2019年3月7日木曜日

京都国立博物館~天狼院書店

「大仏前交番」とありますが奈良に来たのではありません(^_-)
昨日は確定申告に最寄りの申告会場に行きました。
今日は京都国立博物館で今まで記事に書いていた
天皇の即位式とひな祭りについての展示があったので見に来ました。
「特集展示 初公開!天皇の即位図」の
リーフレットに書かれていたのが

(…略…)
南庭には注目したい描写がある。
即位式を見に来た公家衆、そして庶民が描かれているのである。
<承明門代>の左右、<日華門>を入った辺りに、
隣の人と指をさしながら談笑する者、何やら話し込む者、
寛いでいる者、周囲を見回す者、手招きする者、
暴れる子供たち、女性、僧侶の姿などが描かれている。
実は、江戸時代の即位式は公開されていて、庶民も見物できた。
それがここに描かれている訳である。

(…略…)

天皇と庶民の間に壁を作ったのは明治政府だと思います。
そして、天皇と国民の距離を縮められたのは今上天皇だと思います。
いつもは特別展を見てすぐに別の場所に移動するのですが
「西の庭」に行くと…
方広寺大仏殿所用鉄輪(ほうこうじだいぶつでんしょようかなわ)
  江戸時代17世紀 京都国立博物館蔵
 豊臣秀吉が創建した方広寺大仏殿は、
何度か地震や火災のため倒壊・焼失し、
そのたびに再興されてきたが、寛政10年(1798)の落雷で焼失した。
 この鉄輪は、江戸時代に再建された時の建築部材と思われる。
巨大な建築物をささえる太い柱を、こうした鉄の輪が固定していた。
豊臣秀吉と五条大橋
 この3本の柱と2本の石材は、京都の五条大橋の橋脚と橋桁です。
中央の柱に「津国御影天正拾七年五月吉日」という文字が刻まれています。
 五条大橋はこのとき、はじめて豊臣秀吉によって現在の位置に移されました。
それ以前の五条橋は今の松原橋の位置にありました。
 上の図(略)は、秀吉の新五条橋が完成してから描かれた洛中洛外図屏風(右隻 部分)です。
画面に向かって左上の巨大な建物は、
秀吉によって天正16年(1588)に着工された方広寺の大仏殿で、
向かって右上に描かれているのだ三十三間堂、
向かって左下の橋が方広寺と並行して造られた五条大橋です。
 この五条大橋の石材は摂津国(せっつのくに)の御影(みかげ)
現在の兵庫県神戸市から運ばれてきた花崗岩(かこうがん)です。
石の橋桁の切り込みに、桁と直角に木の梁(はり)をわたし、
その梁の上に踏み板をしきつめました。
橋桁の長さは約7メートル半ありますので、
橋の幅はほぼそれくらいあったと推定されます。
キリシタン墓碑(ぼひ)
(左)
京都市下京区醒ヶ井五条 安養院境内発見
桃山時代 17世紀
 慶長年間(1596~1615)に作れたキリシタン信徒の墓碑。
ほとんどが江戸時代に破壊され、今では少ししか残っていない。
碑の正面には、十字架・
IHS(「イエスは人類救済者」という意味のラテン語)・
西暦年号・洗礼名などが刻まれている。

(右)
京都市北区一条通御前西入成願寺境内発見 
桃山時代 17世紀

実は、博物館に何度も来ていながら
キリシタン墓碑のことを知りませんでした。
次の本を読んで知りました。

(…略…)
  もう一つの墓石は、名前を書いてある部分がえぐり取られ、
穴があいた状態をしています。
実は、この墓石は立てて、
庭に置かれ手水鉢として使われていたのです。 
 これにも十字架が彫られていたはずですが、
そこはえぐられています。
この墓石が400年を経て、いま国立博物館に安置されています。
(…略…)
(『京のキリシタン史跡を巡る』杉野榮著 三学出版 2007年)
豊国神社(とよくにじんじゃ)
 豊臣秀吉を祀る神社で、
一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
 慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、
遺命により東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)に葬られ、
その麓(ふもと)(現在の豊国廟太閤坦 ほうこくびょうたいこうだいら)には、
広壮豪華な廟社が造営された。
後陽成(ごようぜい)天皇より正一位(しょういちい)の神階と
豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号を賜り、
慶長9年(1604)8月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。
そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、
明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、
別格官幣社として復興された。
また、明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
正面の唐門(からもん 国宝)は伏見城の遺構と伝え、
二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、
西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。
また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧(おんこ)の大名が寄進したものである。
     京都市
豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ」(文化遺産オンライン)
方広寺鐘銘問題と東福寺
 秀頼は方広寺に用いる銅鐘銘文の作成を東福寺の文英清韓に依頼した。
清韓は東福寺の227代の住持であり、韓長老といって親しまれていた.
文禄の役には渡韓した経歴がある。
清韓の作った銘文には「国家安康」と「君臣豊楽」の二句があって、徳川方からクレームがついた。
「国家安康」は家康の名をわざと分けてしまったということだし、
「君臣豊楽」は豊臣家の子孫殷昌(いんしょう)の願をこめた文言だということであった。
草案の段階から秘かに家康側に情報を伝えた者がいたようにぼくには思える。
徳川方の東福寺への報復ははげしかった。
慶長19年8月15日は「東福寺文英清韓の住庵を毀つ」と『東福寺誌』は記録している。
塔頭の天得院である。
清韓は住居をこわされただけでなく、
大坂方の片桐且元とともに駿府へ行って鐘銘について陳謝している。
元和元年に大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したあとになっても、
清韓は鐘銘問題で捕縛された。
清韓がきびしく扱われた背景には、
家康が秀吉の遺児の代に早くも豊臣家を断絶に追いやったことへの世間の目をそらすことがあったのであろう。
清韓はとんだ災難にあった。
その清韓は元和7年にこの世を去っている。
このように豊臣家を断絶させるために東福寺はうまく利用されたきらいがある。
ぼくが不思議におもうのは、
あれだけ鐘銘が騒がれたにもかかわらず、
釣鐘そのものは破棄されることもなく、
今日ももとの寺域の一かくにある方広寺の鐘楼に下がっていて、
いつでも見ることができる。
このことも鐘銘事件の目的がよく示されている。
なおこの鐘楼は明治時代に再建されたもので、
鐘はしばらく野ざらしになっていたという。
(『京都の歴史を足元からさぐる[洛東の巻]』森浩一 学生社 2007年)
路地の奥を見ると…
「白雲大明神」
京都の町歩きの楽しみの一つです(^^)v
「平清盛公乃塚」よりも大きいのは(^_-)

