今朝の蒸し暑かったこと(;´Д`)
今までの猛烈な暑さで地面も周辺の建物も熱を蓄えていたので
少々の雨では、涼しくならないどころか蒸し風呂のようになっている
「九州~東北 各地で猛烈な暑さの見込み 熱中症対策徹底を」(NHK)
「京都 中京区付近で記録的な大雨 災害の危険性迫る」(NHK)
NNNドキュメント’25「元軍医の遺言 特攻と覚醒剤」
「上官から命じられたのは出撃前の特攻隊員に“元気が出る”注射を打つことでした」
覚醒剤を最初に軍事利用したのはナチスだそうです。
「戦争と覚醒剤の歴史を振り返る……」(園田寿 GLOBE+ 2023.08.15)
栄養失調になっている子どもたちの姿を見ていると
アウシュヴィッツなど強制収容所でのユダヤの人びとと重なります。
〝“ガザ地区で食料不足 最も深刻な「飢きん」発生” 国連が発表〟(NHK 8月22日)
昭和39年10月、東京オリンピック閉会式をテレビで見ながら
蘭子の「でも 昨日まで普通やったのが突然始まる。それが戦争やき。」
今日は、登場しませんでしたが
手嶌治虫(てじま おさむ)は手塚治虫がモデルですね…
我が思い出の記――手塚治虫
世の中で、なにがいちばんみじめかといって、戦争ほどみじめなものはない。
ただ、みじめだ、いたましい、むごたらしいとかいったって、昭和二十年よりあとにうまれた人は、絵や写真や映画でみるだけで、よくわからないでしょう。
戦争とは、かっこいい兵器がでてきて、いさましい突撃があって、飛行機の決闘があって………とワクワクする人がいる。
そんな人にかぎって、「でも、じっさいに戦争の中にいるのはいやだな。よこの方で、のんびり戦争をみていて、つよい方をおうえんするよ」っていうはずだ。
(『手塚治虫 ぼくの描いた戦争』手塚治虫 KKベストセラーズ 2004年)
でも、ほんとうの戦争はそんなもんじゃない。
あなたのあたまの上にたまがおちてきて、あなたがこっぱみじんになってあなたが死ぬのですよ。
それも戦争をする人しない人、しかけた国、しかけられた国にかかわらず、だれでも死んでしまうのですよ。
あやまったって、にげたって、かくれたって、だめなのだ。
そんな戦争が十年も続いたのです。
日本は。 ちょうどそのころこどもだった人は、おとなになるまで、いやでも戦争を身にあびて育ってきたのだ。
ぼくが、お医者の勉強をはじめたこと、マンガ家になろうと決心したことなど、みんな、この時代の思い出だ。
そのかわり、きみたちがいま、野球やテレビや、修学旅行や、プールやらでたのしく学校生活をおくっている年ごろに、兵隊になるための教練と、防空ゴウほりと、高射砲陣地をつくる手つだいと、兵器工場のみらないと、空襲と栄養失調で、十年間すごしてしまった。
みなさんはしあわせだ。
ほんとうにしあわせなのです。 ぼくの学校のある大阪は、西を淀川がうねうねと仕切っている。
アメリカの爆撃隊はたいていこの淀川を目標にとんできた。
淀川の両岸には、のきなみ軍需工場が立っていた。
輸送機の部品や爆弾、パラシュート、戦車、赤十字の医療品、軍服、船の計器盤などをつんだトラックが、一日に何百台も行ききしていた。
ぼくは、その中の、ごくちいさな工場に学校から、勤労動員にきていた。
勤労動員というのは、学校から工場へてつだいに行くことだ。
てつだいといっても子どもだから、せいぜい雑役で、うろうろするときが多かった。
トロッコのかげなどで、メンコをしたり、紙くずをもやして焚き火をし、イモをやいたりした。 ぼくは、作業をサボッて、マンガをかいていた。
だれもみてくれる人がいないので、かいたものを、トイレのかべにはっておいた。
ちょうどしゃがむと、目の高さのところに、マンガがはってあるというわけだ。
あくる日行ってみると、だれかがやぶいて、すててしまっていた。
またあたらしいものをはっておくと、あくる日、またはがされている。
しまいに、これは用を足すのにつかってしまうんだとわかって、パリパリのあつ手の紙にマンガをかくようにした。
こんどは、さすがにはがすものはいなかったが、そのかわり、だんだんよごれてきて、茶いろいシミがついたりするようになった。 ぼくが工場でマンガをかいたのは、そのころたべものはないし、新聞も戦果の記事ばっかりだし、一日ちっともうるおいがないのでせめてみんなマンガでもよんだら心がなごむだろうとおもったからだ。
でもおかげで、工場長や、つきそいの教官に、そうとうに、にらまれてしまった。
そのせいかどうかしらないが、ぼくは、工場でいちばんたかい、足場のわるい見張り台の上へのぼらされて、見張りをさせられることになった。
…つづく…
(『手塚治虫 ぼくの描いた戦争』手塚治虫 KKベストセラーズ 2004年)今朝の父の一枚です(^^)/
ツバメの若鳥がチョコンと一休みをしています。
「ムクドリだって言葉が話せる」つづき
日本人には、日本にいる鳥が人の言葉を話すはずがないという固定観念のようなものがあった。
話すカラスはまれにいるが、そうした個体と出会っても、カラスは頭がいい鳥なので、カラスならありうる、カラスだから話すのだと例外を決めこむ。
そして変わらず、日本でよく見る小さな鳥たちは話さないと、検証することもなく思い込んできた。
専門的な研究がこれまで行われてこなかったのは、こうした背景もあってのことである。
加えて、法律が野鳥の飼育を禁じているということもあった。
