今日で1月も終わりです。
神社に着くともうすでに露店が準備をしていました。
澤田瞳子さんの小学校時代の思い出を読んで訪ねるなら祭の前だなと思いやってきました。
古式ゆかしい吉田神社節分祭 神社に着くともうすでに露店が準備をしていました。
澤田瞳子さんの小学校時代の思い出を読んで訪ねるなら祭の前だなと思いやってきました。
…前略…
他の運動はまったく駄目なのに、どうしてこんなに歩くのか。
その遠因は小学生時代の通学路にあると思われる。
我が家は当時、小学校の学区の一番端にあり、通学には子ども足で片道三十分かかった。
それも小山のそこここに本社・摂社が立ち並ぶ吉田神社という神社の境内を横切り、京都大学の校地の真ん中を通る市道を使って、やっと三十分。
下校時は安全のため神社を通ってはいけないと言われ、小山の裾野をぐるりと回るルートを使っていたので、往路の倍の時間がかかった。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年) とはいえ、悪いことばかりではない。
吉田神社は貞観元年(859)、藤原山蔭(やまかげ)という貴族が都の鎮守の社とすべく創建した神社で、京都でも一、二を争うほど盛大な節分祭が催される神社として知られている。
その時だけは普段は森閑とした境内はもとより、京都大学を横切る市道にまで、露店がずらりと並ぶ。
一説には三日間で五十万人もの人が押し寄せると言われており、節分祭の期間は小学校が短縮授業となる。
我々神社を通学路とする子どもたちは、教師に付き添われ、露店が店を開け始めるそわそわした賑わいの中、日常と非日常が混じり合う瞬間を楽しみながら、家に帰った。
ただ祭を楽しむだけではなく、その始まりの時を間近に出来た胸の弾みは、今でも忘れられない。 吉田神社の節分祭では、平安時代の宮中行事・鬼やらいを伝える追儺(ついな)式が、古式にのっとって行なわれる。
境内で暴れる三匹の鬼を、「方相氏(ほうそうし)」という人物が追い詰め、他の人々が魔除けの矢を放って追い払う儀式だ。
余談ながらわたしが小さい頃は、三匹の鬼たちの中身は町内会長さんちの気のいいお兄ちゃんたちだった。
鬼になってもサービス精神満点すぎて、よく子どもたちを泣かしていたけれど。 方相氏とは馴染みのない名前だが、これはもともと古代中国の官職名。
黄金四ツ目の仮面をかぶり、黒と赤の衣で魔除けを行うのが仕事だったという。
平安時代の日本ではこれが十二月の大晦日、内裏で病や穢れを追い払う役目とされ、右手に矛、左手に盾を持ち、二十人の童子を率いて儀式を行った。
後にそれが節分に移行し、今も吉田神社で古儀として伝えられているわけだ。
この方相氏には、宮中の警固・雑用を務める大舎人(おおとねり)という役職の男性から、長大者――つまり大柄な者が選ばれたと、『内裏式』という儀式書には述べられている。
平安時代に記された法制書『政事要略』には、方相氏の図が記されている。
四つの目に牙を生やし、頭には巨大な一本ヅノ。
長い黒髪をぞろりと肩に流したなかなかの異相だ。
素足に高歯の下駄を履いているのは、足袋が一般的ではなかった時代ゆえしかたがないが、それでもついつい「寒くない?」と聞きたくなる。 鎌倉時代に生きた兼好法師は随筆集『徒然草』の中で、中院光忠(なかのいんみつただ)という公卿が追儺式の責任者に命じられた祭の逸話を記している。
どういう順で儀式を執り行えばいいのかと尋ねた光忠に、年長の公卿は「又五郎という老衛士(ろうえじ)に頼るといい」と教えたという。
衛士とは宮中内の雑務に当たる、身分の低い官人。
本来なら、公卿と直接口を利けるような立場ではない。
ただ又五郎は宮中の儀式に大変詳しく、ある公卿がうっかり儀式の手順を間違えた時も、篝火(かがりび)の側から〝先に敷物をお取りになった方がよろしいかと〟と「しのびやかにつぶやきける」――つまり、こっそりとつぶやいて教えてくれたという。
現代流に言えば、大臣クラスよりも、日々、役所を警備している人々の方が組織の内情に詳しいと言ったところだろう。
