2019年3月8日金曜日

風は冷たいけど…

今朝は、日陰は風が冷たく感じるけど
日向は暖かかったです(*´▽`*)
昨夜の「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」は
昔話のおなまえ」でしたね。
興味深かったのは古代の桃が紹介されていたことです。
2010年9月19日に 「纏向遺跡現地説明会」に参加した時に写した「桃の種」です。
纏向考古学通信Vol.3」(桜井市立埋蔵文化財センター)
「桃の節句」と昨日、六波羅蜜寺で平清盛の塚と像を見たので
「院と天皇の対立」を転記しますφ(..)
桃の節句があって柿の節句がないわけ
 兆(きざし)を持つ木を桃と呼ぶ
「雛祭り」は別名「桃の節句」とも呼びますね。
これは、桃がちょうど盛りの頃でもありますが、
桃には古来邪気を払うという魔除けの信仰もあるのです。
「兆」という字は「きざし」と読むように、未来を予知し、
魔を防ぐという信仰のベースにもなっています。
だから、兆を持つ木である桃が必要になるわけです。
したがって鬼退治物語の主人公も桃太郎なので、
柿太郎や梨太郎では意味がないのです。
この際、桃にあやかり、不況という鬼退治をしてもらい、
明るい景気を呼び寄せたいものです。
(『暮らしの伝承』蒲田春樹 朱鷺書房 1998年)
 またお雛さまには、蛤(はまぐり)などを供えますね。
 それに、蛤の貝殻に絵が画かれた、
いわゆる貝合わせも飾られています
(京都などの土産物屋さんで、よく売っているでしょう)。
 この蛤は浜辺の栗に似ているので、
はまぐりと名づけられたというのが定説になっています。
 また蛤は、他の貝とは決して合わないので、
一夫一婦の縁起ものとされています。
ですから、三月三日の祝い膳のときもそうですが、
結婚式の献立に「蛤の吸い物」が用意され、
一つの貝に身を二つ入れるのがしきたりになっています。
 はま・ぐりを逆にして、ぐり・はまというと、
物事の手順がくいちがうことであり、
それが訛(なま)って、ぐれはまとなり、
ぐれるという動詞も、そこから生まれたものです。
見込みはずれ、調子はずれ、
不良化などの意味に使われているのは知ってのとおりでしょう。
蛤の貝が、いかにぴったり合っているかの証明です。
 私たちも、自分の仕事や勉強の段取りをキチッとして、
見込みはずれのないように、
念願達成の祝い膳でなければなりません。
蛤にあやかって健闘を願います!
(『暮らしの伝承』蒲田春樹 朱鷺書房 1998年)
●院と天皇との対立
 平治の乱が起こる前年の保元3年(1158)8月、
後白河は子の守仁(もりひと)親王(二条天皇)に譲位し、
自らは上皇となった。
しかし、政務の大半は近臣の信西(しんぜい)にまかせ、
遊芸と仏事にふけっていた。
しかし、平治の乱で信西が殺されると院の近臣の勢力は弱まり、
その虚をついて、二条の近臣藤原経宗(つねむね)(天皇の母方の叔父)や
藤原維方(これかた)(乳母子 めのとご)らが、
天皇親政をもくろみ、上皇方との対決姿勢を強めた。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 後白河上皇は八条堀河の院別当(いんのべっとう)藤原顕長(あきなが)邸を居所とし、
八条大路の眺めを楽しみにしていたが、
経宗らは顕長邸の桟敷(さじき)に板を打ちつけ、いやがらせをした。
上皇は激怒して清盛を召し、経宗・維方を流罪(るざい)に処した。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 これに対して天皇方は翌年、
上皇と小弁局(しょうべんのつぼね)(平滋子 しげこ)との間に生まれた子を
皇位に立てようとする謀事(たばかりごと)があったとして、
時忠(ときただ)(滋子の兄)らを解官に処した。
さらに翌年、天皇呪詛(じゅそ)の罪ありとして、
院の近臣源資賢(すけかた)らを流罪にした。
また、その2年後の長寛(ちょうかん)2年(1164)、
清盛が上皇のために造営した蓮華王院(れんげおういん 三十三間堂)の落慶供養(らっけいくよう)に際し、
上皇は天皇の行幸を要請したが、天皇は応じなかった。
上皇は涙を浮かべて憤激したという。
  この両者の対立は、翌年二条天皇が六条天皇に位を譲り、
間もなく崩御したことにより解消した。
この間清盛は両者同じように奉仕して、身の保全をはかっていた。
嘉応(かおう)元年(1169)、後白河上皇は出家し、
以後、法皇とよばれるようになる。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原 富枝
 後白河院と二条天皇というこの親子の間は、性格的に、
また立場の上で、どういうふうであったのでしょうか。

