2025年8月10日日曜日

お墓参り

 今日は、日曜日だけど参道は静かでした。
雨の予報でしたが、時々、傘をさす程度の雨で助かりました。

(更新しました8月11日)
四天王寺の「中之門(なかのもん)」から入りました。
中之門は元和年間に再建された主要伽藍に付属する建物のうちの唯一の建築といえ貴重」だそうです。
仮六時堂で祖父母と母、義弟の供養をしていただいた後、墓参りをしました。
お盆の供養は9日~16日の間あるのですが
今日は、母の月命日でもあるのでお参りしました。
四天王寺は、コンクリート造りなのですが

 第5部 近代~現代の四天王寺
 第二章 昭和時代の四天王寺
 三 大阪大空襲による伽藍焼失 


 昭和20年(1945)3月13日夜遅く、B29・274機が大阪市上空に襲来。
空襲警報のサイレンや警鐘が響き渡るなか、焼夷弾による火の雨が降り注いだ。
 午前零時半頃、西門(さいもん)付近に焼夷弾が落下し、引聲堂(いんぜいどう)・短聲堂(たんぜいどう)・西大門(さいだいもん)・経蔵(きょうぞう)が燃え上がった。
四天王寺石鳥居の脇には天王寺消防署があったが、常時控えている消防車は、上六(うえろく <上本町六丁目>)で起こった空襲火災の消火のために出払っており、すでにもぬけの空だった。
(『聖徳太子千四百年御聖忌記念出版 聖徳太子と四天王寺』編集:和宗総本山四天王寺 監修:石川知彦 法蔵館 2021年)
 午前1時過ぎ頃、五重塔にも焼夷弾が落ちたが、当初は銅板吹きの屋根がそれを次々と跳ね返したという。
しかし、中門の東の切妻(きりづま)に落ちたエレクトロン焼夷弾による炎が空高く噴き上がり、これが五重塔そして金堂に延焼した(図9:省略)。
 紅蓮の業火を噴き上げていた五重塔は、やがて銅板屋根が燃え、蒼味を帯びた炎となった。
自ら再建に奔走した昭和新塔の最後を、仁王立ちで見つめていた(出口)常順は、そこに青不動の姿を重ねた。
  五重塔は、真っ赤な炎の中にくっきりとしたシルエットを描いて立っていた。やがて、ぐらりと東へ膝をついたかと思うと、一瞬、空が暗くなった。次の瞬間、大きな炎の浪が左右に広がって、そこは一面火の海であった。
        (出口善子『笙の風』)
  壮麗な落慶大法要からわずか5年後のことであった。
 ようやく消防車が戻ってきたころには、中心伽藍は焼け落ち、六時堂(ろくじどう)の縁の下がくすぶり始めていた。
ただちに亀の池の水で消火され、六時堂以北の堂宇は焼失を免れた。
 しかしその間に唯一の国宝建造物であった東大門(図10:略)にも火の手が及び、消防隊が消火に当たったが、なすすべはなかったという。
中心伽藍と並んで四天王寺の象徴であった、桃山時代の絢爛な東大門もここに焼け落ちたのである。
 現在国宝となっている『四天王寺縁起』や扇面法華経冊子(せんめんほけきょうさっし)など二百余点の寺宝類は、このわずか数十m北の本坊倉庫内に保管されており無事であった。
まさに間一髪のところであった。
(『聖徳太子千四百年御聖忌記念出版 聖徳太子と四天王寺』編集:和宗総本山四天王寺 監修:石川知彦 法蔵館 2021年)

四天王寺の歴史」(和宗総本山 四天王寺)

五重塔の上まであがることができたので、狭くて急な階段をあがりました(;´Д`)
撮影禁止なので塔内から外の景色を写せなかったのが残念です(T_T)
 大阪市顕彰史跡第188号

