2024年3月29日金曜日

雨の後

昨夜からの雨が止んでくれました。
風も吹いていたのでヒカンザクラが……
風が強かったのですがあまり寒さを感じませんでした。
大阪は被害がなかったと思いますが

29日昼過ぎにかけ雷伴った激しい雨も 土砂災害に厳重警戒を」(静岡NHK)
レンゲがポツポツ咲き出しました。
朝ドラ「ブギウギ」が終わりましたね…
ブギウギを見ながらいっぱい調べたいことのヒントをもらいました。
2023年11月2日の記事で紹介した「げんげ摘も

趣里さんでなければ福来スズ子をあれほど演じ、歌い、踊ることはできなかったと思います。

「あまちゃん」も手掛けた振付家が語る「趣里さんは踊りで芝居ができる人」……〟(Yahoo!ニュース 3月28日)

「ブギウギ」歌手・福来スズ子の華麗なるステージ衣装を振り返る!〟(ステラnet 3月22日)

「『ブギウギ』は、いろいろな人の笑顔がたくさんあるドラマにしたいと思っていました」……〟(ステラnet 3月29日)
笠置シヅ子の後援会会長をつとめたのが、戦後初、東大の総長となった南原繁。
(「南原繁(なんばらしげる)」国立国会図書館)

 長崎家の人たち

 …前略…

 亀井家といえば、笠置シヅ子こと本名亀井シヅさんは、この町の同じ亀井一門の養女である。
養母が亡くなったのち、戦後しばらく東京の笠置家に行っていた養父はやはり郷里がよいのか、ずっと弘田町に住んでいるのだが、私の発病のとき早々見舞ってくれた。
(『人間の記録70 南原繁 ふるさと』日本図書センター 1998年)
シヅ子さんの実父は三谷陳平といい、私と同じに相生村の、そして私の家からさほど遠くない、長屋門のある地主に一人息子であった。
私とは小学校一年下の同窓生で、それから電信学校に入った。
その時代よく夏休みにはいっしょに海水浴などにゆき遊んだものである。
弘田の郵便局に勤めていたが、二十四、五歳でシヅ子さんが生まれて間もなく死去した。
そのとき家庭の事情があって弘田町の亀井家に養女となったのであるが、その亀井家が幾年ならずして大阪に引越し、そこで成人するとともに、彼女の新しい生涯がはじまったのである。
生家は陳平君の死後、妹が養子を迎えて後をつぎ、その娘が同村の坂元からまた養子を迎えたのが、現在の当主三谷明男君である。
彼は農業のほかに建築の請負もし、門は昔のままであるが、母屋は建て替えたとのことである。
 数年まえ上京した折、国際劇場にはいったとき、はからずも笠置シヅ子が歌っているので、息も詰まる思いで聴き入った。
よっぽど自分を名乗って楽屋(がくや)を訪(たず)ねようかと考えたが、遠慮して帰ったという。
いつでも笠置シヅ子の番組があるときには、ラジオは欠かさず聴いていると言っていた。
三谷明男君は、町村合併後、現に弘田町議会の若い議員である。
(『人間の記録70 南原繁 ふるさと』日本図書センター 1998年)
笠置シヅ子の自伝より1948年に書かれた箇所を転記しますφ(.. )
(歌詞は、省略しています)

明るい二人三脚(涙を越えて)
 愛のブギウギ(因縁物語の四)


 …前略…

 この五月十九日はエイスケさんの一周忌、その法要の日、私は宝塚沿線服部墓地の墓標に額(ぬか)づいて深い祈りを捧げました。
(『笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記』宝島社 2023年)
 虫気もなしに、ヱイ子が元気に育っているのも、私が以前にも増して舞台に映画にラジオにレコードに多彩な活躍が出来るようになったのもみんなエイスケさんが天国で私たち母子の幸せを守ってくれているからだと思っています。
広い世間に、たった二人だけの母子暮らしですが、眼に見えない力が私たちを支えていてくれると思うと少しの淋しさも心細さも感じません。
この子が生まれた時もエイスケさんは人魂となってわが家に帰り、この子が熱を出した時も夢枕に立って抱いてくれました。
  あなたが、ほほえむ時は わたしも楽し
  (歌詞省略 趣里さんの「ヘイヘイブギー」