方相氏を務める大舎人といい、又五郎のような衛士といい、儀式の現場は案外、末端の役人たちによって支えられていたわけだ。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年) 国歌君が代に詠まれているさざれ石
この石は国歌発祥の地といわれる岐阜県春日村の山中にあったものである
平安朝時代文徳天皇の皇子惟喬新皇に仕えた藤原朝臣石位左衛門は春日村君が畑、京都の往復した道中に古屋部落の谷間で渓流に山積するさざれ石を見て詠んで奉った歌が
わが君は千代に八千代にさざれ石の
巌となりて苔のむすまで
の一首であり古今集に採録された実に目出度い石である。
この石は学名を石灰質角礫岩という石灰岩が長い年月に雨水で溶解された粘着力の強い乳状液が小石を凝結し巨岩となり苔むしたものである。
君が代はあなたの卋代を何時までも千代に八千代に栄えて幸あるようにと祈る歌詞で悠久なる
日本が永遠に栄えるようにと実にすばらしく
美しい限りである
岐阜県天然記念物
摂社 若宮社
祭神 天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)
例祭 十二月十七日
由緒
天忍雲根命は本宮第三殿の祭神
天之子八根命(あめのこやねのみこと)の御子で水徳神である
初め本宮第二殿第三殿の間に祭られてあったのを後醍醐天皇延元元年
吉田兼熈(かねひろ)社殿を造営し後光明天皇
慶安元年(西暦1648年)此処に遷座
摂社 神楽岡社 祭神 天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)
例祭 十二月十七日
由緒
天忍雲根命は本宮第三殿の祭神
天之子八根命(あめのこやねのみこと)の御子で水徳神である
初め本宮第二殿第三殿の間に祭られてあったのを後醍醐天皇延元元年
吉田兼熈(かねひろ)社殿を造営し後光明天皇
慶安元年(西暦1648年)此処に遷座
祭神 大雷神(おおいかづちのかみ)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・高龗神(たかおかみのかみ)
例祭 九月二十三日
由緒
鎮座の年代は詳(つまびらか)でないが延喜式に霹靂神(へきれきじん)
神楽岡に坐すと記してあり神楽岡
地主神・又雷除け神として崇敬厚く
同町の氏神である 菓祖神社
祭神
田道間守命(たじまもりのみこと)
林浄因命(はやしじょういんのみこと)
由緒
田道間守命は第十一代垂仁天皇の命を受け常世の国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を日本にもたらした
林浄因命は初めて餡入りの饅頭を作り広めた。
古来、二神は菓子の祖神(おやがみ)として、また、広く文化の神として崇められる
京都菓子業界の総意により菓祖神社創建奉賛会を結成
昭和三十二年十一月十一日鎮祭
祭典
春祭 四月 十九日
秋祭 十一月十一日
尚 詮議により菓子関係功労物故者の霊を逐次
相殿神として奉斉狛犬がオシャレだなと思いました(^_-)
【狛犬の伝播】
狛犬は古代オリエントで誕生したといわれ、その後、インド、中国を経て日本に伝わった。
獅子像の誕生
メソポタミア文明ですでに獅子を模した彫刻などが使われていたという。
王家の権威を示す象徴だったと考えられている。
(『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監) 二見書房 2018年)聖域を守護
獅子像は聖域を守る「鎮獣」であるとされ、仏が獅子座に乗った姿で表されたり、仏像の台座の左右に彫られたりした。
中国特有の霊獣と習合
外来の動物・獅子が中国の霊獣観と習合し、唐獅子像が誕生。
邪気を祓うとして宮門や陵墓の前に置かれた。
(『神社のどうぶつ図鑑』茂木貞純(監) 二見書房 2018年)料理飲食の神
山蔭神社
御祭神
