歩きはじめはあまり風が吹いていなかったのですが
次第に冷たい風が吹いてきました。
そんななかでもウグイスカグラ(ヤマウグイスカグラ?)が咲いていました。
大阪は、雪がチラチラ降る程度ですんでいるけど
「青森 記録的大雪 陸自に災害派遣要請“命の危機が目前に迫る”」(NHK)1月30日の「天声人語」に
…前略…
▼みんなが言うから言うしかないのか。
選挙になったら、なりふり構っていられないのだろうか。
与党も野党も、公約で消費減税を掲げている。
国債発行残高は1千兆円を超えており、国の財政は厳しい。
▼消費税は医療や年金などの社会保障に使われている。
下がったりゼロになったりすれば、巨額の財源が必要になる。
だが、各党の説明を読んでも聞いても、どれもあいまいに感じる。
大きなツケを次世代へ回すことになったらと、心配になる。
▼消費減税の実現には時間がかかる。
酒が煎じ薬ではないように、いまの物価高に効果があるのか疑問だ。
寒さのあまり、目先の利益しか見なくなっていたら怖い。
2026・1・30
選挙が終わり公約実行と称して軍備拡大のために社会保障の財源を削減するといいかねないなぁ…明日3日は節分
吉田神社を訪ねた時に転記した澤田瞳子さんの本の続きです
なぜ豆をまくのか
――と、ここまでお読み下さった方々の中には、節分なのに肝心の行事をしないのかとお思いの方もおいでかもしれない。
そう、節分で忘れてはならぬのは、豆まきだ。
結論から言えば、豆で鬼を追い払うという考え方が登場するのは室町時代から。
京都・相国寺(しょうこくじ)の住持(じゅうじ)でもあった禅僧・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』の文安四年(1447)十二月二十二日の項には、「明日は立春である。夕刻に焼いた豆を室内にまいて、鬼は外、福は内の四字を唱える」と記されている。
我々が節分に唱えている言葉は、五百五十年以上むかしから存在していたわけだ。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年) それにしてもなぜ、豆をまき始めたのか。
その理由ははっきりと分らない。
ただ、自分がやったことがるかどうかはさておき、たとえばテレビドラマや映画などでは今でも、嫌な客を追い払う時に清めの塩をまくシーンは一般的だ。
何かをまき散らすという行為はそもそも魔除けの意味を孕んでおり、平安時代には米をまいて邪を払う「散米(さんまい)」という行為が貴族社会でしばしば行われていた。
紫式部は主である藤原彰子の出産の一部始終を記した『紫式部日記』の中で、なかなか産が終わらぬただ中、頭の上に散米がまるで雪のように降りかかっていたと述べている。
食べ物を――しかも米をまき散らすとはもったいない気がするが、これは米の持つエネルギーで場を清めるという祈りに近い行為だったらしい。 豆まきはそんな散米の延長線上にあるのだろうが、食べられる炒り豆を外にまくのもまた、散米同様にもったいない。
というわけで我が家では最近、豆まきには小袋入りの豆を使い、後で拾って食べている。
邪を払うという目的を思えば、本末転倒かもしれないが、なに節分行事そのものも歴史の中で少しずつ変化してきたのだ。
これもまた時代の推移によるものとお許しいただこう。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年)その豆まきは……
第二章 四季五節の循環
節分
日本は四季に恵まれた国、という。
春・夏・秋・冬がほぼ等間隔で循環する。
その四季のはじめが、立春・立夏・立秋・立冬。
その前日が「節分」である。
ところが、春の節分(立春の前日)への意識が一般には強かろう。
節分の豆まきが一般化して久しいからだろうか。
その豆まきは、小学生はいうにおよばず、保育園や幼稚園の子どもたちでも知っている年中行事である。
学校行事に導入された行事の認知度は、たしかに高い。
だが、それが古くから行なわれてきた周知の行事であったかどうかは疑ってみるべきであろう。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年) あらためて、節分とはいかなる日なのか。
季節の変わり目をいうのである。
中国から太陰暦が伝来する以前の日本では、自然暦で、ほとんどすべての生物が生まれ出(いず)る春が年のはじめと考えられていた。
つまり、立春が一年の最初の日であり、その前日の節分は、一年の最終日だったのである。
したがって、節分の行事は、基本的に大晦日と同様に年迎えの行事であり、地方によっては節分を、いまも「年取り」とか「年越し」と呼ぶ。
のちに広まった旧暦(太陰太陽暦)でも、ほぼそのあたりが正月にあたるので、長く節分で年が改まる概念が定着していた。
年賀状に「初春」とか「迎春」という言葉をつかうのも、立春を新年とした風習がそのまま伝えられているためである。 節分は、四季の分かれ目にあるから、年に四回。
が、春の節分以外に行事らしい行事がない。
たぶん、庶民にとっては、厳格に行事をそうたびたび行なうわけにはいかなかったからだろう。
