先日まで雨が降り続いていると思ったら猛暑
線状降水帯で被害が出ている地域では、
後片付けが大変なのに
「熊本や福岡県など猛暑日予想 大雨被災地では熱中症対策徹底を」(NHK)
8月14日に京橋駅では慰霊祭が行われています。
2020年8月14日の日記で「京橋駅の惨状」を転記しました。
今日は、学徒動員で大阪陸軍造兵廠で働いていた方の手記を転記したいと思います。
Ⅰ 体験手記 砲兵工廠の八月十四日
十六歳の衝撃
生田 穂(54歳)
学徒動員
昭和19年夏、当時十五歳だった私は、学徒動員で、大阪陸軍造兵廠(通称大阪砲兵工廠)に、初めて入場しました。
大きな工場群を眺めながら巾広い道路を歩いてゆき、森ノ宮地区第九工場へ配属されました。
この工場の仕事は、高射砲、戦車砲および対戦車砲の組み立てと検査です。
目の前で兵器が続々と生産、出荷されている様は、非常に頼もしく思われ、学徒として、この工場に配属されたことを、大変誇りに感じたものでした。
…中略…
(『大阪砲兵工廠の八月十四日 歴史と大空襲』大阪歩兵工廠慰霊祭世話人会編 東方出版 1997年)
工廠大空襲
昭和20年8月、われわれは京橋地区第五工場へ転属を命じられました。
仕事は、フライス盤による部品切削加工。
それまでのグループ作業から、単独作業になり、毎日が単調に感じられていました。
そのような日々の中で、8月14日、あの大空襲を迎えたのです。
あの日、朝から、大阪地区に空襲があるという情報があり、多くの学徒は廠外の桜ノ宮公園へ避難していました。
その学徒達は、全員無事、工廠から約3キロ離れた自宅の壕に避難していた私も、やはり無事でした。 爆弾が落ちてくる時の音は、トタン屋根に大雨が降ってくるような、「ザァー」という音です。
けれど、あの、爆弾が全部、自分の頭上に落ちてくるような気のする、異様な音響は、現在の平和な社会に、数々の騒音があるとは言っても、ちょっと比べられるものではありません。
本当にあれは、身の毛のよだつ音です。
爆発した瞬間は、ドスンという音響と共に、地震の連続のような地響きがします。
周囲の家が全部、倒れていきそうな振動とショックで、私など、爆発の後ごとに、自宅は大丈夫かと、壕の中から覗いたものでした。 翌15日、玉音放送によって日本の敗戦を知らされ、その後、すぐに工廠へ向かいました。
途中、京橋駅南口あたりを通過する時、昨日の爆撃によって、高架線が無残にも破壊されているのが見えました。
近づいていくと、5メートル四方もあろうかと思われる、巨大なコンクリートの塊の下で、多くの兵隊が圧死しています。
下半身は下敷になってつぶされ、鉄帽をかぶった顔面と手指は、なぜか風船のように膨張し、生きている人間の二倍位の大きさになっていました。
皮膚の色が、黒人のようなチョコレート色になっているのにも、驚きました。 当時は、現在のようなクレーン車もなく、すぐには、どうしようもない状態でした。
近くの広場には、多数の死者が手足の折れ曲った姿のまま、地面に並べられており、焼けたトタン板のようなもので覆っているだけでした。
警報によって、電車から下車し、駅構内に避難して、そこで罹災された人達だったのでしょうか。
戦争とは言え、このような、生々しい、悲惨な現場を見たのは、その時が初めてでした。
敗戦の打撃と重なり、私にとっては、言葉も出ないほどの、ショックでした。 それでも何とか、京橋地区第五工場に行ってみたのですが、ここも又、変わり果てた有様でした。
1トン爆弾によって、工作機械群は完全に吹き飛ばされて跡形もなく、直径20メートル位の、擂鉢状の穴が無数にでき、その穴の底に、少し水が溜まっている状態になっていました。
大小無数の、コンクリートの塊と、大きな穴だらけで、造兵廠は、完全に壊滅状態になっていたのです。
大声で復旧作業に従事している人々がいるかたわら、工廠の備品らしき物を勝手に持って帰る人がいるなど、あの、規律正しくて、秩序のあった工廠は、どこへ行ったのかと思う混乱ぶりです。
われわれ学徒は、ただ呆然と、その様子を眺めているだけでした。 小学生の頃から軍国主義を徹底的に叩き込まれていた、われわれにとっては、日本が戦争に敗れること自体が、とうてい考えられない、信じられないことだったのです。
