2015年1月28日水曜日

東寺~西寺跡

丹波橋で乗り換えようとすると雪が降り出しました…
電車を降りて目的地を通り越して…
たぬきそばをいただきました。
体がぽかぽかしてきました(*^-^*)
「東寺うどん」の隣も目的地です(*^▽^*)
ここで「東寺餅」を一つ(*^-^*)
本当の目的地は東寺 慶賀門より
「京の冬の旅」特別拝観(1月10日~3月18日)
不二桜
「八重紅枝垂れ桜」
樹齢120年 目取り1.5m 樹高13m 枝張り7m 平成18年2月現在
この桜は「八重紅枝垂れ桜」とよばれ,
エドヒガン系の園芸品種で色の濃い八重咲きの華麗な花を咲かせます。
移植できるサクラでは国内最大級の大きさで開花は4月中旬です。
岩手県盛岡市の旧家で育てられたのですが,平成6年秋田県を経て,
三重県鈴鹿市の農園が譲り受けて大切に育てていました。
平成18年が弘法大師入唐求法の旅より帰朝せられて,
1200年の記念の年であることから,
東寺信徒総代で森紙業株式会社最高顧問の藤定輝好氏より寄贈され,
この直径15mの円形花壇に移植されたものです。
名前は弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と命名されました。
日本一高い五重塔を背景に,
百年二百年後も美しい花を咲かせ続けることを祈っています。
   真言宗総本山 東寺


講堂
立体曼荼羅を楽しみにしていました(*^-^*)
金堂
雪が降り出しました…
五重塔の初層内部を拝観することができました(*^-^*)
 五重塔
【耐震構造】
東寺の塔は創建以来,四度の焼失を経ているが,
地震で倒壊したという記録は見当たらない。
これは五重塔の塔身が各層ごとに,
軸部・組み物・軒
(のき)をくみ上げ,
これを最上層まで繰り返す積み上げ構造になっていて,
木材同士も切り組みや単純な釘打ち程度で,
緊結
(きんけつ)されていない柔構造だからである。
したがって,地震のエネルギーは接合部で吸収され,
上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに,
下と上の層が互い違いに振動することになる。
柱も各層で短いため,倒れようとする力よりは
元に戻ろうとする復元力の方が大きいので,地震に強いと考えられている。

【心柱】
多くの部材で積み上げられた塔身は乾燥で収縮するが,
独立した心柱はあまり収縮しない。
そのためズレが生じ,そのズレを直すために,
元禄5年(1692)一尺五寸(約50センチメートル)ほど心柱を切り下げたため,
須弥壇
(しゅみだん)下の心柱の彩色が少しずれている。
青空と雪…

花梨(かりん)
弘法大師の名で知られる空海が,
821年に満濃池の修築のために満濃町(香川県)を訪れ,
宿泊所を提供してくれた矢原邸の庭先に
唐から持ち帰った花梨の苗木を植樹されました。
これが由縁となり,満濃町の町木に選ばれています。
花梨は梨の原種で,春に淡紅色の花が咲き,
秋に実る黄色の実には薬効があります。
この木は,昭和63年5月,第39回全国植樹祭が
香川県満濃池森林公園で開催された際,
当時の皇太子ご夫妻によって
お手蒔きされた花梨の種が成長したものです。

南大門
矢取地蔵寺縁起
(矢負地蔵由来記より)
淳和天皇の御代(約1100年前)天長元年に国土早操して
農耕の用水もなくなったので朝廷は,
守敏と空海(弘法大使)の二人に雨乞いの勅命があった。
御所の神泉苑の庭で,雨乞いの祈祷を行なった。
空海の術が守敏に勝ったので,
三日三夜雨が降り国土を潤したので,
守敏は空海を怨み,矢をもって空海を射た時に
地蔵その間に出現して空海に代わり,その矢を受けた。
地蔵の石像の背に傷あり,その後人々はその身代り地蔵を,
矢負の地蔵と呼び長く敬ってきた。
その後人々は,何時の時代からか,
矢取の地蔵と呼ぶようになったのである。
今のお堂は明治18年3月(約110数年前)に
唐橋村(八条村)の人々の寄進により建立てされたものである。
  平成5年11月
     矢取地蔵保存会


(字が違うような気がしますが…)