 阿古屋(あこや)
阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す。
石造宝塔は鎌倉時代の作で、
その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いている。
 歌舞伎 壇浦兜軍記「阿古屋」
平家の残党 悪七兵衛景清の行方をさがすため、
想い人で五條坂に住む白拍子阿古屋を捕え、
代官秩父庄司重忠は阿古屋に景清の所在を問い質す。
阿古屋は知らぬと申し開きをするが、
詮議のために弾かせた琴、三味線、
胡弓などの調べに一点の乱れのないことに感動した重忠は
阿古屋が景清の所在を知らぬことが真実であると知り釈放する。
「阿古屋の琴責め」とも称される。
平家物語の裏面に隠された「阿古屋」の悲恋を語り伝えるためにこれを記す。
   平成二十三年十一月吉日
       五代目 坂東玉三郎
       第六十五世山主 純性
六波羅蜜寺の宝物館で空也さんなどと再会した後
お昼になったのでジンギスカン定食をいただきました。
学生時代、京料理なんて贅沢はできません。
貧乏学生の味方は中華料理屋さんとか定食屋さんでしたp(^^)q
お店は西福寺向かいの六波羅飯店です。
今年は亥年なので禅居庵(ぜんきょあん)をお参りしなくては!
 ここ建仁寺禅居庵(ぜんきょあん)に祀られている鎮守は、
摩利支天(まりしてん)と申します。
7頭の亥(いのしし)に坐り、顔が3つ、腕が6本の三面六臂(さんめんろっぴ)のお姿です。
亥を従えた姿から亥年の守り本尊として広く信仰されています。
 摩利支天の起源は古代インド。
仏教の伝来と共に中国を経て日本へ伝わりました。
実体が無い陽炎(かげろう)の光が神格化したといわれ、
捕らえられ傷つけられることが無い、害されることが無いことから、
開運 勝利の神として戦国武将の間にこの摩利支天信仰が広がりました。
京都ゑびす神社に何度も来ているのに…
キリシタン燈籠(織部灯籠)があるのに初めて気がつきました( ゚Д゚)
福箕(ふくみの)にお賽銭を3回目で成功しましたヽ(^o^)丿
雲行きが怪しくなってきたので少し温まりたいなと思っていたら
前から気になっていたお店を発見!(^^)!
ユニークな取り組みをしているのは、
京都天狼院書店です。
ここで見つけた本に学生時代よく仲間と飲んだ
お店のことが書かれていました。

4 件のコメント:

  1. こんばんは~

    今回は、京街歩きでもあり歴史散歩のようですね。
    Kazeさん、すごく本を読まれていますね。
    万歩は、達成されたのでは。。。(^-^;

    >キリシタン墓碑
    京都国立博物館へは何度か行っていますが、知らなかったです。
    今度行った折には、訪ねたいです。

    >それ以前の五条橋は今の松原橋の位置にありました。
    以前に松原橋を訪ねた折に、説明看板があったのを思い出しました。
    そして、川端松原通の交差点に「力餅食堂」があったのも思い出しました。(^-^;

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    1. カイさんこんばんは(^^)/
      町歩きなどで案内板などを書き写しているのですが
      そんな時にデジカメは便利ですよね
      メモ代わりに写して書き写していると、分からない言葉が出てきたり
      史実と違うなと思うことが書かれていたりして面白いです。
      ただ、転記間違いが多いのでご注意くださいm(__)m

      キリシタン墓碑は京都国立博物館のHPにも載っていたのに気がつきませんでした(^^ゞ
      他にも貴重な石仏などがあります。
      松原通りには二軒、「力餅食堂」があって
      どちらも美味しかったですよ(^^)v
      ただ、最近餅を食べるのが怖いのです
      さし歯などがくっついて抜けたことがあるので
      力餅食堂でも中華そばをいただいています(^^ゞ

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  2. こんばんは~

    >桃の節句があって柿の節句がないわけ
    はい、「兆し」・・・なるほどでした。(^-^;

    有難うございました。

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    1. カイさんこんばんは(^^)/
      桃の魔よけの力については古事記を読んでいて知っていたのですが
      「木」プラス「兆」には気がつきませんでした。
      Kazeもなるほどと思いました(^^)v

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