2025年8月12日火曜日

8月12日

最近、雨が降らないとぼやいていたら雨の日が続いています。
駐車場に着いたときに本降りになり風も吹いてきて傘が飛ばされそうになりました。
散歩を諦めようかと思っていたら
セミが元気に鳴き出し、空が明るくなりました。
一方、各地で豪雨の被害が出ています

局地的に雨強まる 北陸 九州などで災害の危険度高い状態続く」(NHK)
今月の100分de名著は、名著152「人間の大地」サン=テグジュペリ
夜間飛行・人間の大地』(野崎歓訳 岩波文庫)

市川沙央さんが10代の頃に出会った一冊の本『人間の土地』(堀口大学訳 新潮文庫)

これが、とても好きで当時は読み込んでいました。
「イデオロギーを論じあってみたところで、何になるだろう?
すべては、立証しうるかもしれないが、またすべては反証しうるのだ。」
この箇所は、今、この2025年にとてもアクチュアルだと思っています。

こころの時代~宗教・人生~「命の声を届ける 作家・市川沙央」(4月6日 放送)

サン=テグジュペリが操縦していた時代よりも安全な乗り物になったはずなのに
40年前の8月12日
日航機墜落事故からきょうで40年 遺族らが慰霊登山」(NHK)

Ⅶ 日航御巣鷹山激突事故(1985.8.12)
 世界史上最大の航空事故
 

 昭和60年8月12日は炎暑の我が国の真夏でも、とりわけ耐え難い暑さに襲われた夏の仲日であった。
羽田の東京国際空港の激しい照り返しがようやくその苛烈さを弱め始めた午後5時半頃、日本航空第123(下り)便ボーイング747SR(SRはShort Range の略称で、行動半径<レンジ>を減じただけ客席数を増した型)ジャンボ機はほぼ定刻通りに空港を離陸し、大阪国際空港に向かった。
この機体が姿が羽田の視界外に没した後も、離陸後の所定の諸連絡は空港管制塔との間で怠りなく実行された。
(『真説日本航空機事故簿』内藤一郎 亜紀書房 1994年)
 この123便機に何かの異変が生じたのを感知したのは、残念ながら羽田空港管制塔ではなかった。
そうした出発後の空港管制塔との間で定められた諸連絡が全く途絶えてしまう、まさにそのちょうどの時間帯に入ってしまったからである。
こうなると空港管制塔にはこの機との連絡を探ろうにも全く手段がなくなってしまう。
したがって空港管制塔にはこの事故に関する責任は全くない。
 異変の発生を最初に感知したのはやはり羽田管制塔で、他の手段で連絡を探ろうとし始めたのは123便機が出発してからおよそ小一時間を経過して後のことである。
あわただしい空港からの問い合わせのための呼びかけに、123便機からの応答は全くなく、この機は全く消息を絶ってしまったのである。
万策尽きた形になってしまった羽田空港は、無事をひたすら祈るしかなかった。
 乗客524名を乗せたこの123便機の消息が入り始めたのは午後7時頃であった。
群馬県東方山間部に異常な大きな炎上が見られるというものであった。
時を移さず百里基地から偵察航空団501飛行隊の写真偵察機RF-4Eの2機が緊急出動せしめられた。
暗夜を徹してのこの航空自衛隊の機敏な行動が、初動捜索をどんなに益したかは計り知れぬものがある。
この果敢な偵察行がなかったとしたら、この事故の発見はどんなに遅れていたことだろう。
 翌早朝捜索隊が事故現場に到着し始め、その集結を待って日航123便機であることが確認された。
やはり大規模な遭難事故で消息を絶っていたのである。
機体の炎上はほとんど鎮火していた。
そして捜索隊はこれほどの大破壊にもかかわらず、なお4名の生存者がいることを発見し、一驚に喫したのである。
生存者はすべて女性で、なかには女子中学生と、日航のスチュワーデスで非番のところを最後部近くの一座席に便乗していた者も含まれていた。
 この墜落、機体大破炎上を経て、なおかつ生存者が4名もいたこと自体が、全くの奇跡というしか他に表現のしようがなかった。
生存者はすべて重傷を負っていたけれども、急いで収容された。
特に生存者のうち中学生の少女の収容には、これも奇跡を現実に実現せしめるほどの陸自ヘリコプター乗員の敢闘の美談が生まれた。
 すなわちこの重傷の少女が一時取りあえず収容されたのは、山頂近くのきわめて幅の狭い平地で、片方は断崖に近い峨々たる山腹が迫り、他の片側は急傾斜で落ち込んでいるといった、通常ではヘリコプターなどの接近は不可能である地形だったにもかかわらず、ヘリ操縦士は山腹からの悪気流をものともせず敢然とホバリングを持続すること実の40分余、ついにホイスチングで少女の身体を吊し上げ、機体内に収容することに成功したのであった。
 少女を山麓の救急病院に輸送し、送りとどけた後、任務を果たして基地に帰投したけれども、このヘリ操縦士の右腕は40分余の人間わざをはるかに越えるホバリングの超人的努力にすっかり麻痺し切ってしまい、硬直した右手指を操縦桿からもぎ離すのに他人の介添えを借りて指一本一本もぎ離したという。
こうした超人的努力が実を結んだ結果恵まれた奇跡のひとつだったといえよう。
 墜落現場は赤城山系中の一支峰御巣鷹(おすたか)山で、クラッシュの時刻は12日午後6時56分前後と推定された。
羽田空港からの視界外に機影を没してから、なんと小一時間も彷徨を続けていたことになる。
これはひとつの驚異であった。
常識ではあり得るとはとうてい考え及ばないことが、現実に生じたのである。
 機長以下運航に直接関与する者たちは機の操縦の機能のすべてを奪い去られて後も、なお必死に操縦し続けていたことにほかならない。
これもあり得ないことが現実に実現したという意味で、ひとつの奇跡であった。
 その反面健常の肉体状態を依然保ち続けつつ、この奇跡の、しかし結果的には絶望に終わった長時間の「飛行」の体験を強制される運命となった多数の乗客たちの、クラッシュを以てついに終焉(しゅうえん)を迎えた間の心情はいかばかりか、これは正真正銘の煉獄(れんごく)の苦しみであったにちがいない。