藤原山蔭卿(ふじわらやまかげきょう)
相殿 恵比須神
例祭 五月八日
由 緒
山蔭(やまかげ)卿は清和天皇貞観元年(西暦859年)
奈良春日の大神を勧請し平安京鎮護の神として吉田神社を創建され
又わが国においてあらゆる食物を調理調味づけられた
始祖であり古来庖丁の祖・料理飲食の祖神にして崇敬厚い神である
昭和三十二年吉田神社御鎮祭千百年大祭を機に全国料理関係者創建に協賛
同三十四年五月鎮祭
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)
吉田神社末社
天神地祇八百万神(あまつかみくにつかみやおよろずのかみ)を祀る大元宮(だいげんぐう)を中心とし、周囲に伊勢二宮をはじめ、全国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)三千百三十二座を奉祀する。
もとは、神職の卜部(うらべ<吉田>)家邸内にあったものを文明十六年(1848)に、吉田神道を創設した吉田兼倶(かねとも)がここに移建したもので、吉田神道の根本殿堂とした。
天正十八年(1590)には天皇守護のため宮中の神祇官(じんぎかん)に祀られていた八神殿(はっしんでん)が社内後方に遷され、慶長十四年(1609)から明治四年(1871)まで、神祇官代としてその儀式を執行した。 本殿(重要文化財)は慶長六年(1601)の建築で、平面上八角形に、六角形の後房(こうぼう)を付した珍しい形をしている。
屋根は入母屋造(いりもやづくり)で茅葺(かやぶき)、棟には千木(ちぎ)をあげ、中央には露盤宝珠(ろばんほうしゅ)、前後には勝男木(かつおぎ)を置く特殊な構造である。
この形式は密教・儒教・陰陽道。道教などの諸宗教、諸思想を統合しようとした「吉田神道」の理想を形に表したものといわれる。
全国のあらゆる神々を祀るため、当社に参詣すると、全国の神社に詣でることと同じ効験があるとされ、毎年節分の日を中心に前後三日間行なわれる「節分祭」には多数の参詣客で賑わう。
京都市さらに上がっていくと
宗忠神社
神明宮本殿
御祭神 天照大御神
由緒
二條関白殿の鎮守神明宮を
慶応二年(1866)九月十六日
当地に御遷座申し上げた
神明宮または上社と申し上げる竹中稲荷社(たけなかいなりしゃ)と天満宮社
竹中稲荷社
祭神
宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)
猿田彦神(さるたひこのかみ)
天鈿女神(あめのうずめのかみ)
由緒
古記に「在原業平の居を神楽岡稲荷社の傍に卜す云々」とあり
天長年間既に社殿に在った事が知られ又古伝に「天保年間に子女群詣し昼夜ノ別なく満山に踊躍す是を蝶蝶踊とい々其後鳥居参道に樹立し雨雪為に傘を要せず」などと
現在ノ建物ハ天保十一年(西暦1840年)信徒の寄附金で造営されたもので右説と同時である
現今も竹中稲荷講社が多数の崇敬者によって組織されている
明治五年吉田神社末社に指定
例祭 九月二十八日
天満宮
祭神
菅原道真公(すがはらみちざねこう)
文道の神として崇敬厚し 鎮座年不詳
由緒
嘉永五年(西暦1852年)信徒の請願により智福院山内より卜部良芳現地に遷座
明治五年吉田神社末社に
例祭
二月二十五日
一度、眺めてみたい風景があるのですが、まだ、開店時間になっていません…
そのため建物の壁面を見ることができないし、カフェからの眺望も見ることができないので残念です。
吉田山
⑤カフェ茂庵
望むは如意ヶ嶽の大文字
吉田山には近代以降、新たなキーパーソンが現れました。
「谷川茂庵」という名の近代人です。
20世紀初頭に運輸業によって一代で財を成した谷川茂庵(本名:茂次郎)は、同時に茶道に通じた当代きっての「数奇者(すきしゃ)」でもありました。
彼は事業で成功した後に、吉田山の東側斜面にみずからの山荘を造営します。
そこには斜面の広大な範囲に茶席を点々と配置したうえに、その間を幾筋もの苑路で網の目のようにつないでいきました。