羅城門(らじょうもん)
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた,
都の表玄関にあたる大門で,この門を境に京の内外を分けた。
弘仁7年(816)に大風により倒壊し,その後に再建されたが,
天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがなかった。
11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため,
門の礎石を持ち帰った記述が『小右記
(しょうゆうき)』にあり,
この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。
付近の発掘調査では,羅城門に関わる遺構は見つかっていないが,
東寺の木造兜跋毘沙門天
(とばつびしゃもんてん)立像(国宝)や
三彩鬼瓦
(さんさいおにがわら)(重要文化財,京都国立博物館寄託)は
この門にあったものと伝えられている。
平成20年3月 京都市


西寺跡
西寺は,東寺(教王護国寺)と並んで平安京造営にともない営まれた官寺
(かんじ)で,
朱雀大路
(すざくおおじ)を挟んで東寺と対称の位置にあった。
唐橋西寺公園一帯が西寺跡(国史跡),
中央の土壇は「コンド山」とよばれ,講堂跡にあたる。
史跡の標柱が立ち,礎石が数個おかれているが,
講堂の基壇そのものではなく,
後世に松尾神社(現,松尾大社<西京区嵐山宮町>)の神輿
(みこし)を練りあげるため,
周辺から土を寄せて盛り土されたものという。

 金堂跡は公園とその南の唐橋小学校にかけての位置にあり,
学校のグランドからは回廊跡や中門跡がみつかっている。
また,公園の北側が食堂院跡で,
食堂や食堂院回廊の柱跡が住宅の下に眠る。
西寺造営の着手時期はつまびらかでないが,
『帝王編年紀』は796(延暦15)年,東寺・西寺の造営長官に
藤原伊勢人が任命されたと記し,
翌年には笠朝臣江人
(かさのあそんえひと)
造西寺次官に任命(『類聚国史
(るいじゅうこくし)』)されている。
832(天長9)年7月には講堂の新造仏供養が行われており(『日本紀略(にほんきりゃく)』),
この頃には伽藍がおおよそ整備されていたことがうかがわれる。
文徳(もんとく)天皇を始め,天皇国忌も営まれるなど,
10世紀なかば頃までは国家鎮護の寺として隆盛を誇った。
990(正暦
<しょうりゃく>元)年,塔を残して罹災し,その衰亡が始まる。
その後ある程度再建されたが,
1233(天福
<てんぷく>元)年に塔が焼亡し,命脈を絶った。
最盛期の寺域は,七堂
(しちどう)伽藍を配した方2町の寺域の北に,
政所院や花園など北辺諸院を配した方2町域の寺域が続き,
東西2町・南北4町の壮大な伽藍を誇っていた。
史跡地周辺の調査では,これらの北辺諸院の遺構が検出されている。
対になる東寺が早くに民間に下賜
(かし)されたのに対し,
西寺は最後まで官の寺であった。
いわば国営であった寺が早くに衰亡するのに対し,
民間の寺となったことで1200年余りの歴史が紡がれたことは,
歴史の皮相をあらわすのであろうか。
今は,コンド山に移されて残る数個の礎石とその横の史跡石柱のみが,
わずかに往時を偲ばせる。
なお,公園西北の唐橋平垣町には,
現在西寺(浄土宗)という名の寺があるが,
これは改称してその名を継いだもので,もとは西方寺
(さいほうじ)といった。
(『京都府の歴史散歩 中』京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 2011年)
京都のランドマークが二つ並んでいます(*^_^*)

東寺の境内で小休止。
東寺餅をいただきました('-'*)
五色飴はおみやげです(^_^)v
京都巡りをする時に参考にしている鴨さんのブログに
「京都日和~都の風に誘われて~」に
「夕暮れの東寺と東寺餅」という記事があります。
(ブログはなくなってしまいました…)
八島社殿
祭神は東寺の地主神とも,大己貴神
(おおなむちのかみ)とも言われる。
八島社と言うのはわが国を大八洲瑞穂国
(おおやしまみづほのくに)
言うところから起こった社号である。
それゆえこの社は東寺以前より鎮座されており,
弘法大師はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち,
この神へ寺門造立成就,方位安全,法道繁盛の祈願をされ,
地主神とあがめられたと伝えられる。

母へのおみやげ「柿の葉すし」(さば,さけ,鯛)
京都の土産に柿の葉寿司(奈良)は可笑しいのですが…
近鉄「丹波橋駅」で購入です(*^▽^*)