 …後略…

(『真説日本航空機事故簿』内藤一郎 亜紀書房 1994年)
日航ジャンボ機 墜落」(NHKアーカイブス 1985年)
この日航ジャンボ機に坂本九さんが乗っていました。
坂本九」(NHKアーカイブス)

妹は宝塚ファンだったので北原遥子さんのことを覚えていました。
日航機墜落40年で灯籠流し 宝塚の同期生亡くした黒木瞳さんも参加」(朝日新聞 8月11日)
ルメイのように「戦争は遠い昔の話だ」とそらうそぶく人間がいますが
遺族にとって40年たっても
のこしたい 御巣鷹 40年の約束」(NNNドキュメント’25)

40年という節目を迎えて復刊した本があります。
  四十年後の補論――実感と言葉をめぐる危機の時代 

 現場を歩き、家にもどって大型ワープロ(だった、当時は。記憶メディアは8インチフロッピーディスク。ブラウン管モニターはひと抱えもあった)に向かう。
人に会い、話を聞いてきて、またキーボードをたたく。
連日、そんな日がつづいた。
ほぼ十カ月、同じことをつづけた。
朝起きると妻が、どうしたの、ずっとうなされてたよ、と心配した。
(『墜落の夏 日航123便事故全記録』吉岡忍 中公文庫 2025年)
 まず月刊誌に書き、つづけて単行本の原稿を一から書きなおした。
最後の二ヵ月間は出版社の一室にワープロを運び、泊まり込んだ。
そうやって日航123便墜落事故からちょうど1年後に、この本ができた。
 もちろん起きたことは大きく、凄絶だった。
現場は広範で、関係者も大勢いた。
足を棒にして歩きまわり、十人、五十人、百人、二百人と話を聞いた。
だが、航空機の構造やその整備の話となると、私に理解できることは聞いたことの何分の一もない。
専門書を積み上げ、かたっぱしから読んだが、なかなかイメージがつかめない。

 …後略…

(『墜落の夏 日航123便事故全記録』吉岡忍 中公文庫 2025年)
  今のジャーナリストで足を棒にして取材する人はどれだけいるのか
一方、命がけで取材している人たちがいる。
そしてイスラエル軍に狙われて命を奪われる。
ガザ地区への軍事作戦拡大方針 イスラエル首相 “最善の方法”」(NHK)
なぜ“最善の方法”なのか

豪首相“9月にパレスチナを国家として承認” 仏などに続き表明」(NHK 8月11日)
パレスチナを国家に承認する動きが広がる前に
パレスチナの人々を皆殺しにしようとしている。
それを知られることを防ぐことがが“最善の方法”なのだ。
龍谷ミュージアム元館長のつぶやきさんの投稿(8月3日)

世の中には恐ろしい宗教があるということを知らねばなりません。
かつて日本の宗教も戦争に加担したことがあります。
「宗教と国家」の問題は避けて通ることはできません。
それにしてもイスラエルのシオニストの発言は常軌を逸してます。

引用しているポストは、
中東紛争ニュース(8月3日)
イスラエル宗教指導者「全てのガザ市民と子供を餓死させるべきだ」