(『京都の凸凹を歩く2 名所と聖地に秘められた高低差の謎』梅林秀行 青玄社 2017年)
当時、山荘の「食堂」として利用された建物は現在、カフェ「茂庵」として営業しています。
この旧食堂はシャープな銅板で葺かれた屋根が目を惹きますが、特に注目すべきは壁面のデザインです。
なんと如意ヶ嶽の「大」字を望むように、東側壁面が舞台仕掛けの「懸造り」となっているのです。
壁面自体も土壁仕立てではなく全面板張りとなっていて、銅板葺き屋根とあわせて、あたかも如意ヶ嶽の「大」に東側正面の舞台を向けた山小屋風の趣です。
なんと大胆なデザインでしょうか。
そこには、近世まで全くといってよいほど重視されてこなかった、吉田山の東側斜面への強いこだわりが見られます。この旧食堂はシャープな銅板で葺かれた屋根が目を惹きますが、特に注目すべきは壁面のデザインです。
なんと如意ヶ嶽の「大」字を望むように、東側壁面が舞台仕掛けの「懸造り」となっているのです。
壁面自体も土壁仕立てではなく全面板張りとなっていて、銅板葺き屋根とあわせて、あたかも如意ヶ嶽の「大」に東側正面の舞台を向けた山小屋風の趣です。
なんと大胆なデザインでしょうか。
すなわち、吉田山からの「眺望」を愛でる視点です。
谷川茂庵の登場以降、吉田山の重心は京都市街地に顔を向けた西側斜面から、如意ヶ嶽への眺望を重視した東側斜面へと大きく舵を切ったように感じられます。
そこには風景そのものをデザインするという、近代ならではの雄大な構想がうかがえませんか。
(『京都の凸凹を歩く2 名所と聖地に秘められた高低差の謎』梅林秀行 青玄社 2017年)
下ってきた道を振り返ると…
前回もこの道を上がるのは大変だと思いました。
しばらく雨が降っていなかったのですが、落葉で滑りやすかったです。「御参拝の方は表参道へお廻り下さい」
元気な方は、大丈夫だと思いますが、私のような高齢者は「表参道」から吉田神社へお参りすることを勧めます。
ところで「表参道」とありますが、江戸時代までは、「大元宮」への道が表参道だったようです。
また、大元宮は「摂社」でなく「本宮」でした。
現在の本宮は「摂社 春日社」だったそうです。
詳しくは、転記した梅林秀行さんの本を参照してください。 21 北白川弥陀石仏
左京区北白川西町(市バス「北白川」下車)
この石仏は吉田山の東北麓、今出川通をはさんで南北二ヵ所に分かれている。
南の石仏は、旧道の道ばたに小屋掛けとした覆屋(おおいや)の中にあって、二体の石仏が並んでいる。
いずれも高さ1.5メートル余、花崗岩の自然石の表面に定印をむすんだ阿弥陀坐像を厚肉彫りにしている。
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年) なかでも右の石仏がよく、満月相(まんげつそう)のお顔はおおらかで、衣紋(えもん)のひだも木彫風に刻みだし、石の硬さを感じさせない。
光背も二重円光式(えんこうしき)とし、十三個の月輪(がつりん)内に梵字を陽刻するのは、香炉(こうろ)ヵ岡(おか)石仏(大津市坂本本町比叡山)と同じく、比叡山系の流れをうけた古い一例であろう。 また、左の石仏は右の像より磨滅がひどいが、光背部分は自然石のままであり、厚肉彫りの重厚味にあふれている。
ともに鎌倉中期をくだらない造立とみられる。 なお覆屋の左軒下には、嘉永二年(1894)在銘の道標が建っているのを見おとしてはならない。
これは北白川の山中から採取された白川石を材質とし、表面四方に付近の社寺や地名・道のりなどを達筆な文字でしるしている。
京都における現存道標中では、もっとも勝れた一つである。
…後略…
(『京の石造美術めぐり』竹村俊則著、加登藤信撮影 京都新聞社 1990年)吉田山を降りてきてお昼の場所を探しながら歩いていると
「ボリューム満点
絶品オムライス S~Lサイズ総て880円
おいしいオムライスとマスター厳選のロックBGM
ぜひ、お楽しみ下さい!」
に惹かれてて入りました(^_-)そのオムライス!
