2026年1月20日火曜日

右肩下がり

冷たい風が吹いていてカワヅザクラの蕾などを撮そうとすると
揺れて揺れて酔いそうでした…
天気予報士の方がこれから「右肩下がり」 になると話しておられましたが
これから強い寒気がやってきて日増しに寒くなるようです

近畿 強い寒気で21日~22日は大雪のおそれ 十分注意を」(関西NHK)
今日は「大寒」、暦通りの寒さでした(国立天文台)。

  大寒

 大寒は二四節気の一つで太陽暦の1月20日ごろにあたる。
寒の真ん中で、1年でもっとも寒い時期である。
このころ寒稽古を行うことも多い。
大寒の朝の水は1年間腐らないといわれ容器などにいれて保管する。
 このころ、凍り豆腐・寒天・酒・味噌など寒さを利用した食べ物づくりが行われる。
(『知っておきたい 日本の年中行事事典』福田アジオ他著 吉川弘文館 2012年)
厳しい寒さの中 伝統の「凍み餅」づくり最盛期 福島 葛尾村〟(福島NHK 1月19日)
み餅」以外も

1月
 凍(し)みどうふと凍み大根

 冬の夜、厳しい寒さに凍った食品が日中は解けて水が少しずつ蒸発するという事を繰り返し、やがてカサカサにかわいた保存食になる。
このような製法は昔から行われてきました。
その中に凍みどうふや凍み大根があります。
 凍みどうふは、寒い屋外で凍らせたとうふを五つ位連らねて、ワラなどで編んで吊り下げて作ります。
今では凍みどうふを作る農家は諏訪や佐久地方に残っている程度になりましたが、かつては各地で生産されました。
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)
 長野県でいつ頃から凍みどうふが作られるようになったか分りませんが、一説には甲斐の武田信玄が保存のきく兵糧食として考案したといわれます。
関西地方では和歌山県にある宿坊で発明されたとされ、高野どうふと呼ばれています。
外に奈良県の小倉地方でも作られましたのでこれを小倉どうふといい、また大阪府の千早でもできますのでこれを千早どうふと呼びます。
 このように凍みどうふは生産地の名前がついていることが多いのですが、いずれにしても大豆が原料です。
従って良質のタンパク質、脂肪、カルシウムが多いので栄養豊富です。
それに動物性タンパク質の食品に比べて経済的な食品ともいえます。
おいしい煮汁をたっぷり含んだ味わいは凍みどうふならではの独特のものです。
 次に凍み大根ですが、以前は松本市内の農家などでも見かけたものですが、今日では作る家が大変少なくなりました。
 凍み大根の作り方は、洗って皮をむいた大根を20センチ前後に切りそろえて二つ割にします。
これを硬めにゆで、真中に菜ばしで穴を明け、ひもを通して五、六本を少しづつ間隔を置いて連にします。
そして軒先や納屋の壁などに吊り下げ、真白でカサカサになるまで置いてから取り入れます。
使う時は水で戻し、チクワやニンジン、ジャガ芋、フキ、ワラビなどと適宜取り合わせて煮ます。
昔は春の農繁期に、干しニシンやコンブと煮てお田植え料理にしたものです。
煮汁がよくしみ込んでいてシコシコした歯当たりは、生大根の煮物とはまた違ったおいしさです。
   (高野悦子 信州大学教育学部教授)
(『信濃風土記』NHK長野放送局編著 和広 1979年)

長野県茅野市に伝わる食文化“凍み”を訪ねる」(長野県公式観光サイト)
朝ドラ「ばけばけ」(75)第15週「マツノケ、ヤリカタ。」で西洋料理が出てきました(^_-)

朝ドラ「ばけばけ」公式(1月16日)

山橋シェフの西洋料理。
仲直りの後、二人でおいしく頂きました。
家では和服を着て、何でも日本式を好んだ小泉八雲ですが、実はビフテキが好物だったのだそうです。
ラフカディオ・ハーンの食事について