竹内理三
 確かに後白河院と二条天皇とは対立していた面があります。
しかし、二条天皇というのは実は今まであまり研究されていないのです。
だから後白河院に対立したのは、
むしろ二条天皇の取巻きのせいにされているのです。
大体、最初の院政をやった白河と堀河天皇も、
親子でありながらやっぱりしっくりいっていない。
堀河天皇は聡明(そうめい)だとされていたわけですね、
おやじと面と向かって衝突するようなことはしなかった。
その代わり、若死にしてしまった。

大原 そうですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内 
 後白河と二条も親子であるのだけれども、
必ずしも親子だから親の言うことを一から十まで聞く、
ということはなかったであろうという考え方が一つ成り立ちます。
 もう一つは、その取巻きですね。
後白河というのは皇位につく資格はなかったのだという評価が当時すでにあるわけで、
信西なんかは、近臣のくせに後白河のことを「比類なき暗主」だと言っている。
だから二条天皇の取巻き連中は後白河を何者ぞ、
という腹があったのだろうと思うのです。
 あの時分、『玉葉(ぎょくよう)』なんかに二条天皇は非常な親不孝だと書かれていますね。
やっぱり二条天皇自身も若いからね、今だって反抗期というのはありますねよね。(笑い)
そういう時期でもあるし、またそういう取巻きが多いということですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 二条天皇というのは、美福門院(びふくもんいん)の猶子(ゆうし)になっており、
また美福門院の女(むすめ)の八条院は二条天皇の国母(こくぼ)になっておりますね。
八条院というのはものすごい財産家でしょう。

竹内 そうですね。

大原
 それで美福門院または八条院が二条を皇位につけるために、
踏台(ふみだい)としてその父の後白河を一応位につけておいて、
すぐに二条に譲らせるというふうな、初めからの約束があったように思うのです。

竹内 それはいい着眼ですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 小さいときから庶民の親子のように一緒に生活して、
お父さんの愛情を直接受けるわけではありませんから、
二条にとって、後白河よりもむしろ八条院の存在が
非常に重かったのではないかと思うのですけれども。

竹内
 実はわたくしは後白河はなんで2年か3年で上皇になったのか、
理由があんまりわからなかったんですがね。
今まで普通に言われていることは、後白河は天皇の位が窮屈だから、
上皇になってそれで気まま院政をやるために、
早く位(くらい)を退いたのだというふうにしか言われていなかったから、
今のお話を聞いて、うん、
これはまたそういうことを調べてみなければいけないな、という気持になっています。(笑い)
 どうもあんまり、あっさりと天皇をやめてしまっていますからね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 わたくしは八条院との間に二、三年で必ず二条に譲ってくれという約束があったのではないかと思っています。
 それと後白河自身も天皇みたいな窮屈な位にいるよりも、
早く上皇になって今様(いまよう)なんかを思う存分やりたいという気持が、
初めは強かったと思うのです。
けれども、やはり上皇になってみると、
権力の魅力というものもあながち捨てきれないな、ということもあり、
それから取巻きがやはり院政を行え、ということになるのではないでしょうか。

竹内
 この時代の清盛は、両者の対立に巻き込まれないように動いていますが、
やっぱり清盛というのは人がいいのですね。
後白河の命令でも、やっつけて来いと言われた相手を徹底的にはやっていませんね。
やっていないというのはずるいのではなくて、
清盛の性格上やらないんではないかと思いますね。

大原 そうだと思います。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 はじめ後白河上皇となって院政を始めても、
なかなか二条天皇側、天皇親政(しんせい)側が言うことを聞かないので、
後白河は閉口(へいこう)しますね。(笑い)
閉口して天皇の側近の経宗(つねむね)・維方(これかた)ですが、
「あいつをひっつかまえて来い」と言っても、
清盛はなんかぐずぐずして最初はごまかしていますね。
 ですから、後白河のいうことも聞きたいのだけれども、
徹底的に後白河一辺倒になっていないというのは、
後白河に抵抗するとかなんとかいうのではなくて、
清盛の性格上そういうことになってしまったというような感じがしますね。

大原
 わたくしも非常にそういう気がします。
あれはずるさではなくて、清盛の男としての性格、
つまり、ここでこうやっておいたら将来自分がうまくいくとか、
自分の勢力の道に都合がいいとかという計算が……。
それは男ですし、武家ですし、
働かせるのが当然の立場にはいるのですけれども、
決してそれだけでは動かない男だったと、
わたくしはひいき目かもしれませんけれども、
そう思っているわけなんです。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ジョウビタキ♀が朝ごはんを見つけていました。
何回も打ちつけていたそうです。