だが、ムクドリを雛から育て、その鳥に一定の資質があれば、人の言葉が話せるようになる。
それは事実である。
「上官から命じられたのは出撃前の特攻隊員に“元気が出る”注射を打つことでした」
覚醒剤を最初に軍事利用したのはナチスだそうです。
「戦争と覚醒剤の歴史を振り返る……」(園田寿 GLOBE+ 2023.08.15)
栄養失調になっている子どもたちの姿を見ていると
アウシュヴィッツなど強制収容所でのユダヤの人びとと重なります。
〝“ガザ地区で食料不足 最も深刻な「飢きん」発生” 国連が発表〟(NHK 8月22日)
ユダヤ人とシオニスト(イスラエル)を同一視してはいけません。
朝ドラ「あんぱん」第22週「愛するカタチ」 (106)昭和39年10月、東京オリンピック閉会式をテレビで見ながら
蘭子の「でも 昨日まで普通やったのが突然始まる。それが戦争やき。」
今日は、登場しませんでしたが
手嶌治虫(てじま おさむ)は手塚治虫がモデルですね…
我が思い出の記――手塚治虫
世の中で、なにがいちばんみじめかといって、戦争ほどみじめなものはない。
ただ、みじめだ、いたましい、むごたらしいとかいったって、昭和二十年よりあとにうまれた人は、絵や写真や映画でみるだけで、よくわからないでしょう。
戦争とは、かっこいい兵器がでてきて、いさましい突撃があって、飛行機の決闘があって………とワクワクする人がいる。
そんな人にかぎって、「でも、じっさいに戦争の中にいるのはいやだな。よこの方で、のんびり戦争をみていて、つよい方をおうえんするよ」っていうはずだ。
(『手塚治虫 ぼくの描いた戦争』手塚治虫 KKベストセラーズ 2004年)
でも、ほんとうの戦争はそんなもんじゃない。
あなたのあたまの上にたまがおちてきて、あなたがこっぱみじんになってあなたが死ぬのですよ。
それも戦争をする人しない人、しかけた国、しかけられた国にかかわらず、だれでも死んでしまうのですよ。
あやまったって、にげたって、かくれたって、だめなのだ。
そんな戦争が十年も続いたのです。
日本は。 ちょうどそのころこどもだった人は、おとなになるまで、いやでも戦争を身にあびて育ってきたのだ。
ぼくが、お医者の勉強をはじめたこと、マンガ家になろうと決心したことなど、みんな、この時代の思い出だ。
そのかわり、きみたちがいま、野球やテレビや、修学旅行や、プールやらでたのしく学校生活をおくっている年ごろに、兵隊になるための教練と、防空ゴウほりと、高射砲陣地をつくる手つだいと、兵器工場のみらないと、空襲と栄養失調で、十年間すごしてしまった。
みなさんはしあわせだ。
ほんとうにしあわせなのです。 ぼくの学校のある大阪は、西を淀川がうねうねと仕切っている。
アメリカの爆撃隊はたいていこの淀川を目標にとんできた。
淀川の両岸には、のきなみ軍需工場が立っていた。
輸送機の部品や爆弾、パラシュート、戦車、赤十字の医療品、軍服、船の計器盤などをつんだトラックが、一日に何百台も行ききしていた。
ぼくは、その中の、ごくちいさな工場に学校から、勤労動員にきていた。
勤労動員というのは、学校から工場へてつだいに行くことだ。
てつだいといっても子どもだから、せいぜい雑役で、うろうろするときが多かった。
トロッコのかげなどで、メンコをしたり、紙くずをもやして焚き火をし、イモをやいたりした。 ぼくは、作業をサボッて、マンガをかいていた。
だれもみてくれる人がいないので、かいたものを、トイレのかべにはっておいた。
ちょうどしゃがむと、目の高さのところに、マンガがはってあるというわけだ。
あくる日行ってみると、だれかがやぶいて、すててしまっていた。
またあたらしいものをはっておくと、あくる日、またはがされている。
しまいに、これは用を足すのにつかってしまうんだとわかって、パリパリのあつ手の紙にマンガをかくようにした。
こんどは、さすがにはがすものはいなかったが、そのかわり、だんだんよごれてきて、茶いろいシミがついたりするようになった。 ぼくが工場でマンガをかいたのは、そのころたべものはないし、新聞も戦果の記事ばっかりだし、一日ちっともうるおいがないのでせめてみんなマンガでもよんだら心がなごむだろうとおもったからだ。
でもおかげで、工場長や、つきそいの教官に、そうとうに、にらまれてしまった。
そのせいかどうかしらないが、ぼくは、工場でいちばんたかい、足場のわるい見張り台の上へのぼらされて、見張りをさせられることになった。
…つづく…
(『手塚治虫 ぼくの描いた戦争』手塚治虫 KKベストセラーズ 2004年)今朝の父の一枚です(^^)/
ツバメの若鳥がチョコンと一休みをしています。
「ムクドリだって言葉が話せる」つづき
日本人には、日本にいる鳥が人の言葉を話すはずがないという固定観念のようなものがあった。
話すカラスはまれにいるが、そうした個体と出会っても、カラスは頭がいい鳥なので、カラスならありうる、カラスだから話すのだと例外を決めこむ。
そして変わらず、日本でよく見る小さな鳥たちは話さないと、検証することもなく思い込んできた。
専門的な研究がこれまで行われてこなかったのは、こうした背景もあってのことである。
加えて、法律が野鳥の飼育を禁じているということもあった。
だが、ムクドリを雛から育て、その鳥に一定の資質があれば、人の言葉が話せるようになる。
それは事実である。
(『鳥を読む 文化鳥類学のススメ』細川博昭 春秋社 2023年)