2019年3月12日火曜日

日向は暖かいけど

今朝も不安定な天気だったので午前中は諦めて
午後からリハビリ散歩に出かけました。
風が強くて日向はよかったのですが
日陰は寒さを感じるほどでした。
竹内理三さんと大原富枝さんの対談から
清盛の進取性」を転記しますφ(..)
清盛の進取性
 天皇家、摂関家、近臣間の内紛の中で勢力を強めた清盛は、
持前の合理性と豪胆(ごうたん)さで、幾つかの新しい政策を打ち出した。
武家らしい政策としては、公領・私領にわたって地頭(じとう)を置き、
家人(けにん)をこれを任じて武士の掌握(しょうあく)をはかったことがあげられる。
この方式は源頼朝によって受け継がれ、本格化されていく。
 また、兵庫の港を開いて日宋(にっそう)貿易を行ったことも、
貴族には見られない進取性ということができる。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内理三
 鎌倉時代は大変銭の流通が盛んにあって、
経済の転換期だといわれますけれど、
みんな清盛が始めているんですね。

大原富枝 はい、そうですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 清盛の時代に中国から貨幣があんまり入って来て困るから、
それを禁止しようとお公家(くげ)さんが朝廷に相談したことがあるんですね。
平家政権の新しさとして、普通に言われるのは、地頭の設置で、
これは平家が始め、それを鎌倉幕府がまねたのだ、
引き継いだものだと言われますが、そんなものは二の次でね、
新しさの本質というのは、新しい宗教の芽生えとか、
日宋貿易をやって貨幣をとりこんだことなんですね。
今まで歴史家はあんまりこの点について言わないのですが、
清盛の評価について、
そういう点を少し力説しなければいかんなと最近やっと思いついたのですがね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 わたくしも一番清盛について知りたいことは、
もし彼をあと十年、心身健康な男として生かしておいたら、
どういうことをやったかということなのです。
日宋貿易のこととか、
兵庫の港を築いた点に見られる彼の非常に大きな雄大な理想、
それがどういうところにあって、どういう現れ方をしただろうか、
どういう政策を行ったかということ、それにわたくし非常に興味があるのです。
 合理性というか、今までの日本人のもっていた迷信などを捨て去ってしまって、
祇園社(ぎおんしゃ)の神輿(みこし)に矢を射かけるというようなことを、
清盛自身がやったのか、命令でやったのか、命令もなしにしたのか、
そこのところはよくわかりませんけれど、ともかくそういう事実がございますね。
そのほかのことでも、不合理というか、
はっきり眼に見えない権威というものに対して、
むやみに恐れ入ってはおりませんね。

竹内 確かにそうですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 そういう一つの合理性とか、
それから港を築いて自分の力で貿易を開こうとしたというふな、
男としての豪胆(ごうたん)な、新鮮なもの、
これはもう彼がもって生まれた性格だと思うのです。
そういう男性が日本の歴史にはわりと少ないですね。
信長あたりまで出て来ないのですから。

竹内 まあそうですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 清盛が、日本の貿易図、経済図、政体、地方の治(おさ)め方、
そういうものにどのような設計図を描いていたか、
死ぬとき、絶対死にたくないと思ったところはどこにあったかということ、
それにわたくしは非常に興味があって、
力があれば小説に書いてみたい男だというふうに思うのです。

竹内 一つぜひお願いしますよ。(笑い)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 大原
 とても手に余る男でして、
手に余る男でなければわたくしは惚(ほ)れないのです。
ですから、わたくしのような女の手に合う男にはわたくしはもう興味ないんです。
だから、手に余る男には惚れますけど、とても書けませんの。
書けませんが、先生にお話伺うのは、大変興味のある男ですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 わたくしはまあ、かりに――
かりにということは歴史家ではいかんのだということになっているんですけれども(笑い)、
かりに清盛が十年長生きしておったらというお話を聞いて、
わたくしは坂本龍馬をちょっと連想したのです。
龍馬がもっと長生きしておったら……、
こんなことをいうと人が異議を言いだすと思うのですが、
多少、共通した要素があるのではないかということを感じますね。
しかし、時代も違うし、それは共通といったって、
本気で言えるほどのことではないにしてもですね。
ですが、たぶん清盛は長生きしても大変革はしないですよ。
しかし、国策の大変更をやって、
もう少し日本の中世を明るいものにしたのではないでしょうか。
どうでしょうか。

大原 ええ、そんな気がします。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 ところが後白河というのは、これは貴族ですからね。
清盛というのは武家(ぶけ)ですね。
あの自分の貴族なんていうのは、人を人と思わないらしいのですね。
華族(かぞく)あたりはわれわれ庶民を人と思わない、
どうもそんな気配(けはい)が明治でもありましたから。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 わたくしはやはり後白河の貴族の、人を人と思わない、
そういうものが中世を暗くしたと思いますし、
平家の滅亡につながったと思いますね。
平時忠が「平家にあらざれば人にあらず」と言ったということもありますけれども、
清盛自身には、性格的にわたくしはそういうものがあまりなかったと思うのです。
 時忠はやはり平家の中でも、公家ですね。
ずうっと京都にいまして、だから公家の貴族趣味、
貴族としての考え方、そういうものが身についていたのですね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 シジュウカラが気合いを入れているみたい(*´▽`*)



羽毛は,繊細で傷つきやすく、
脂がついているのでホコリなどの汚れが付きやすいのです。
傷みや汚れは、防水や保温性能に悪い影響を与えますから,
これはただちに死に結びつきます。
ですから鳥は、水を浴びて羽毛を清潔に保たなければ死んでしまうのです。
 水浴びの仕方は、鳥の種類によって様々です。
シジュウカラやホオジロなどの小鳥や
ハト類、カモメ類などは足の届く浅い水に入って、
バシャバシャと体を震わせて入浴します。
(『ポケット図解 鳥の雑学がよ~くわかる本
  柴田佳秀 秀和システム 2006年)