2024年3月21日木曜日

この寒さも…

暑さ寒さも彼岸までというけれど冬に逆戻り…
明日は、穏やかな天気になるとか
今まで暖かい日が続いたので河津桜やアンズが早く咲きました。
それだけに散るのもはやいですね…
昨日は「春分の日」でした。

 3 春分の日

 国民の祝日の一つで、3月21日または20日にあたる。
太陽が春分点を通過する日であり、日付はその前年の2月1日に、国立天文台が作成する『暦象年表(れきしょうねんぴょう)』に基づいて閣議で決定され、官報で発表される。
つまり、『暦象年表』の春分にあたる日が、国民の祝日の春分の日となる。
これは秋分の日も同様である。
春分の日は、昭和23年(1948)、国民の祝日に関する法律によって制定され、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨とする。
明治11年(1878)から昭和22年までは春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)といい、歴代天皇や皇族を祀る祭日であった。
(『知っておきたい 日本の年中行事事典』福田アジオ他著 吉川弘文館 2012年)
 4 春彼岸

 春分の日を中日(ちゅうにち)とし、前後三日ずつの合計7日間をいい、一日目を彼岸(ひがん)の入り、七日目を彼岸の明けという。
彼岸の入りは3月18日ごろ、中日が21日ごろ、彼岸の明けが24日ごろになる。
春分と秋分を中日とし、春と秋の二度、ほぼ同じ行事があるが、俳句の季語としては、単に彼岸といえば春彼岸を示し、秋彼岸と区別している。
また「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、気候の区切りの目安にもなっている。
 彼岸(仏教徒のかかわり)

 仏教では、生死流転(るてん)する此岸(しがん)から涅槃(ねはん)である彼岸に到るという意味での到(とう)彼岸のことをいう。
つまり、現世という迷いの岸から、悟りの岸へ渡ることであり、サンスクリット語ではパーラミター(波羅蜜多<はらみった>)という。
春分と秋分に彼岸会の法要を行うことについて、浄土宗では7世紀の唐の高祖善導大師(ぜんどうだいし)が、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日には、日想観(にっそうかん)という行方を行い、日没の場所である真西を極楽浄土(ごくらくじょうど)と観相(かんそう)すべきであると説いたことを典拠としている。
 仏教の色の強い行事であるが、中国やインドなどには見られず、日本独自の行事になっている。
『日本後紀』(792~833年の歴史書)や『延喜式(えんぎしき)』(927年に完成した法典)に旧暦二月、八月に7日間の法要が行われたことが記されているが、その法要を彼岸会(ひがんえ)とよんだかどうかは不明である。
浄土教が日本に広まった平安時代から、彼岸の法要は普及したものと思われる。
大阪の四天王寺(してんのうじ)の西門が極楽浄土の東門と向き合っているといわれ、彼岸には、西門から難波(なにわ)の海への落日を見る人々が集まった。
彼岸には太陽信仰と稲作に関わる民俗が見られ、仏教だけでは説明できない部分がある。
 ボタモチ

 彼岸には寺参りや墓参りをし、ボタモチやダンゴを供えた。
彼岸の食べ物について、神奈川県では「入りボタモチに明けダンゴ 中の中日アズキメシ」という。
このように彼岸の入り、中日、明けの三回、特定の食べ物を供えることは各地にみられ、特にボタモチは彼岸の食べ物としてひろく知られている。
 ボタモチはオハギともいい、どちらの呼称もひろく用いられている。
粳米(うるちごめ)と糯米(もちごめ)を混ぜて蒸(ふ)かし、少しつぶしたものを丸めて、小豆餡(あずきあん)をからめたものである。
俗説に、春彼岸には牡丹(ぼたん)の花になぞらえてボタモチ、秋彼岸には萩(はぎ)の花になぞらえてオハギとよぶとか、漉(こ)し餡のものをボタモチ、つぶし餡のものをオハギとよぶなどといわれている。
民俗学では宮田登がオハギとはハギの餅からきたものではないかと述べている。
 <日迎え・日送り>

 日本の民俗には、太陽信仰に結びついた行事はあまり見られない。
彼岸の中日に太陽を拝む習俗は、太陽にむすびついた数少ない行事である。
彼岸の中日に盥(たらい)の水に映った太陽を拝んだり、入り日を拝んだりすることは各地で見られた。
西日本では、朝、東へ歩いて行って日の出を迎え、午後は西へ向かって歩いて入り日を送ることがあり、これを日迎え・日送り、日の供(とも)などといった。
(『知っておきたい 日本の年中行事事典』福田アジオ他著 吉川弘文館 2012年)
第3章 公家の流儀、武家の暮らし
 砂糖渡来


