JR奈良線の踏切を横切りました。ギラギラした日ざしを浴びてフウフウいいながら坂を上っていくと
石峰寺(せきほうじ)
百丈山(ひゃくじょうざん)と号し、黄檗宗(おうばくしゅう)に属する。
宝永年間(1708~1711)、万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は、昭和60年に再建されたものである。
本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。
これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当時の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。
なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。
また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶碗子(ちゃわんこ)の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。
京都市拝観受付をしたあと境内を廻りました。
五百羅漢の撮影は禁止ですが、境内の撮影はいいとのこと
お地蔵様が半跏で坐っておられる。
祠の解体修理で地面を固めるときに土を掘り起こすと出てこられたのが
(赤の←)十字が彫り込まれている石仏住職さんにお聞きするとこのあたり(伏見)には隠れキリシタンが多いそうです。
例えば「京都伏見に残るキリシタンの足跡」(月桂冠)
以前紹介した澤田美喜記念館には隠れキリシタンの遺物が展示されているそうです。
お墓参りをしました。途中でお花屋さんがあればと思ったのですが見つけられませんでした。 片隅的世界に見る 無限の宇宙 森村泰昌
…前略…
若冲さん、すんませんでした
2000年に入ってから、世はすっかり若冲さんブームです。
最初にお話したように、僕が若冲さんと出合ったのが70年代。
それからも、僕が関西在住ということもあって、ことあるごとに若冲さんの名を耳にしたり、作品を目にする機会に恵まれてきました。
80年代には京都の出版社から若冲さんの本が出版されたこともありましたし、実は、関西の文化圏では、若冲さんは常に知られた存在やったんです。
(『異能の画家 伊藤若冲』狩野博幸、森村泰昌、他 新潮社 2008年) ところが、全国的レベルでいうと、若冲さんは長らく忘れられてしまっていた画家という観がある。
彼が弟子を持たなかったせいもあるのかもしれないけれど。
そして、いつのまにか多くの作品が海外に流出してしまった。
これは、日本人が若冲さんの作品を重要視していなかったという何よりの証拠やないでしょうか?
それなのに、そういった仕打ちへの反省もなしに、今、若冲さんがサイケやデジタルアートの先駆者などとまつりあげられて〝大流行〟しているのはどうやろうか。
自戒の念も込めて言うのですが、まずは若冲さんのお墓に、すんませんでした、と詫びのひとつも入れてから、作品を観たり語ったりするべきなんやないでしょうか。
コマーシャリズムに流されるのでなく、芸術に対する良心を持つべきやと思うんです。 しかし、若冲さんは生前、「千載具眼徒を俟つ」と言ってたらしいから、21世紀になって、時代が若冲さんに追いついた、とも言えますね。
それと、今、多くの人が若冲さんに惹かれるのは、無意識に、現代に欠如しているものを求めているのかもしれません。
ネットでつながった情報化社会は、無限に広がっていってしまう。
だからこそ、人は、若冲さんが描く小さな片隅の世界を愛し、そこにこそ、無限の宇宙を求める……。
広い世界のほんの一角を捉えた作品が何百年も伝えられて、人々の心に強い影響を与える。
僕はそれが芸術のひとつの役割やと思ってるんですけど、若冲さんは、みごとに芸術家としての役割を果たしたはりますね。
(『異能の画家 伊藤若冲』狩野博幸、森村泰昌、他 新潮社 2008年) 第1章 生い立ち―画家としての出発
孤独癖と、仏教と
家業を放棄して山にこもったのが正確にいつのことだったかはわかっていませんが、若冲の三〇歳代には、それほどの孤独癖と関連して鮮やかに浮かび出てきた二つの要素があります。
一つが仏教、とくに禅への傾倒で、もう一つが絵画への熱中です。
「若冲」というのは本名ではなく、出家せずに(つまり、正式に僧となることはなく)仏門に帰依(きえ)する男子に与えられる「居士(こじ)号」です。
