2019年3月14日木曜日

まだまだ寒いけど…

午前中は、父を歯科に送迎して午後からやってきましたが
暖かくなる感じがなくて風が冷たかったです。
冷たい風が吹く中をキチョウがひらひら飛んでしました。
でも、すぐに藪の中で一休みをしていました(*´▽`*)
竹内理三さんと大原富枝さんの対談から
文化にみる新時代」を転記しますφ(..)
文化にみる新時代
竹内理三
 清盛の時代は政治史的な意味でしかとり上げられませんが、
文化史的にも重要な時代だと思うのです。
栄西(ようさい)が中国に行ったのも、法然が活躍したのもこの時代です。
 法然というと、親鸞の先に出た人、
浄土宗を始めた人ということでしか評価されていないのですが、
もう少し社会的な評価をしてもいいと思いますね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原富枝
 法然の手紙を集めた本を、わたくしは見たことがありますけれども、
それを見ますと、上流婦人なんかが一生懸命に身上(みのうえ)相談しておりますね。
法然はそれに、ていねいな返事を書いております。
わたくしは大変おもしろうございました。
 たとえばわたくしは、『建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)』という小説を書いたことがありましたが、
あの右京大夫の恋人に絵かきの藤原隆信(たかのぶ)があります。
お母さんの加賀(かが)が美福門院(びふくもんいん)の女官(にょかん)でしたから、
美福門院の生きている間はわりあいと出世をしたのですね。
好き者の隆信は美福門院の猶子(ゆうし)である九条院、
これは若くして崩御(ほうぎょ)した近衛(このえ)天皇の中宮(ちゅぐう)であった女性ですが、
この未亡人九条院とねんごろになって、娘を一人産ませています。
二条の姫君というのですが、その姫君が法然上人(しょうにん)に非常に帰依(きえ)しておりまして、
いろいろ手紙を書いたりしています。
 法然の弟子で、とても声のいいお坊さんがいまして、それが街頭で説教しますと、
ちょうど今のタレントのような騒がれ方をして、
皇室の後宮(こうきゅう)の女官たちに大変な人気があったわけです。

竹内 はあ、おもしろいですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 そういう意味で、法然というのは政治的には出て来ませんが、
庶民から湧き上がってくるような意味での時代への影響力が、
非常にあったのではないかと思うのです。

竹内 思いますね。
もう少しそういう意味で評価をしなければいけないと思います。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 法然と後白河と清盛の時代、それから九条兼実とか隆信とか、なかなか多彩な時代ですね。
 フランスの文化相だったマルローが、
世界の肖像画を語るには藤原隆信を除外しては語れないと言っています。
以前、空想博物館というのをマルローがフランスで開いたのですね。
そとのと、隆信の「平重盛(たいらのしげもり)像」がむこうに行ったのですね。
このために引換え条件として、レオナルド=ダビンチの「モナリザ」を借してもらえたんです。
それくらいにヨーロッパの第一級の美術評論家・鑑賞家が、
評価する隆信という肖像画家が、この時代にはいるんですね。
 こんな話を始めたらおもしろくて、夜が明けてしまいますが……。

竹内 それは結構ですよ。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原 
 作家というのはどういうものか、しゃべらないとイメージが結んでいかない。
しゃべるとだんだんイメージが確かものなっていく。

竹内
 ぼくなんか恐ろしいですね、歴史小説をお書きになる方がね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 いえ、大原の歴史小説には歴史がないって、批評家が申しまして、
ですから自分自身でも歴史小説家とは思っておりません。
わたくしはフランスの心理小説が理想なのです。
『婉(えん)という女』もこれは『クレーヴの奥方(おくがた)』と同じものだと自分では思っておりまして、
歴史小説という意識はほんとうになかったのです。
まあ『右京大夫』あたりになれば、これはやはりある程度、
歴史小説と思って書きましたけれども。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 実はね、昔、山本有三(やまもとゆうぞう)さんが生きておられた自分に九州まで来られた。
わたくしはその時分九州大学におったんですが、
「ちょっと宿屋まで来い」という呼出しがかかったものだから、
敬意を表(ひょう)して出頭したわけです。
そしたら、古代史をやっているからというのでね、
昔のことをいろいろ聞かれるんだ。
なんにも返答できないんだ。
「なんだ、なんにも知っておらんじゃあないか」とやられましてね、
恐れ入ったことがあるんです。(笑い)
歴史家なんていうのは、大体そんな程度ですからね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 歴史家というものは、やはり史実という裏づけなしにはうかつなことは一切、
言ってはいけないというタブーがございますからね。

竹内
 そうなんですよ。(笑い)
 それはともかくとして、親鸞の悪人正機(あくにんしょうき)説は高等学校の教科書にも載っていますが、
悪人正機説なんていうのは、もう法然がすでにちゃんと言っていますね。
ところが法然のそれは言われないで、親鸞のそればかり言われるのは、実にけしからんと思っているのですがね。

大原
 ほんとうにこの法然の問題、当時の宗教の問題、
魂(たましい)の問題、
これはやはりもっと書かれるべきことで、
まさにブランクになっているところですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
伝平重盛像(でんたいらのしげもりぞう)」(京都国立博物館)