注文するときにLサイズは無理ですと伝えたけれど…
Mサイズでこのボリュームだそうです
私にはLサイズに見える……(°0°)
お店の人に学生の街ならではのボリュームですねと伝えると笑顔で答えてくれました。
フウフウいいながらもオイシイので残さずに食べました(^_^)v
看板に偽りなしでした!
電車の中などで読んでいたのは『宮本常一 民俗学を超えて』(木村哲也著)
これまでに宮本常一の評伝は他にも読んできていますが、
「彼の言葉と行動が私たちの思考をひらく」
とあるように新しい視点をあたえてくれました。宮本常一の本ではありませんが、今日、1月31日は
晦日宵
正月晦日(みそか)。
中部地方ことに信州あたりの村々では、もちつきが行われているだろう。
千葉県の君津郡や福島県の旧石城郡でも、その慣行があると聞く。
晦日宵(みそかよい)というのが、この日の称である。
本来、二十日までの間に新年のあいさつまわり、年賀の年賀らしい行事を終わっているべきだが、なお残している向きがある場合、この晦日を期して、かたづけてしまうのだという。
(『民俗歳時記』和歌森太郎 岩崎美術社 1970年) 信州では、嫁にやった娘が新年には婚家も忙しく実家に戻れない場合に、この晦日宵には戻ってきて、晦日礼(みそかれい)ということをするのだという。
月末でも、とにかく正月のうちなのだ。
あくる日が、いわゆる次郎の朔日、しんみりと年越し、年取りの祝ができなかったものにとっての、ほんとうの年取りの日である。
晦日礼は、もとは、晦日に年越し、そして二月一日に年始礼を行なったものであろう。
とにかく、何かにつけて遅れがちな、弱いものにとっても、この日をはずしては、正月無しになるのだ。
(『民俗歳時記』和歌森太郎 岩崎美術社 1970年)
建物にも惹かれて入りました。
公式SNSは、
「cafecollection1」(X)
「cafecollection」(Instagram)
お腹がはち切れそうなので出町柳まで歩きました(^^ゞ

































こんばんは~
返信削除晦日正月を読んで。。。
少しびっくりでした~。
偶然ですが。。明日、吉田神社の節分祭へ行く予定です。(^^♪
京阪電車に乗って。。出町柳から歩きます。(;^ω^)
お昼は、美味しそうなオムライスでなく、、
三高餅食堂か大力餅だと思います。エヘ(#^.^#)
お洒落な狛犬さん、会ってきます~(#^.^#)
カイさんコメントありがとうございます(^^)/
削除>偶然ですが。。明日、吉田神社の節分祭へ行く予定です。(^^♪
下見になりましたね(^_^)b
今日は、バスに乗るよりも歩いた方が早く到着できるかも知れませんね!
>三高餅食堂か大力餅だと思います。エヘ(#^.^#)
帰り道、三高餅食堂や大力餅の店の前を通り
いつか入ってみたいなぁと思っていました(^_-)
狛犬にも会ってください(^^)/
カイさんの記事を楽しみにしています(^^)/