安政地震津波碑(あんせいじしんつなみのひ)
安政元(1854)年11月4日・5日の両日に相次いで発生した安政東海地震と同南海地震による犠牲者を供養し、津波災害の状況を後世に伝えて警告するため、町人一同にによってその翌年秋、四天王寺に石碑が建立された。

現在、この石碑は無縁墓の最上段に置かれているが、もとは元三大師堂の池端に独立して立てられていた。
大阪を襲った大災害の記録として重要な意味をもっている。
(東面)
       諸国地震及洪浪
南無阿彌陀佛  
       水陸横死大菩提

(南面)
去年霜月四日五日の地震を遁ん為に小舩に乗居し輩俄の洪浪湧か如く
木津川口邊の大小舩一時に川上に押寄橋を落し舩を摧き漂没死人夥し
尤前日より海鳴潮の干満潮乱しをしらすして死に至る者寔憐むへし后世

(西面)
海鳴潮の干満みたれし時は早く津波の兆と知りて難をのかれ玉ふへしと云爾
安政二乙卯秋建之
 高橋多一郎父子墓

高橋多一郎は文化十年(1813)生まれ、水戸藩徳川斉昭に仕え、十五石五人扶持という小身の出自であるが性利発、抜刀術も良くし、徒士目付、祐筆、床机隊戦士等を務めていた。
安政の大獄の翌年、高橋ら水戸藩士は、薩摩藩の高崎五六らと組んで、大老井伊直弼の暗殺計画を立て、万延元年(1860)三月三日、十八名の浪士は江戸城桜田門外で直弼を襲い惨殺した。
その後、浪士は各地にて幕吏の厳しい詮議を受けることとなる。
高橋父子は四天王寺の塔頭の一つ、秋の坊の北隣にあった茶店春日屋まで逃げてくるが、もう駄目らしいと覚悟を決め、四天王寺の門内に入り、大黒堂の東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、後始末の費用にと六十二両を差し出し、祖先が武田信玄からもらったという貞宗の名刀を故郷へ届けるよう言い残し、時世を残し切腹した。
享年四十七歳であった。
父の死を見届けた庄左衞門はその時まだ十九歳であったが、父の後を追って自決した。
欣司兵衛が預かった金子で墓を建て、懇ろに葬ったのがこの墓である。
明治二十四年に多一郎は正四位、明治三十五年に正左衞門も従五位を贈られている。
(『大坂史蹟辞典』より抄出)
賓頭盧尊者さまの隣りにおられたのたは
「重軽文殊(おもかるもんじゅ)
重ければ知恵が授かり、願いが叶うそうですよ!
 ちえの輪くぐり
元三大師堂は智恵の殿堂です。
この輪をくぐりさらに大きな智恵をお受け下さいますよう合掌してご本尊元三大師のご真言「おんばらだはんどめいうん」と唱えてくぐりぬけて下さい。
四天王寺の後、向かったのが
愛染かつら
 縁結びの霊木


樹齢数百年といわれる巨大な桂の木に、ノウゼンカズラのツルが巻き付き、桂とカズラが一体となったその姿は、まるで男女が寄り添っているように見えるので、恋愛成就・夫婦和合の霊木として信仰されています。
この霊木の前に二人並んで立ち、を語り合った男女は、たとえ二人がどんな苦難にあろうと、やがて結ばれるという古い言い伝えがあります。
σ(^^;)の目的は……