その上に、「現人神(あらひとがみ)」とあがめられていた天皇陛下が、ラジオを通して直接国民に呼びかけられることなど絶対にないものと思っておりました。
そして今度は、この混乱ぶりです。
今後の日本は、一体どうなっていくのだろうという、不安と、大きなショックとで、二、三日は食欲もなく、両親を心配させました。
これは少年十六歳が受けた、生涯忘れることのできない、大きな精神的衝撃でありました。 あとがき
この様な悲劇を語るとき、多くの教訓を残された犠牲者を偲び現在我々が手にしている平和の恩恵に感謝し、もう二度とこの様な悲劇を繰り返さないためにも我々の体験を後世に伝えることが生き残った者の責務であると信じております。
終りに戦争による多くの犠牲者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(『大阪砲兵工廠の八月十四日 歴史と大空襲』大阪歩兵工廠慰霊祭世話人会編 東方出版 1997年)「証言記録 市民たちの戦争 ぼくたちは兵器を作った ~大阪砲兵工廠(しょう)~」(NHKアーカイブス)
「[8]仲間の形見」で手記を書かれた生田穂さんが証言されています。
「昭和20年8月 原子爆弾の投下と日本の降伏」(国立公文書館)
敗戦前日の8月14日空襲を受けたのは大阪だけではありません。
「空襲10カ所 米機1000機、犠牲2300人」(毎日新聞 2017年8月13日) 第5章 地方都市への拡大
中国・四国地方の空襲
岩国
終戦前日まで航空基地と軍需産業が標的に
戦時中の山口県岩国市には海軍航空隊があり、陸軍燃料廠(ねんりょうしょう)があった。
興亜石油麻里布(まりふ)製油所は、航空揮発油(きはつゆ)の生産を目的として昭和18年に操業を開始した。
帝人麻里布工場製機部は航空機部品の生産を行い、翌19年に独立、帝人航空工業株式会社となった。
同年には中国塗料岩国航空機工場も設置された。
(『日本列島 空襲の記録』平塚柾緒編 講談社学術文庫 2025年) 戦況が急迫した昭和20年になると、帝人の工場も航空燃料の生産を命じられた。
だが、米軍の地方都市空襲はますます激しくなり、岩国市への空襲も当然予想された。
案の定、昭和20年5月10日、岩国市装束(しょうぞく)町の陸軍燃料廠(ねんりょうしょう)と興亜石油麻里布製油所が爆撃され、死者約360名を出した。
B29延べ240機が6回にわたる波状攻撃をかけ、250キロ爆弾約2000発を投下したのだ。
陸軍燃料廠は破壊され、興亜石油も大打撃を受けた。 それ以降、岩国は7月24日に岩国沖の端島(はしま)と黒島(くろしま)、28日にこの年の5月に創設された海軍第11航空廠の岩国支廠が、8月9日に川下(現三角町)の海軍航空隊が連続空襲を受けた。
そして終戦前日の8月14日、午前11時15分、108機のB29が来襲し、2839発の爆弾を投下した。
激しい空襲を人々は〝死の夕立〟と呼び、約30分の攻撃で市街地は穴だらけにされた。
死者517名、負傷者859名、罹災者5911名の被害が出た。
(文・馬場隆雄)
(『日本列島 空襲の記録』平塚柾緒編 講談社学術文庫 2025年)
空襲だけでなく
「終戦前日に失われた多くの命 証言でたどる”香住沖海戦”」(NHK 2022年8月10日)今朝の父の一枚です(^^)/
クチバシの黄色い子を写していました。
黄色いと言えば
「『日本国語大辞典』をよむ 第71回 くちばしの色」(今野真二 三省堂)
スズメがおしゃべりなことは知っていましたが
勧学院(かんがくいん)の雀は蒙求(もうぎゅう)を囀(さえず)る
日ごろ見なれ聞きなれていることは、自然に覚えてしまうというたとえ。
「勧学院」は、平安時代に藤原氏の子弟が学んだ寄宿舎。
「蒙求」は、中国・唐代の児童用の教科書で、日本でも古くから用いられていた。
勧学院にいる雀が、日夜耳にする蒙求を口にするということから。
鎌倉時代の仏教説話『宝物集(ほうぶつしゅう)』、寺社縁起『八幡愚童訓』など古くから常用されたことわざだったが、現代では同義の「門前(もんぜん)の小僧習わぬ経を読む」に取って代られている。
(『岩波ことわざ辞典』時田昌瑞 岩波書店 2000年)