2025年8月27日水曜日

ぬるい風だけど

曇り空だけど、時々、日ざしが刺さってきました。
ぬるい風が吹いてくれてその時は、木陰で立ち止まってホッと一息
夕方、買い物に出かけるとポツポツと雨が降ったけど
蒸し暑くなっただけだ…

近畿 局地的に非常に激しい雨か 28日も猛烈な暑さに」(関西NHK)
朝ドラ「あんぱん」第22週「愛するカタチ」 (108)

メイコの言葉

うちらあが 一番きれいやった頃 
口紅も塗れんかった。
ワンピースも着れんかった。
男の人らあが町からおらんなって
うちは モンペはいて 
防空壕の穴ばっかり掘りよって…。
やき うち… 母親になっても…。
おしゃれして健太郎さんと町を歩きたいが。
どればあウキウキするがやろう。

茨木のり子さんの詩へのオマージュかな?
みえない配達夫

 わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

(『茨木のり子詩集』谷川俊太郎選 岩波文庫 2014年)
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

(『茨木のり子詩集』谷川俊太郎選 岩波文庫 2014年)

多くの人がのぶのようにこの戦いは聖戦だと信じ、
国のために死ぬのは名誉だと刷り込まれていました。

欧米でもサン=テグジュペリのように考えることできたのは少数派でした。
100分de名著「サン=テグジュペリ“人間の大地” (4)人間よ、目覚めよ!
  岩波俳句
   選・文 池田澄子

 …前略…

◆暑い

 九月号だけれど、そして年齢によることだけれど。
暑いと言えば八月六日から十五日が思われる。
その前に沖縄の六月。
あんなことが人間の歴史の中にあっていいのか。
 たった十七音の俳句という詩形式で、戦争という愚行への思いを書くには難しい。
加担した慚愧、何も出来なかった情けなさ、親しい人を奪われた口惜しさ。
またテレビ画面に、バンザイ岬へ駆け上がり其処から落ちていく女性の姿を見るのか。
それとも彼女はもう既に忘れ去られているのか。

 それがねぇまだ一人も海にとどかないのだ。

と、石垣りんは書いた。
(『世界 2025年9月号』岩波書店)
 宗左近が五月の東京大空襲の炎の海の中で母を失ったことを書いた詩集『炎える母』を発表したのは22年後だったらしい。
書けず、或いは発表できず。