 和菓子を大きく作り替えたのが17世紀ころの砂糖の普及である。
砂糖は、ブドウ糖1分子と果糖1分子がつながってできた糖である。
長崎に入った砂糖はその後まず大坂に運ばれたが、おそらくはほどなくして京都にも伝わったことだろう。
それまでの甘みは、果物やはちみつを別とすれば米などの穀類からできていたので、味噌や酒同様、米がなければできない食品だった。
いっぽう砂糖はというとサトウキビという植物から得られるもので、当時は100パーセント輸入品であった。
砂糖の普及は、甘みの外部化であった。
その後砂糖の国産化の動きもあり18世紀末には白砂糖も作られるようになったが、消費のほとんどは輸入品であった。
消費される砂糖の大半はいまもなお輸入品で、日本社会は甘みの外部化から抜け出していない。
(『京都の食文化 歴史と風土がはぐくんだ「美味しい街」』佐藤洋一郎 中公新書 2022年)
 さて京にやってきた砂糖だが、八百啓介(やおけいすけ)さんによると17世紀末の販売価格は1キログラムあたり1600円程度であった。
現在白砂糖は1キログラムあたり300~400円前後なので、その5倍強ということになる。
貴重品であったことは確かとしても「庶民には超高嶺の花で手が届かない」というほど高価ではなかったようだ(『砂糖の通った道―菓子から見た社会史』弦書房、2011)。
やがて砂糖は一般庶民の暮らしのなかに溶け込んでゆき、明治時代には消費は急拡大する。
  京で砂糖菓子が花開いたのは、やはり職人たちの努力があってのことである。
そのひとつが有平糖(あるへいとう)であった。
もともと南蛮菓子として16世紀にポルトガルから伝えられたものだが、その後改良が加えられ、細かな細工が施された高級な菓子として、ひな祭りの際や茶席に出されていたという。
 金平糖(こんぺいとう)もまた砂糖を主原料とする南蛮菓子のひとつで、核となるごく小さな粒子に、濃い糖蜜(とうみつ)をかけながら粒をしだいに大きくしてゆく。
核には、当初はケシの種子が使われた。
作業は熱した銅製の釜の上でおこなう(口絵:省略)。
京で金平糖を専門に作る「緑寿庵清水(りょくじゅあんしみず)」ではイラ粉と呼ばれる、蒸したもち米を砕いたうえ煎ったものを核に使う。
なお、いまはイラ粉としてデンプン質を固めたものを使用している。
完成には2週間かかるという。
それだけに金平糖は京でも高級砂糖菓子の位置づけであった。
大阪の企業がこの大量生産に成功したのは1903年(明治36年)であったという(野村卓<のむらたく>、当時大阪糖菓社長)。
(『京都の食文化 歴史と風土がはぐくんだ「美味しい街」』佐藤洋一郎 中公新書 2022年)

「緑寿庵清水」を訪ねたことがあります(2015年6月18日の記事
今朝の父の一枚です(^^)/
ヒヨドリが水を飲んでいたようです。

質問95 鳥の腎臓はどんな働きをしていますか?

[回答] 腎臓は左右一対あり、それぞれが三葉に分れ、各葉がまた小葉に分かれています。
腎臓の内部は細かく枝分かれした血管で満たされ、血管は動脈と静脈の毛管の微少なかたまりに分かれています。
そのかたまりの数はスズメ目の鳥で3万、ニワトリで20万とされています。
この数は体の大きさが同じ哺乳類のほとんど2倍にあたります。
 鳥は体内の水分を浄化し再利用するほとんど完全なしくみを持っています。
腎臓が体内の水分と塩分を調節しているのです。
腎臓はほとんど固形に近い尿酸を分泌し、消化管末端からの排出物とともに白っぽいグアノ(リン酸塩とチッソ物質に富んだ糞)を形成します。
腎臓で濾過された水分は総排泄孔の壁でほとんど再吸収されてしまいます。
 そういうわけで鳥にはぼうこうが必要ありません。
ぼうこうがあって水がいつもたくさんたまっていては飛翔にも不都合なわけです。
(『鳥についての300の質問 君が知りたいすべてに答える』A.クリュックシァンク H.クリュックシァンク著 青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 1982年)