<2>空襲の猛火に耐えた神木たち
1-①猛火に耐えた縁結びの霊木
 勝鬘院(しょうまんいん)の「愛染(あいぜん)かつら」
 このように天王寺区の西の端、上町台地の西の崖一帯は、大空襲で大きな被害に見舞われたところですが、いまではそんな歴史の事実はすっかり影をひそめてしまったようです。
しかし、よく注意して見ると、ところどころに空襲の爪あとが残っているのに気がつきます。
その一つが、大阪の夏祭りのはじまりを告げる「愛染まつり」で有名な勝鬘院の境内にある桂の木です。
 1937年から38年にかけて川口松太郎が恋愛小説『愛染かつら』を書き上げ、それをもとに映画が製作されて、その主題歌「旅の夜風」とともに、爆発的な人気を呼びました。
小説『愛染かつら』のヒントになったのは長野県上田市別所温泉にある北向観音堂の桂の木ですが、勝鬘院愛染堂の桂も、縁結びの霊木とされ、「愛染かつら」と呼ばれています。
(『大阪戦争モノ語り』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
 3月13日の大空襲で、勝鬘院の愛染堂と多宝塔は奇跡的に焼失をまぬがれましたが、それ以外の建物はすべて燃えてしまいました。
樹齢数百年の「愛染かつら」も焼け焦げてしまい、しばらくは痛々しい姿をさらし、枯れてしまうのかと心配されましたが、また元気になりました。
現在ではかずらがからみつき、あの空襲の猛火に耐えて生き残った木とは思えませんが、しかしれっきとして大空襲の生き証人なのです。
(『大阪戦争モノ語り』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
  多宝塔(国の重要文化財) 

 仏塔として建てられていましたが、天正4年(1576)織田信長の大坂石山本願寺攻めに際して、当寺に土塁が構築され「勝鬘の城」「勝鬘の塔」「天王寺城」と称され合戦の場となったため、多宝塔は焼失したと記録にあります。
その後、豊臣秀吉が文祿3年(1594)再建に着手し、慶長2年(1597)に棟上げされました。
また、大坂夏の陣の際には向城として当寺を拠点としたため戦禍に巻き込まれましたが多宝塔は兵火を免れ、現在に至っております。
 多宝塔の高さは約22.44メートル、上下二層から成り、下層は正方形で、上層は円筒、露盤相輪を冠するという一般的な形式ですが、その規模は多宝塔の中では比較的大きく、均衡の整った堂々たる風格を備えています。
また、下層には擬宝珠高欄を付した縁が巡らされ、中備えは三間とも蟇股でそれぞれに十二支が刻まれています。
明治40年(1907)5月27日に国宝に、その後、国の財政事情により昭和25年(1950)8月29日からは国の重要文化財に指定されています。
その美しい姿が定評を得ていたため、大正4年(1915)にサンフランシスコで開催された万国博覧会に日本建築の代表として当寺の多宝塔の模型が出品されています。
(『寺誌 愛染』愛染堂勝鬘院編 平成23年)
愛染坂
 その名のとおり、坂の下り口にある愛染堂勝鬘院から名付けられた。
愛染さんの夏祭り(6月30日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄3年)の建造物で、重要文化財と指定されている。
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりから夕焼けは今も美しい。
 大江神社

御祭神 
 豊受大神(とようけのおおかみ)
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
 欽明天皇(きんめいてんのう)
 大己貴命(おおなむちのみこと)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)

摂末社
 日吉稲荷神社
 羽呉神社
 大江護国神社(山口藩殉難諸士招魂碑)
  由 緒

当神社は、伝うる所によれば、上之宮、小儀(四天王寺東門外、北側)、土塔(南門外、東側)、河堀、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と称し、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られしものであると云う。
大江の社號は慶應3年この社地が大江岸(おおえきし)の続きとなるを以て時の祀官が斯く改称せしなりと云う。
 当社は、天王寺北村の産土神(うぶすながみ)にして祭社主神に豊受大神を祀り、稲荷神と同一神にて五縠豊穣、食糧保持の神であり、また明治40年神佛分離により本社へ合祀せられた東門外の元村社 小儀神社及び南門外の元村社 土塔神社の祭神 素戔鳴尊、元村社 上之宮の祭神 欽明天皇、大己貴命、少彦名命の何れをも祭神とする。
 上町台地の西端に沿う一帯は「夕陽ヶ丘」と呼ばれており、その昔、この台地のすぐそばまで海がせまり、西の海に夕日が沈みゆき、茜色に染まる空の美しさにいつしか「夕陽ヶ丘」と呼ばれるようになったと云う。
当境内には俳句碑があり、芭蕉の句としても有名である。