 手と手をにぎりあって、炎の海のなかを走った。//掌がずり落ちた。わたしだけが、なおも走った。//わたしは、わたしを生んで育ててくれた母を殺した……

と書いた。
俳句では太刀打ち出来ないのか。
あぁ、それよりも、戦争は時を選ばず何処かで起こる。
それが口惜しい。
勝ったら民は幸せなのか、めでたいのか。
 
 氏名ありあなたわたくし荒野の兵 澄子

(『世界 2025年9月号』岩波書店)
 「我が思い出の記――手塚治虫」つづき 

 ある日、空襲警報がなって、アメリカの編隊が、れいによって淀川をさかのぼってきた。
きたぞオ!とおもったとたん、ザザーッと雨のように、焼夷弾がふってきた。
「雨のように。」と書いたが、ほんとうに焼夷弾がおちるときには、夕立のような音がするのです。
これがあたまの真上へおちるときはキューンという音にかわる。
爆撃機も動いているからおちる場所も、わずかむこうのほうから、こっちにむかってだんだん近づいてくる。
とうとう、この工場の上へ、ザーザーおちてきた。
見張り台の上のぼくは、おもわずつっぷして、やってもむだなのに頭をかかえた。
もう、おしまいだと思ったとたん、ぼくから二メートルほどむこうのやねへ、直撃弾がおちた。
(『手塚治虫 ぼくの描いた戦争』手塚治虫 KKベストセラーズ 2004年)
 その下のたいひごうにはいっていた人は、みんな死んでしまったそうだ。
ぼくは気が一時へんになったように、ワーワーギャーギャーさけびながら、見張り台からころげおちた。
地上は一面火の海だった。
 ぼくは、まっしぐらに火の海へとびこんで、おきざりにされたトロッコへむかって突進した。
トロッコの下には、ぼくが長いあいだかかってかきあつめたマンガがかくしてあったからだ。
でも、そのマンガはとうとう、ボロボロにこげてしまった。
 そうこうしているうちに、夜みたいにまっくらになり、四方八方の町並みから、ごうごうと火がたちのぼっていた。
すすだらけの雨がふってきた。
淀川のつつみの上へのぼってみると、爆弾の穴があっちこっちにえぐられたようにあき、人間らしきもの(形がぐしゃぐしゃなので、人間にみえなかった)が大ぜいたおれていた。
ものすごくくさいので、ふり返ったら、淀川のつつみに放し飼いにしてあった牛が土にうまったまま、ムシ焼きになっているのだった。
淀川の上流の大橋では、橋の上に、スシづめにひなんした人々と、橋の下へにげこんだ人々の真上へ、大型爆弾が十コもおちたそうだ。
 淀川の流れに、生首が、ぷかぷか何十コも流れてきたのをみた者があった………。
 電車もとまり、道もズタズタにされ、火事とほこりと雨の中を、大阪のほうから、ただぼんやりと、郊外のほうへあるいていく人の群れがつづいた。
 ぼくも、とうとう大阪から家まで何十キロもあるいてかえることになった。
とちゅう、こじきのように、あちこちの家にぺこぺこおじぎをして、おにぎりをもらったり、水をもらったりして足をひきずって、あるいた。
あるきながら、これが戦争か、とおもった。
ばかばかしくて、しかたがなかった。
 こんなことに何回もあったが、あるとき、やけあとの、中之島をとおりかかったら、高射砲にうちおとされた爆撃機がおちていて、アメリカの操縦士が、パラシュートをつけたまま虫の息になっているのに出会った。
大ぜいの人だかりでその中に、憲兵らしいのが五、六人いた。
てんでに棒っ切れをもって、そのアメリカ兵を、ちからまかせになぐっているのだった。
とうとつ、ピクリともしなくなってくちをポカンとあけたのを、ひきずってどこかへ持っていってしまった。
もう、その晩は頭が変になって、ねむれなかった。
ぼくは、ちょうどそのころ予科練をうけて、目がわるいので、おちていたのだけれど、もしパスして、戦場に出て、不時着したらやっぱりあんな目にあうんだろうかとかんがえると、気がくるいそうだった。
(『手塚治虫全集7 ロマン6』1965年9月1日 鈴木出版発行)

(『手塚治虫 ぼくの描いた戦争』手塚治虫 KKベストセラーズ 2004年)

図書館などで『紙の砦』を読んでみてください。
今朝の父の一枚です(^^)/
豪雨の被害があるかと思えば、少雨のため農作物に被害が出ています。
日照りが続く大阪は「干ばつ」とまではいえないのかもしれませんが…

 序章 天変地異とは何か
 【干ばつ】

 これは大雨や豪雪などとは反対に、日照りが続いて水がなくなってしまう気象災害です。
稲作や畑作に大いに影響を及ぼし、作物がとれなくなる被害が起こります。
アフリカなどでは砂漠化が起こってもいます。
 日照りは大気の循環によって必然的に起こるものですが、これが異常に長く続くと干ばつになります。
熱帯地域で発生した上昇気流は、水蒸気を多く含んで大いに雨を降らせたあと、北緯(あるいは南緯)30度付近の中緯度地域にくると空気が乾いているために乾燥した気候になります。
これが長く続くと、乾燥地帯になります。
北緯30度近辺にある地球上の砂漠の多くは、同様にしてできています。
 アフリカのサハラは人類が発生したといわれる600万年前頃から、乾燥して砂漠化しています。
むかし「東京砂漠」という歌が流行したことがありましたが、東京は北緯35度にあるので、もしモンスーン(水蒸気を多く含む季節風)がなければ文字どおり砂漠になっていたかもしれません。
(『天変地異の地球学』藤岡換太郎 ブルーバックス 2022年)