と南の中間にあたるニューネザランド(現在のニューヨーク州)のオランダ人、ペンシルヴァニアのドイツ人もこの日を祝った。
 分離派の植民地プリマス・プランテーションの第二代総督ウィリアム・ブラッドフォードの『プリマス植民地の歴史』は、当時の生活を知る絶好の材料である。
その1621年の記述に、「クリスマスと称される日」に総督は一同を呼び集め、通常どおり働かせようとした。
しかし、入植者は聖徒(セインツ)と呼ばれる清教徒よりも、俗人(ストレンジャーズ)と呼ばれる一般人のほうが多かった。
この人々は「クリスマスと称される日」を祭日にすることに
賛成し、「この日に働くと良心の呵責にさいなまれる」と主張した。
「もう少しものわかりがよくなるまで大目に見よう」という総督の言葉をきいたこの人々は、総督が立去るとすぐにゲームを始めた。
総督が戻ってきてそれを見ると、「他人が働いているのに諸君があそんでいるのでは、私の良心が許さない」といって、ゲーム台をひっくりかえしてしまった。
「それ以来このようなことは公然とは行われなくなった」と記録されている。
 長老派教会も同じくクリスマスに反対で、「この日を祝うことは神は許し給わなかった」のである。
1660年5月、マサチューセッツ植民地はクリスマスの祝祭を法律で禁じ、違反者を5シリングの罰金刑にした。
 このクリスマス禁止令の翌1661年3月に、マサチューセッツ植民地から追放処分になっていたクェーカー教徒ウィリアム・レドラが戻ってきた。
このため彼は絞首刑になった。
同年9月、クェーカー教徒ウィリアム・ペンと親しかった英国国王チャールズ2世は、マサチューセッツでのクェーカー教徒の迫害を禁止した。
それにつづいてニューイングランドの清教徒に分裂が起こり、第二世代が台頭して植民地創設者の力が弱まった。
この動向からクリスマスが各地で祝われるようにり、クリスマスは前夜(イヴ)から大晦日まで続き、仕事がもっとも捗らない時期になる伝統が生まれた。
 キリストのためのミサを意味するこの日には、新旧の教会がミサを行うが、宗教上の祭日というよりも民間の祭日の色彩が強かった。
商人は「クリスマス商戦」で客の購買欲をあおる。
客は互いに贈物をして、気前のよさと幸福を追求する。
教会は、3人の博士が幼児キリストに贈物を捧げたという根拠のない話を手がかりにして、贈物の交換を助長する。
クリスマスには歴史的に確実な根拠がなく、祝祭の宗教性も薄弱なので、非キリスト教徒もユダヤ教徒もこの機会を楽しむ。
 クリスマス・イヴに大きな丸太(ユール・ログ)を燃やす習慣は、冬至を記念して篝火を燃やしたことに由来するが、英国へはスカンジナヴィアからはいり、それがアメリカに伝わり、電飾のクリスマス・トリーになった。
クリスマス・トリーと星の関係は、常緑樹の上に輝く星を見て感銘したマルチン・ルターが模して始めたといわれる。
 クリスマスに常緑樹を飾るのは、キリスト以前の北欧の信仰に由来する。
ケルト族とチュートン族あいだでは、常緑樹は永遠の生命の象徴であり、冬至に飾った。
特にケルト族のドルイド僧たちは、常緑樹の呪力を信じていた。
今日では、森林浴の効力でそれが証明されているといえるだろう。
(ひいらぎ)の緑は太陽の回帰の約束と魔除けの力として崇められ、キリストの荊冠(けいかん)はこれでつくられていたともいわれる。
昔は苺(いちご)は白かったが、柊の冠を押しつけられたキリストの額から血が滴り、それが落ちて赤くなったという伝説もある。
 クリスマス・キャロルは祝い歌とされているが、キャロルは昔は歌を伴う踊りを意味した。
発祥は13世紀のイタリアで、生みの親はアッシジの聖フランシスコと考えられている。
クリスマスの児童劇に登場するキリストの揺籃である馬の飼葉桶もこの人の創作といわれる。
クリスマスの商戦の象徴、あの太った陽気な白ひげの老人サンタクロースは、小アジアのキリスト教の主教、聖ニコラスに由来することはよく知られている。
白い毛皮で縁どりした赤い服の姿は、1863年にアメリカの漫画家トマス・ナストの創作で、これが定着した。
 サンタの贈物と分配の関係は、小アジアから欧州へ入り、アメリカへはオランダ人開拓者が伝えた。
クリスマス・イヴに家々に来ることになったのは、クレメント・ムーアという神学者の詩人が1822年に、「クリスマスの前の夜のことだった」で始まる『セントニコラスの訪れ』という詩を書いて評判になったからである。
 クリスマス・カードは1843年に始まった英国から伝えられたが、20世紀の初頭にアメリカではクリスマスの重要な要素になった。
南北戦争後に東欧や南欧からの低賃金労働者として来た移民たちが、故郷の家族や友人に「幸福な生活ぶり」を誇大報告するのに好都合な手段だったからである。
  これまで見たように、クリスマスもまたキリストと同じように受難の時代があった。
ニューイングランドの清教徒もそうだったが、英本国での清教徒革命の立役者オリヴァー・クロムウェルも、クリスマスの祝祭を王党派の慣習として厳しく禁じた。
しかし、ニューイングランドの禁止はついに敗れ、1856年に同地方も法定休日に指定したのである。
(『アメリカン・ホリデー ●その神話と現実
  大島良行 東書選書110 昭和62年)