  主な御祭事

1月 1日 元旦祭
7月16日 夏祭り
10月16日 例祭(秋祭)
12月31日 大祓式

境内(大江神社)
 「俳句碑」文化14年(1817年)建立 

 この俳句碑は、松尾芭蕉(1644~1694年)が元禄7年(1694年)9月9日に大坂入りし、同月26日、当神社南隣にかつて存在した「料亭浮瀬(うかむせ)」にて句会を開いたことに因み、建立された。

 あかあかと 日はつれなく 秋の風  芭蕉
 よる夜中 見ても桜は 起きて居る  三津人
 網の子の 名にやあるらん 杜宇(ほととぎす)  千季
 春風の 夜は嵐に 敷れ鳧(けり)  暁臺

 平成25年10月  大江神社氏子総代会
この台座の上に何が建っていたのかな?
ネットで検索してもそれらしき記事をみつけることができなかった。
台座をグルッと巡ると書かれていたのかな?
大江神社の石段
上から見るだけにしました(^_-)
不動明王が睨んでいると思ったら
ドラえもんが微笑んでいました(^-^)
 四天王寺支院 真光院(しんこういん)寺誌抄 

 真光院の正式名は、光徳山(こうとくざん) 瑞雲寺(ずいうんじ) 真光院と申します。
四天王寺を本山とする支院の一つで、ご本尊は阿弥陀如来様、脇侍に如意輪観音菩薩様と地蔵菩薩様をお祀りしております。
 寺伝によりますと、我が国文化の大恩人である聖徳太子様が、御父君用明天皇のご冥福を祈るために七日間念仏三昧を修されたところ、西方教主の無量寿仏(阿弥陀如来)が出現されたことから、太子は自作の阿弥陀如来様をご安置になり、当院を開創されたといわれております。
この阿弥陀様は人々を救済する御仏として往古より拝されております。
 また如意輪観音菩薩様は俗に子安の観音様と称され、昔より妊婦が祈願すると苦しみ少なく安産であると伝えられます。
特に、印子(梵字)のお守りを頂戴してふところに入れて持っていると、計り知れないほどのご加護を受けると寺誌に記されております。
 さらに地蔵菩薩様は六万体地蔵尊と申しまして、心から礼拝供養する人々に七難即滅・七福即生の利益を与えたもう菩薩として永年にわたり法縁を授けられる御仏であります。
 幸い、今般この御仏とご結縁の各位には、何卒心から礼拝焼香され大いなる冥助をお受けいただくことを心から祈る次第であります。
天満橋駅に戻ってきてジュンク堂書店でブラブラ本を探した後
杵屋に入ってカレーうどんとご飯をいただきました。
店員さんが「おうどん(の量)普通がいいですか? 大盛りがいいですか?」と尋ねられたので
「普通でいいです。大盛りを食べられるならカツ丼付きの定食を頼みます」と返事すると
「そうですよね」と笑っておられた(^。^)

本を読んでいてちょっと寄ることにしたのが
JR京橋駅にある「大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑」

大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑 他」(総務省)
この記事よりも説明板が新しくなっていました。

 大阪大空襲
 京橋駅爆撃被災者慰霊碑


 太平洋戦争終戦前日の昭和28年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。
B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が数発、京橋駅に落ちた。
うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。
判明している被爆犠牲者は二百十名であるが、実際には五百名とも六百名とも言われている。
 当寺、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日に、自費で建立された慰霊碑である。

 納 経 塔

 戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月に慰霊碑の前で妙見閣寺によって行われているが、三十七回忌を機に写経による供養をと、遺族及び、当時駅で体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立された納経塔である。

 釈迦牟尼仏像と平和祈念像

 この惨事を後世に伝えるため、昭和59年に釈迦牟尼仏像と平和祈念像が建立された。
これは大阪城東ライオンズクラブが結成二十周年事業として寄贈したものである。

  空襲被災者慰霊祭世話人会
  大阪市城東区役所
  JR西日本京橋駅
 第四章 炎につつまれた五大都市 名古屋・大阪・神戸・横浜・川崎
ルメイに贈られた日本の勲章