  四、ハーンの松江時代 

 …前略…

 当時の食事等について、富田旅館のおツネは次のように語っている。

  先生は朝は牛乳と数個の生卵ですまされました。昼と晩との二食はお刺身、煮付け、酢の物、焼き魚等なんでもおあがりでした。例の握り箸で召し上がりますので、魚の骨は取っておきました。その食べ方は妙なもので、まず膳のうえにある副食物即ちお菜の方から、それを一皿一皿次々とことごと平らげて、それから巻鮨とかご飯だけを食うというやりかたでした。煎茶も飲まれましたがいつもたいがいは水を飲まれました。先生は乾物でも干魚でも万事好き嫌いと云うことはありませんでしたが、ただ糸こんにゃくだけは嫌いで食べられませんでした。
(『ラフカディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』熊本大学小泉八雲研究会編 恒文社 1993年)
  生卵は一度に八、九個も食べられました。また酒は昼と晩に日本酒一本(一合八勺入り)を飲んでおられまして、洋酒を注文したことは覚えません。コーヒーも飲まれませんでしたが、ただタバコだけは大好物でして、葉巻ときざみタバコをたえすすっておられました。きざみタバコは日本のキセルを使うのですが、その数がだんだんとふえて数十本となり、掃除はたいがいおノブが引き受けていました。葉巻は横浜から大箱のものを取り寄せておられました。
  先生は横浜で巻鮨をあがったことがあって、それがよほどうまかったと見えて、私どもへお出の日より、毎日のように昼晩共に必ず、巻鮨をさしあげましたが、後では、お飽きになり、普通のご飯を上げました。またフライ・エッグズのつくり方は先生に教わり毎々差し上げました。(桑原洋次郎著『松江に於ける八雲の私生活』)
 ハーンは、ほかに、卵焼き、トロロ汁、奈良漬(由良<ゆら>)、沢庵なども賞味し、かなり食欲旺盛であったということである。
 富田旅館滞在中は、洋食は一切とらずまた、取り寄せたこともなく、したがってナイフやフォークなど使用したことはなかったとのことである。

 タバコは当初からすっていたようである。
きざみタバコをキセルの皿につめて、パッパッと吹き、ヒバチの縁をポンポン打つのはよいのであるが、近眼だから吸殻が飛び散り畳や衣服の到るところに黒点ができたといことである。

 …中略…
 織原にいる頃に、ハーンは胃腸を悪くしている。
長年の習慣に反して和食をとりすぎたようで、西田千太郎の医者である田野俊貞医師から注意をうけている。
 この頃の食事によると、朝が、牛乳二合と生卵五個、昼は、曳野ホテルから取り寄せ、夜は必ず、洋食にしたそうである。
ホテルからのものは煮〆物とか卵を使った日本料理が好物で、夜の洋食はコーヒー、パンなど五品くらいで一皿は必ずビフテキで材木町の西洋料理店魚才こと鎌田才次より取り寄せたそうである。
日本酒とか刺身はあまり好まず、魚の煮つけと焼き魚を好んだということである。

 …後略…

(『ラフカディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』熊本大学小泉八雲研究会編 恒文社 1993年)

