2019年3月13日水曜日

会えたのになぁ…

カラスが小枝を取ろうとしていました。
巣作りが始まっているのかな…?
今朝は、雷が鳴って雨も降ったのでどうかなと思ったけど
止んでくれたので出かけました。
最後の方でツバメに出会ったけど撮れなかった(T_T)
竹内理三さんと大原富枝さんの対談の続き
貴族政権との類似」を転記しますφ(..)
初めと終わりに、解説が書かれていました。
貴族政権との類似
 清盛が太政(だじょう)大臣になったのは、仁安(にんあん)2年(1167)のことであった。
律令官制の極官(ごっかん)に昇った清盛は、広大な荘園領主となり、
また知行国(ちぎょうこく 支配権とそこからあがる収益を取得する権利を与えられた国)をふやして、
一族を知行国主に任じた。
さらに権門(けんもん)と積極的に婚姻関係を結び、
その力を一族の繁栄に利用した。
まず、時子(ときこ 清盛の妻)の妹滋子(しげこ)
後白河院の寵(ちょう)を受けて高倉天皇を産むと、
今度は娘の徳子(とくこ)を高倉天皇の後宮(こうきゅう)に入れ、
そこで安徳天皇の誕生によって外戚の地位を獲得した。
また、娘の盛子(もりこ)を関白藤原基実(もとざね)に嫁がせ、
その他の娘も同様に権門に縁づかせている。
 こうした政策は、基本的には貴族政権のやり方を引き継いだものであり、
地方武士を失望させることにもなった。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内理三
 清盛は、平治(へいじ)の乱以後だんだん立場がよくなると娘を関白の奥さんにしたり、
いろいろ上のほうのお公家さんとのコネを一生懸命作り出すのですが、
まあ、ああいうところなんかは、
田舎出の悪い面の一つが出て来たのだと思いますね。
あの辺はどうでしょうか。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原富枝
 そうですね。
わたくしは女だからわかりませんけれども、男というものは、
やはり自分の娘を一つの政策として使いたくなるということ、
これは政治家の共通点ではないでしょうか。
どうなんでしょうね。(笑い)

竹内
 まあそういうわけでしょうね。
わたくしはそういうのは、嫌いなんだけれど、な。(笑い)
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 初期の政治のやり方が、藤原氏のやり方と似ていますが、
やはりああでなければやってゆけないというような、
時代の要請みたいのものがあったのでしょうか。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
竹内
 やっぱりそうだと思いますね。
そうしなければ、かりに清盛の時点で頼朝のような武家独自のことをしたらね、
これはたちまち失敗するんじゃあなかったでしょうか。
それが非常にむずかしいところですね。
時勢だと簡単に片づけると、ずるいと言われるが。(笑い)
 けれども、どうもそのような気がしますね。
その証拠に、義仲(よしなか)は張りきりすぎてたちまち自滅してしまいます。
だから清盛も、あの時点では、
ああいう生き方でないといけなかったのではないでしょうか。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
大原
 そうですね。
ただ歴史の上でだけ読めば、保元(ほうげん)の乱といい、
平治(へいじ)の乱といい、簡単なように見えますけれども、
とても大変な時代だったと思うのです。
そのあと、藤原氏のようなやり方でなんとか収拾できたということは、
大変必然性があって、
義仲のやり方では絶対通れないものがあの時代にあったということは、
素人でも思いますね。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 後白河上皇は、勢威を強めた清盛という新たな対立者の出現に、警戒心をもった。
そして清盛とつながりの深い延暦寺僧徒(そうと)の強訴(ごうそ)のあるたびに、
平家の軍勢を向かわせ、しきりに両者の反目を策謀(さくぼう)した。
また、事あるごとに清盛側近の者に罪科を与えて挑発した。
こうした中で、治承(じしょう)元年(1177)、
藤原成親(なりちか)ら院の近臣が平家打倒の陰謀をめぐらしていた事件が発覚した。
鹿ヶ谷(ししがたに)の変である。
これには、院の意志が働いていたことは事実である。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
 その翌年に清盛の子盛子、重盛(しげもり)が相次いで死去すると、
上皇は盛子の伝領の管理権を平家から奪い、重盛の知行国越前を没収、
さらに反平家色の強い除目(じもく 官職の任命)を行って清盛の怒りを誘った。
清盛はただちに武力を背景に院の近臣39名を解官し、
上皇を鳥羽殿(とばどの)に幽閉した。
この事件は各地の反平家勢力の決起に名目を与え、
治承4年(1180)より5年にわたる争乱の世を招くのである。
(『人物群像・日本の歴史 第5巻 源平の争乱』
  学習研究社 1978年)
こころの時代~宗教・人生~「歌詠みとして今を生きる」
馬場あき子さんがお話されていました。
その中で紹介されていた歌の幾つかを転記しますφ(..)
いとし子は
自爆せしてふ
師の君の
思ひはげしき
まなこをぞ見る

  (昭和18年 15歳)

十年の
我生ひ立ちよ
そのままに
すべては焼けて
塵ものこらず

  (昭和20年 17歳)

大方の
憎しみの中に
我は愛す
師を尊ばぬ
子の潑溂(はつらつ)
  
再放送は16日(土)の午後1時からあります。
今朝の父の一枚です。
父もアンズに来ていたメジロを撮っていましたp(^^)q