「老子」第四五章の「大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも其の用は窮(きわま)らず」という一節に由来し、「最も充満したものは空虚のようにみえるが、それを用いてもいつまでも尽きることがない」という、いかにも若冲の人柄にふさわしい意味の号です。
これは大典顕常(だいてんけんじょう)が彼に与えたと考えられますが、「若冲」という号は三〇歳代半ばに描かれた作品にすでに入っており、そのころに居士号をもっていたということは、その時点で禅への傾倒は相当なものになっていたと考えてよいでしょう。
…後略…
(『よみがえる天才1 伊藤若冲』辻惟雄 ちくまプリマ新書 2020年) 第五章……葉室麟との対話
歴史の中心から描く
~対談/澤田瞳子~
…前略…
澤田瞳子『若冲』を読む
―芸術家といえば、澤田さんも新作『若冲(じゃくちゅう)』をお出しになりました。お読みになって、感想はいかがですか。
葉室 若冲の人間像はよく分かっていなくて、絵から読み解くしかありません。しかも人間や仏様を描く時は弱いのに、鶏(にわとり)を描くと強い。若冲の人生は、想像が難しい。だから澤田さんの作品を拝読して、奥さんを亡くした心の傷や、義弟との確執が創作の原動力になったという解釈は、なるほどと思いました。
澤田 若冲の生涯にかなり正確に迫ったつもりですが、奥さんに関するエピソードはすべてフィクションです。その部分だけは大きな嘘をつきましたが、当時の商人の生活を考えたら、もしかしたらあり得たかも、と思っています。若冲にはコアなファンが多いので、フィクションの部分がどのように評価されるか、気になります。
葉室 澤田流の若冲になっていて、これから若冲を書く人は必ず読まねばならない作品だと思います。安部龍太郎(あべりゅうたろう)さんの『等伯(とうはく)』、山本兼一(やまもとけんいち)さんの『花鳥(かちょう)の夢』の永徳(えいとく)、これらに匹敵する、大事な作品になるのではないでしょうか。
(この対談は、2015年4月16日に行われました)
(『洛中洛外をゆく』葉室麟 角川文庫 令和4年) 澤田瞳子さんの『若冲』(文春文庫)は、引き込まれました。
今日、石峰寺を訪ねたいと思ったのも澤田さんの影響です(^_^)v
いつもなら、以前、訪ねた「ぬりこべ地蔵」(歯痛封じのお地蔵さん)にもお会いしたかったけどこの暑さで諦めました。
(石峰寺を訪ねるのは2010年3月7日、2011年1月4日と、今回で三度目ですが、その時のblogは終了しています)
〝歯を大切に② 伏見・深草の「ぬりこべ地蔵」〟(京都知新 2020年6月4日)駅に戻る時に食堂を探したけど見つけられなかったので
乗換駅の「枚方市駅」で下車
以前、入った店を探したけど見つからないというか駅周辺が様変わりしていました(゚Д゚)
そして蕎麦屋さんがでカレー南蛮そばとご飯をいただきました。
前回は、カレーうどんでしたが(^_-)
石峰寺の受付に
『若冲 五百羅漢 石峰寺』(水野克比古 芸艸堂 2013年)があったので購入。
チラッと見えているのがお釈迦様が誕生された時の石仏
そこだけ陽の光が当たっていて思わず手を合わせました。いろんなお店があるのだけど馴染みのあるお店が入りやすいです(^^ゞ
こんばんは~
返信削除若冲ゆかりのお寺、石峰寺。
お聞きしたことがあったかも知れませんが。。。
初めて知りました。(#^.^#)
Kazeさんにお聞きして、少し涼しくなった頃に
ぜひ一度訪ねてみたいです。
枚方市駅、懐かしいです。
カレー南蛮蕎麦美味しいですよね。(#^.^#)
暑い時に熱いカレー南蛮。
元気出ますね。
暑い中の街歩き、お疲れの出ませんよう。。。
カイさんおはようございます(^^)/
削除>少し涼しくなった頃に
がオススメです!
今朝も父と公園を歩いてきましたが
暑い時期に町歩きができるのもリハビリ散歩をしているおかげだと思っています。
ただ、この異常な暑さの中でウロウロするのは危険だと思います。
発病前に訪ねた時は、石峰寺だけでなく伏見稲荷や伏見で坂本龍馬ゆかりの場所などを回っていました。
石峰寺は今回で三回目ですが
澤田瞳子さんの『若冲』を読んで若冲が眺めていた風景を見たくなりました。
石峰寺の周辺は違っても遠景は同じだとおもうので(^_-)
五百羅漢は、竹林の中にあり道は整備されていますが、かなり急です。
見学の前に、本堂の前に広い腰掛があるので一休みしてから見学されるといいと思います(^_^)v
カイさんが知っておられる枚方市からかなり変貌していると思います。
お洒落なお店が増えたようです。
そんなお洒落な店でなく暑いからこそ
熱いカレーが食べたくなりライスでなく蕎麦にしました(^_-)