春の節分をもって代表行事となったのである。
ひとり節分にかぎらず、季節の変わり目には、邪鬼悪麗がしのびこみやすく災いが生じやすいとき、とする。
現在でも「季節の変わり目につき一層のご自愛を」と手紙に書くのも、その民俗的な知識を伝承してのこと、とみるべきだろう。 それを防ぐ方法として、ひとつには物忌みをする。
静に家籠(ご)もりをしてときを過ごすのである。
不要不急の外出をひかえる。
それは、邪鬼悪麗にとりつかれて気魂を奪われることを避けるためである。
もうひとつは、魔除けのまじないをさまざま行なう。
これも節分で一般的なのが、門口や軒下にヒイラギの枝にイワシの頭を刺して立てるというもの。
それに豆がらやトベラ、タラの小枝を添えるところもある。
これはヒイラギの葉のとげとイワシの臭いをもって邪気霊を払おうとするものである。 節分に豆がらやトベラを焚く習俗も広く伝わっていた。
そこでは共通して、「麦じゃ麦じゃ、豆じゃ豆じゃ」とか「ええ麦ええ麦、ええ豆ええ豆」といった穀物名を連呼する呪文が唱えられる。
っまり、農村社会における豊作予祝と複合化がみられるのである。
そこで、豆まきである。
物忌みやヒイラギ・イワシによる魔除けのまじないに比べるとより攻撃的な行ない、といえる。
豆を礫(つぶて)に見立て、邪気霊を打ち払おうとするのである。 節分の豆まきならぬ「豆打ち」は、古文献にも登場する。
古くは「追儺(ついな)」とか「鬼やらい」といった。
追儺は、もとは中国伝来の行事で、宮中行事となった。
文武天皇の慶雲3(706)年、諸国に流行した疫病を祓うために行なった「大儺(おおなやら)い」がそのはじまり、と伝わる。
鬼に扮した大舎人(おおとねり)を殿上人(てんじょうびと)たちが内裏の四門をめぐって追いまわすというもので、その絵図もいまに残されている。
それが、仏寺で追儺会に転じて行事化するのが鎌倉・室町のころ。
やがて、近世、江戸の後期には民間にも伝播し、家庭での豆まきが定番化したのである。
明治になると、それはある種の遊戯化をして大々的に行なわれるようになった。
その影響が今日にも伝わる。 さて、その豆の打ち方だが、地方によって、あるいは家庭によっての特色がみられた。
たとえば、東京・大阪、京都では、ふつう、一家の主人が豆打ち役、長男が豆男となる。
家人が戸や障子を開けたときに大声で「鬼は外、福は内」と叫び、豆打ち役が家中に次々と豆をまいた後、音高く各戸を閉めていく。
また、長野県下では、年男かその家の男子が一升枡に入った豆をまき、その後からすりこぎをもった者がそれを動かしながら「ごもっともごもっとも」といって続く。
福島県下では、桟俵(さんだわら)を笠に見立ててかぶった者が部屋の四隅に豆をまき、もうひとりが「ごもっとも押さえましょう」といいながら、箒(ほうき)で鬼を押さえるしぐさをする。
もともと、ところ変われば、豆打ちもそれぞれであったのだ。 今日のように節分の豆まきが画一化されたのは、社寺や学校での行事が情報化をともなって広まったからであることは、想像に難くない。
なお、節分に豆をまくのは、ひとつには、豆に霊力があると信じられていたこと。
さらに、まいた豆を拾って食べることで「おかげ」があるとしたのである。
ちなみに、食するのは自分の年の数だけの豆。
旧暦にしたがえば、すぐ正月(旧正月)になり一つ年をとるわけだから、自分の年より一つ多く食べるのが習わしであった。
(『日本人の原風景 風土と信心とたつきの道』神崎宣武 講談社学術文庫 2021年)今朝の父の一枚です(^^)/
モズを撮せて喜んでいました(^_^)b
749年(天平21年)2月2日に僧行基が亡くなっています(82歳)。
行基は百済系の渡来氏族です。
行基(ぎょうき) 668(天智7)-749(天平勝宝1)
渡来系氏族で、河内国(大阪府)大鳥郡に生まれる。
道昭(どうしょう)の弟子となり、その遺風を受け継ぎ仏教の民間布教と社会事業に尽力し、平城京造営に集まった難民を私度僧として救い、和泉(いずみ)に移ってからは、土師氏(はじし)の協力を得て池溝を修築し、また川の渡船場などに無料宿泊所である<布施屋(ふせや)>を含む仏教的施設である<院>を造った。
行基は『成唯識論(じょうゆいしきろん)』『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』を読んだが、『瑜伽師地論』には出家・在家の生活規範が書かれていた。
初め僧尼令(そうにりょう)に違反すると弾圧されたが、後に東大寺大仏の建立に協力したとして大僧正に任ぜられた。
その伝記は『日本霊異記』『三宝絵』『日本往生極楽記』などに見えるものが古く、それらは聖徳太子に次ぐ日本仏教創成の大功労者と位置づけ、文殊の化身とされている。
それだけに行基にまつわる説話も多数形成され、『日本霊異記』以下、中古・中世の諸書に収録された仏教文学上最も話題に富む人物の1人となっている。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
「農と水を支えた人 行基」(農林水産省)












