2026年1月27日火曜日

少しやわらいで

 今朝は、気温が少しあがり寒さがやわらいでくれました。
ただ、これも束の間のようです…

36年ぶり真冬の選挙戦、大雪や寒さで投票率低下の恐れ……」(読売新聞)

車で8時間か、1万円超かけ郵便か 海外有権者「投票間に合わない」〟(朝日新聞 1月24日)
先日の街歩きで「大阪名物 六道」の碑を見たのですが
大阪名物」について検索しても???でした(^^ゞ
「六道の辻」と言えば京都の六道珍皇寺を思い出します(^_^)v
小野篁について『今昔物語』にありますので現代語訳を転記したいと思いますφ(.. )
巻第二十
 小野篁(おののたかむら依情助西三条大臣語(なさけによりてさいさむでうのおとどをたすくること)第四十五

 (現代語訳

 今は昔、小野篁(おののたかむら)という人がおった。
まだ学生(がくしゃう)の身分であった時、あることで朝臣が篁の罪科を処したが、当時、西三条大臣良相(さいさんじょうのおとどよしみ)と申し上げた方が、宰相として、何かにつけて篁のために弁護してくださったのを、篁は心中、ありがたいことだと思った。
やがて年月もたち、篁は宰相になり、良相も大臣になった。
(『今昔物語集 三』馬淵和夫他 校注・訳 小学館 昭和49年)
 そのうち、大臣は重い病気にかかり、数日のうちにお亡(な)くなりになった。
と同時に、閻魔王の使いに捕縛されて閻魔王宮に連れて行かれ、裁判を受けることになった。
見れば、閻魔王宮に仕える臣下がずらりと居並んでいる中に、小野篁が交じっている。
大臣はこれを見て、「これはどういうことであろうか」と不思議に思っていると、篁が笏(しゃく)を手にして王に申し上げる、「この日本の大臣は心正しく、人に対して親切な者であります。このたびの罪はわたしに免じてお許しくださいますよう」。
これを聞いて王は、「それは非常にむずかしいことだが、そなたがたっての願いゆえ許してつかわそう」とおっしゃった。
そこで、篁はこの捕縛した者に向かい、「さっそく連れて帰りなさい」と命じたので、連れ帰った、と思うや大臣は蘇生した。
 その後、病気はしだいによくなり、数か月たったが、あの冥途のことが不思議でならない。
だが、だれにも話さず、篁にもまったく尋ねなかった。
 ある日、大臣が参内し、陣の座に着かれたが、宰相篁も前からそこにすわっていた。
ほかにだれもいない。
大臣は、「ちょうどよい折だ。あの冥途でのことをきいてみよう。以来ずっと不思議でならなかったことだから」と思い、膝を進めてそっと篁宰相に言った、「ここ数か月、よい機会がなくて申さなかったのだが、あの冥途でのことはなんとしても忘れがたい。いったい、あれはどういうことなのか」。
これを聞いて、篁はちょっとほほえみ、「先年のご〔親切〕がありがたく存ぜられましたので、そのお礼に申したことなのです。しかし、このことはますますお慎みくださって、人には仰せくださいませんように」と、おっしゃった。
そして大臣に、「これはまだ人の知らぬことでございます」と申し上げた。
大臣はこれを聞いて、いっそう恐れ、篁はただの人間ではないのだ、閻魔王宮の臣なのだ、とはじめてわかり、「人に対しては情けをかけてやるべきだ」と、会う人ごとに熱心に教えなさった。
 ところで、この話が自然世間にも知れ、「篁は閻魔王宮の臣として、この世との間を行き通っている人なのだ」とだれもがお思って恐れおののいた、とこう語り伝えているということだ。
(『今昔物語集 三』馬淵和夫他 校注・訳 小学館 昭和49年)
 『百人一首』に篁の歌が載っていますので

 十一 参議篁(たかむら) 
  わだのはら八十島(やそしま)かけて漕(こ)ぎいでぬと
   人にはつげよあまのつりぶね 

 小野篁(802-852)は、岑守(みねもり)の子で、幼年の頃は弓馬の道に専心し、性不羈(ふき)にして直言を好み、世に容(い)れられなかったので、「野狂」とも呼ばれた。
成人してからは学問の道に入り、漢学者としても、歌人としても著名であったが、また不思議な逸話を残したことでも知られている。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年)
「今昔物語」には、彼が閻魔(えんま)大王と交流があり、昼は朝廷に仕え、夜は地獄へ通ったという話がのっており、その道は六波羅(ろくはら)の珍皇寺(ちんのうじ)から、嵯峨(さが)の六道の辻(つじ)へ通じていたという。
珍皇寺のあたりは今でも「六道の辻」と呼ばれ、嵯峨の大覚寺にも、「六道町」という地名があって、厭離庵(えんりあん)の北に当る「生六道(せいのろくどう)」がそれであるという。
「生六道」というのは、篁が地獄から蘇(よみが)ったことを示すのであろうか。
そのあたりには、墓場や石仏が散在し、今でも陰気くさい所だが、そういう石仏や石塔を集めたのが、有名な化野(あだしの)の念仏寺で、化野も、六波羅も、古くは風葬の地であった。
後に篁は地蔵信仰と結びつき、京都の「六地蔵めぐり」の祖となったのも、そういう因縁があったからである。
 小野小町の章でも述べたように、多くの霊験談がつきまとうのは、小野氏に附随した語り部の伝統によるのであろう。
小町の性格にも、多分に巫女(みこ)的な要素があるが、篁も異常な体験の持主で、彼等の血の中には神霊的なものが流れていたに違いない。
彼が「野狂」と呼ばれたこと、また一族にすぐれた芸術家が生まれたことも、そういう体質と無関係ではあるまい。
 承和(じょうわ)5年(838)、篁は遣唐使に任ぜられた。
が、大使の藤原常嗣(つねつぐ)と不和になり、病と称して乗船しなかった為(ため)に、嵯峨天皇の勅勘をこうむり、隠岐(おき)の国へ遠島になった。
これはその時よんだ歌である。
 時刻は夕暮であろう。
茫漠(ぼうばく)とした海原に、島影が遠ざかって行き、海人(あま)のいさり火が点々と海上に浮ぶ。
聞えるものは舟を漕ぐ櫓(ろ)の音ばかり。
そういう風景が彷彿(ほふつ)とされるが、流人(るにん)の頼りない気持が、海人の釣舟によそえて切々と迫って来る。
そこには個人的な悲しみよりも、海原の大きな景色――あまりに大きすぎて、よるべのない寂しさが表現されているような感じがする。
海人部(あまべ)の人々が伝えた貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)という説もあるが、それにしては個性が強く出すぎている。
やはり小野篁が流された時に詠(よ)んだ歌を、小野氏の一族が伝承したと考えるのが自然であろう。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年)