松江時代の略年譜」八雲会

熊本大学文学部附属 漱石・八雲教育研究センター
当時、西洋料理とは、違う形で流行したのが

 序章 中華料理に込められた対中・対日感情
 2 日本人と中国人のまなざしの交錯
 中華料理の流行の始まり
 

 日本における西洋料理の流行は、1872年に明治天皇が肉食の模範を示したのち、83年の鹿鳴館(ろくめいかん)の完成に象徴される欧化政策のよって、最初のピークを迎えた。
西洋料理は、外国人との交際の上でも、栄養の上でも必要とされた。
その後は、欧風への心酔とその反動の国粋運動が入り混じるなかで、明治末から大正期にかけて、西洋料理を米飯に合うように和食化したカツレツ(とんかつ)、コロッケ、カレーライスの三大洋食が広まっていった。
 これに対して、中華料理(当時の呼称は「支那料理」)の流行は、西洋料理の最初の流行から半世紀近くも遅れた1920年頃からであり、庶民のあいだから広まり始めた。
その当時、西洋文化の追求に飽き足らない人々のあいだで、「支那趣味の新流行」が起こっていた。
(『中華料理と日本人 帝国主義から懐かしの味への100年史』岩間一弘 中公新書 2025年)
 こうしたなかで、1923年に関東大震災が起こり、おいしくて栄養のある料理が求められた。
震災後の東京でもっとも増えたのが「支那料理屋」であり、東京だけでもおよそ1500~2000店余りもできたという。
屋台車で商売をする「南京蕎麦屋(そばや)」は震災前から多く見られたが、震災後には、中華料理店が洋食店と同じように店舗を構えた。
さらに、洋食店が中華料理も兼業するようになった。
こうして1920年代後半には、「東京全市は支那料理屋全盛の時代といってもよい盛観」を見せた。
この頃までに、中華料理が美味で、衛生的で、栄養があることが認められた。
 第二次世界大戦前の中華料理は、おもに上海(ないしは南京)、広東、北京の三系統であった。
本書で見るように、餃子、肉まん、ジンギスカン料理といった代表的な料理が、満州(東北)や華北から日本に伝わっている。
しかし、ラーメン、シュウマイ、ワンタン、チャーシューなどは広東から伝わったと考えられる。
また、日本の中華料理の味つけや料理法は、全体として上海の影響が強かった。
 横浜や神戸のチャイナタウンは、1858年の日米修好通商条約にもとづく開港後、中国の広東省をはじめ、福建省、江蘇省、浙江省、山東省などからやってきた華僑によって形成された。
とくに横浜の華僑社会では、1923年の関東大震災の前には約四人に三人が広東省出身者であった。
そのため、広東料理の代表的な点心(てんしん<軽食>)の一つであるシュウマイが横浜の地方名物になった。
 上海は、中華民国(1912~49年)の経済や文化の中心地となり、日本との交易や交流も盛んであった。
市内の虹口(ホンキュウ)という地区では、日本人居留民社会が形成され、拡大した。
さらに、1937年の第二次上海事件ののちには、日本軍がこの地区を占領した。
そのため、日本には上海経由で中華料理が伝わることが多かった。
 1915年、天津の「包子(パオズ)」を上海から日本に伝えて「豚饅頭(ぶたまんじゅう)」として販売した神戸の「老祥記(ろうしょうき)」はその一例である。
近代日本の中国趣味も、おもに上海から伝わった最新のファッションや料理を楽しむものであった。
たとえ広東料理であっても、上海から来た料理人が作れば上海流になったので、東京の中華料理は7~8割が上海流であったという。
 ただし、1938年に東京商工会が編集した店舗開業案内によれば、「支那料理といっても、最も注文の多いのは、まず支那そばなのだ」という。
しかも、「支那料理は、とかく支那人は汚いものということが、先入観になっているので、店はよほど清潔にしておかないと、汚い感じを誘起させる」と述べられている。
 当時の日本では、「汚らしい感じのする支那人」という偏見と、中華料理は「支那人が作るので、おいしいだろう」という思い込みが、同時に広まっていた。
こうした華僑コックや彼らの作る料理に対する両義的な態度は、日本だけに限らず、世界各地で広く見られていた。
例えば、19世紀末にフランスの支配下にあったベトナムでは、フランス人の植民者が、人種的な純粋さが損なわれることを避けるために、ベトナムや中国の食べ物を食べなかった。
他方で華僑男性が優れたコックになることは広く知られており、彼らはしばしば植民者のお抱えコックとして雇われていた。
 なお、西洋料理は明治期の国策、つまり官主導のキャンペーンで普及したのに対し、中華料理は民間から自発的に広まった、という単純な二項対立では理解しがたい。
日本式の洋食も、民間の創意工夫と努力によって本格的に普及し始めたのだし、逆に中華料理に関しても、本書で見るように、政府や軍隊が普及に密接に関わり、ジンギスカン料理のように戦意高揚の宣伝に利用されたものもあった。
(『中華料理と日本人 帝国主義から懐かしの味への100年史』岩間一弘 中公新書 2025年)
衆議院解散へ 解散から投開票 戦後最短 自治体 対応に追われる」(NHK 1月19日)

 Shoko Egawaさんの投稿(1月19日)
働いて働いて働いて働くのはやめて解散。
これによって、冤罪被害者を救済するための再審法改正の議員立法を廃案に追い込んだ。

高市首相「右傾化ではなく普通の国になるだけ」…解散表明会見、質疑応答全文(読売新聞オンライン)

事前に決められた記者だけが質問できたようです

Toshi Ogataさんの投稿(1月19日)
私も参加していた高市首相会見がいま、終わりました。
記者の質問中も首相はメモに何度も目を落とし、答えもメモを読んでいることが大半でした。
「事前に決めた人でなく、質問させて下さい」と声をあげましたが、質問させてもらえませんでした。
茶番会見であり、結局、高市首相は自信がないのだと感じました。


首相も府知事も似たもの同士のようです。
周りに相談することなく独断専行で強行したように思います。
首相も府知事も支持率が右肩下がりになる前に
衆議院解散総選挙、府知事・市長選挙を強行したと思っているのですが勘ぐりすぎでしょうか?