 私が歌うとヱイ子はもうこのごろ紅葉のような手を振って踊り出します。

「ヘイヘイブギー」は男女の青春を謳(うた)ったものですが、私はそれをいつも母子の平和と幸福を籠めて歌っていたのです。
 ヱイ子さえほほえんでいれば、どんなに仕事が忙しくも。
生活が煩わしくても私は楽しい。
ラッキー・カム・カムです。
 思えば、私の生い立ちによく似たヱイ子ではありますが、木の股から生まれたように一人ぼッちの私とちがって、ヱイ子は、れッきとした名家の祖母もあれば叔父たちもついております。
私に万一のことがあっても、再び私を昔に返したような、やるせない淋しい暗夜行路に行き暮れることはないでしょう。
天国にあるこの子の父に、なおこの上とも、この子のつつがなき行く末を祈るとともに、この世の温かき情けに、深く感謝して、この蕪雑なる一文を終わろうと存じます。
 (ヱイこの初の誕生日、六月一日擱筆)
(『笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記』宝島社 2023年)

芸名は「三笠静子」(昭和2年)で初舞台。
昭和10年に「笠置シ子」に改名。
歌手を止めたときに「笠置シ子」(昭和43年)と改名しています。
4月1日から始まる朝ドラ「虎に翼」のモデルになる三淵嘉子と笠置シヅ子は、
ともに大正3年(1914年)生まれ。
笠置シヅ子が8月25日生まれ。
三淵嘉子は

[第二章]三淵嘉子―初の、女性の裁判所長
 <南の楽園>


 …前略…
……嘉子が生まれた(大正3年〔1914年〕11月13日)。
 新嘉坡(シンガポール)で生まれたので、嘉子という名前です。
…後略…
(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』佐賀千惠美 日本評論社 2023年)

三淵嘉子が亡くなったのは1984(昭和59)年5月28日、享年69歳
笠置シヅ子が亡くなったのが1985(昭和60年)3月30日で明日が命日です。
同じ時代に生まれ、生きた二人の人生が朝ドラで描かれるのも不思議な感じがします。

そしてTOMOKO  HATTORIさんが

そして明日は笠置シヅ子さんのご命日なんです。
服部良一の誕生日翌日にスタートして笠置シヅ子さんのご命日前日に最終回。
すごい巡り合わせ。

ブギウギ最終回!!」(boogie1219)
今朝の父の一枚です(^^)/
メジロが警戒していますね。
野鳥を写そうと思ってもすぐに気づかれます。
それは視覚だけでなく聴覚が鋭いからです。
でも、耳がどこにあるのだろうと思いませんか?
鳥に耳はあるの」(学研キッズネット)

第4章 鳥の五感、鳥が感じる世界
 2 鳥にとって重要な感覚は「視覚」、そして「聴覚」

…つづき…

 また一方で、鳥にとっては、耳に入る「音」や「声」も、とても重要です。
 危険を察した鳥は「警戒音」と呼ばれる鋭い悲鳴をあげますが、それが他種の警戒音であっても、脳は瞬時に反応して、危機回避をしようとします。
 雛が親の声を、親が雛の声をおぼえる事例もたくさんあります。
さえずる鳥、鳴禽類のメスが伴侶選びの際に、声がよく、歌が上手にうたえるオスや、自分好み(!)の歌を聞かせてくれたオスをつがい相手に選ぶことも、よく知られた事実です。
 もちろん鳥にも味覚や嗅覚があって、鳥は鳥なりに、身に備わった五感をフル活用した生活を送っていますが、多くの鳥にとってより重要な感覚は、やはり視覚と聴覚になります。
…後略…
(『鳥を識る なぜ鳥と人間は似ているのか』細川博昭 春秋社 2016年)