2024年3月1日金曜日

今日から3月

日差しは、春の暖かさなんですが
雲に隠れると冷たい風が吹いて冬に逆戻り…
今日から3月ですが、明治6年1月1日から新暦になるまでは2月30日がありました。
旧暦のあれこれ」(海上保安庁 海洋情報部)

2月30日
 文政4年(1821.4.2) 幕府、風邪流行により窮民29万7000人へ施銭(続実記)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

流行病」(天下大変 資料に見る江戸時代の災害 国立公文書館)
第二部 時代を映す病
 三 万病のもと風邪
 6 インフルエンザと愛称


 江戸時代の半ばになると、感冒がはやるたびに、その風邪の愛称をつけて呼んだ。
明和(めいわ)6年(1769)に流行した風邪は「稲葉風(いなばかぜ)」と呼んでいる。
 杉田玄白(すぎたげんぱく)は、このときの流行の様子を随筆『後見草(のちみぐさ)』に「九月になって感冒が流行し始めたが、はじめはそれほどのこともないだろうと思っていた。ところが、だんだん広がり、ついには巷を往来する人も絶え、将軍家の人々から大小名の屋形に宿直する人も稀(まれ)なるほどに煩ったたために、それぞれの大名家では厨房(ちゅうぼう)で、たくさんの薬を大量に煎(せん)じて、荷桶(におけ)や手桶などにいれて、病人の枕元にまで持っていき、病人に飲ませている。この病気はだんだんとうつり、佐渡越後の方まで及び、極老の人などこれで死んだ人がたくさん出た」と書いている。
世界では、それより2年前の1767年に大流行があった。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
 安永(あんえい)5年(1776)にも関西地方で風邪が流行したが、この風邪を「お駒風(こまかぜ)」と呼んだ。
それはそのとき大いにはやった浄瑠璃(じょうるり)が、城木屋お駒という妖婦(ようふ)が主人公であったからであった。
 相撲取りの名前がついたインフルエンザもあった。
天明(てんめい)4年(1784)に流行した「谷風(たにかぜ)」である。
無双の力士、横綱谷風梶之助(かじのすけ)は、自分が土俵の上で倒されることはない。
倒れるのは風邪をひいたときぐらいだと豪語していた。
その谷風が、いち早く風邪をひいて寝込んだので、このときの風邪に谷風の名前がついた。
それだけではない。
狂歌までできたのであった。
 この年の流行は、天明の飢饉(ききん)と重なったため、たくさんの死者が出た。
このとき世界では1781年から83年にかけてヨーロッパからロシア、インドにかけてインフルエンザが猛威をふるっていた。
 享和(きょうわ)2年(1802)のインフルエンザの流行は前年の暮れに長崎から始まり、オランダ人が持ち込んだという噂がたったが、この年の風邪には、「アンポン風(かぜ)」、「お七風(しちかぜ)」、「薩摩風(さつまかぜ)」とあだ名がついている。
前年にアンポンという漂流民が見つかったが、彼から始まったといって、「アンポン風」と呼んだのであった。
 このころ、長崎にいた伴蒿蹊(ばんこうけい)は「往年シャム人が渡り来たときから、風邪が流行したそうだ。こんどの風邪は長崎から九州を経て、ついに上方にまで及び、世間に広く広がった。京都は二月二十日ころから三月二十日余りまで流行して、この風邪にかからぬ家はない。近江(おうみ)にも同じように流行しているが、これは風邪に似ているが、一種の疫病である」といっている(『閑田耕筆』)。
 人々は風邪の流行が九州から北上することを知っていた。
それで薩摩風といったのである。
「お七風」は八百屋お七の小唄(こうた)がはやっていたころからついたのであった。
 このときの世界流行は1798年に北米に始まって、1801年までヨーロッパ、ロシア、アジアに広がっていたのである。
 文化(ぶんか)5年(1808)の流行は「ネンコロ風(かぜ)」といった。
このころ、ねんねんころころ節が巷にはやっていたからである。
このときの世界流行は1805年ごろから8年にかけてアジア、ヨーロッパ、北米に広がっていた。
 文政(ぶんせい)4年(1821)の流感は「ダンホウ風(かぜ)」といった。
このころ、武士の長髪が許された。
それをはやした「ダンホウ小唄」がはやっていたからである。
 文政10年は「津軽風(つがるかぜ)」といった。
その年、津軽候が御大礼のときに輿(こし)に乗って叱責(しっせき)されたことから「しそんずると輿に乗るという」といったのである。
庶民の葬儀で死者を乗せる道具を輿といったからであるが、それをひねって「津軽風」と呼んだのであった。
このときの世界流行は1826年から西半球で始まり、27年にはロシア、シベリアで流行していた。
なお翌年にシーボルト事件が起こっている。
 天保(てんぽう)3年(1832)の風邪を「琉球風(りゅうきゅうかぜ)」と呼んだ。
『武江年表』によると、「この年、琉球人が来朝せしより、琉球風といふ」とある。
世界流行は1830年から中国、南アジアで流行し、31年、32年にかけてロシア、ヨーロッパに広がっていた。
 安政(あんせい)元年(1854)はペリー再来航の年である。
神奈川沖にアメリカ軍艦が来たことで、この年の流感は「アメリカ風(かぜ)」と名づけられた。
1852年から5年にかけて世界各地にインフルエンザが流行していた。
 以上のように世界各地で繰り返し流行していたインフルエンザは、長崎から、薩摩から、対馬(つしま)から鎖国していた日本にも入り、国中で猛威をふるった。
鎖国していたはずの日本が世界とつながっていた証(あかし)である。

 …後略…
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
今朝の父の一枚です(^^)/
昨日、出会ったけどピントが合わなかったので残念がっていました。
でも、今朝はバッチリ(^_^)v
画像は、ジョウビタキの雄ですが

✤ヒヨドリの食性」つづき

 また、ヒヨドリの食性は、季節に応じた豊かなものである。
春には、ツバキ、ウメ、ソメイヨシノなどの花の蜜を吸う。
細くて長い嘴(くちばし)を花のなかにさし込んで蜜を吸い、額や嘴につけた花粉を運ぶ役割もある。
甘党のヒヨドリは、コップに入れた砂糖水やジュースも飲むし、輪切りにしたミカンも好んでつつく。
 そして、春から夏には、昆虫食の鳥となる。
東京のヒヨドリはセミ採りの名人でもある。
アブラゼミに襲いかかって飛び立たせ、空中でフライングキャッチするのだ。
ただし、カラスのようにセミを足で押さえつけて翅(はね)をむしりとるということができない。
嘴でくわえ直そうとする時に、セミに逃げられてこれを追いかけて再捕獲するという光景をよく見かける。
ヒナに運んでくるエサをみると、ヤモリや昆虫類をはじめ、ヤマモモなどの果実も混じっている。
…つづく…
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)