 終戦から二十年近く経った昭和39年(1964)12月、日本政府はあるアメリカ陸軍の将官に勲一等旭日大綬章なる最高位の勲章を贈った。
綬章の理由は「航空自衛隊の育成に貢献した」からという。
時の総理大臣は佐藤栄作、防衛庁長官は小泉純也(小泉純一郎元首相の父)で、その軍人の名は、本書をお読みの読者なら脳裏にたたき込んだに違いない「カーチス・E・ルメイ」。
日本の都市を無差別焼夷爆撃で焼き払った、あの米第21爆撃軍の司令官だった男だ。
 ルメイ司令官の無差別爆撃は、昭和20年3月10日の東京に始まり、その後も日本中の大都市、中小都市に対して容赦ない無差別爆撃を行った。
ターゲットにされた街は次々と焦土化していったのである。
 昭和53年3月9日、NHKはドキュメンタリー番組『東京大空襲』を放映したが、その折、ルメイにインタビューを試みた。
プール付きの豪邸で余生を送っていたルメイは、NHKの取材に対して、
「戦争は遠い昔の話だ」
 と言って、インタビューを拒否した。
 かつて、自分が焼け野原にした国から贈られた勲章を、ルメイはどのような気持ちで受け取ったのだろうか……。
(『日本列島 空襲の記録』平塚柾緒編 講談社学術文庫 2025年)

肖像写真を見ていると、パレスチナの子どもたちなど民間人を皆殺しにしようとしているイスラエルの首相に似ていると思った。
当時、捕虜になっていたアメリカ兵たちは、米軍が助けに来てくれると信じていたと思う。
まさか原爆投下の犠牲になるとは夢にも思っていなかっただろう。
被爆死したアメリカ兵の認識票」(広島平和記念資料館)

ルメイもそうですが、勲章を贈った総理大臣たちに、日本軍兵士を消耗品としか見なかった帝国陸海軍首脳部、国民の生命よりも「国体護持」に固執した指導者たちと同じだと思ってしまう。

日本国憲法の誕生 第1章 戦争終結と憲法改正の始動」(国立国会図書館)

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    こちらは、お天気予報では雨ですが。。。
    昨日今日と雨が降りそうで降らない、
    パラつく程度の曇り空です。

    四天王寺さんへのお参り、お母様やご親戚の方もお会い出来て喜ばれていることでしょう。。

    実家のお墓参りは姉と明日に。。。
    少し遅れてですが、高松へは月末頃にと思っています。(#^.^#)

    今年は暑すぎて。。街歩きはなかなかだと思いましたが。。。
    Kazeさん、街歩きされたのですね。
    天王寺界隈は、好きな街です。
    天王寺七坂はいいですよね。
    Kazeさん、大江護国神社の狛犬、愛くるしいお顔です。
    最近、狛犬のお顔を拝顔するのも好きです。(#^.^#)

    結構歩かれたように思います。
    暑いさ中ですのでどうぞご自愛ください。

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    1. カイさんコメントありがとうございます(^^)/
      今朝もパラパラと降る程度の雨、
      ニュースを見ていると狭い日本なのに線状降水帯で被害が出ているのに
      新潟では少雨のため農作物に被害が出ています。
      つい最近まで大雨といえば集中豪雨という言葉で頻発していなかったのにと思います。

      >最近、狛犬のお顔を拝顔するのも好きです。(#^.^#)
      時々、親子の狛犬に出会うといっそうかわいいなと思います(^_^)b

      明日のお墓参り暑くなりすぎないように
      曇り空かほどほどの小雨だといいですね。
      まだまだ暑さが和らぎそうもないですが、天気予報を見ながら町歩きできるときに出かけたいなと思います(^_^)b

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