2024年3月24日日曜日

雨時々止む

天気予報を見ると「雨時々止む」となっていました。
予報通り、歩いていると雨が降ったり止んだり
ソメイヨシノのつぼみも膨らんでいました。
開花はでもうじきかな?

ワシントンで桜祭り 100年以上前“東京市長”が贈った桜が満開」(NHK)
父は、南方より帰還した復員兵が持ち込んだマラリアに感染しました。
蚊が媒介する感染症には


終戦後のニュース映像に

発疹チフス退治にDDT散布<時の話題>」(NHKアーカイブス 1946年)

『しらみ』のさばる 東京・横浜<時の話題>」(NHKアーカイブス 1950年)
 「DDT革命」―GHQの公衆衛生政策

 1945年8月15日の敗戦の日、約660万人の軍人軍属、一般人が海外に在留していた。
敗戦による社会情勢の悪化、医薬品・器具の不足。
伝染病発生池からの引き揚げなどの事態は日本にとっても、占領政策を実行しようとする連合国にとっても憂慮すべきものであった。
同年9月22日GHQ(連合軍総司令部)から日本政府に対して「公衆衛生対策ニ関スル件」の覚書(全9項)が出された。
(『戦後科学技術の社会史』中山茂 吉岡斉編著 朝日選書 1994年)
 これは敗戦後の日本が早急に実施すべき衛生行政の方向を示した最初のものであった。
第6項には「米海軍ト協力シ海港検疫ヲナスベシ、海港検疫ハ日本軍以外ノ管理ニ依リ設置セラルベシ」とあった。
 そのため政府は、厚生省衛生局に臨時検疫課を設け対応することにした。
また、46年には約20年ぶりのコレラの大流行が起こり、さらに発疹チフス、疱瘡、その他の伝染病も多発し、日本脳炎の流行も見られた。
 引き揚げ検疫とDDT

 GHQが全日本人にDDTを散布する計画を発表したのは1946年3月7日のことであった。
引き揚げ検疫を含むDDT散布に必要な医療物資は米軍より調達された。
 同月には引き揚げ港に一つであった浦賀に次のような物品が陸送されている。
脱脂綿1万1735ポンド(約5300キログラム)、10ミリリットルの注射筒6350個、20ミリリットルの発疹チフス予防液2万5000瓶、DDT46万5000ポンド(約20万キログラム)。
 この月、東京都のDDT散布班とワクチン注射班は発疹チフス、天然痘一掃のため品川、蒲田、世田谷方面に出動していた。
蚊の駆除に米国陸軍機を使った空中散布も実施された。
 46年4月には引き揚げ船内でコレラ患者が発見され、このようなコレラ汚染船が引き揚げ港へ来航するようになった。
そのため、GHQは出港時、船内、上陸港でDDT消毒、チフスワクチン接種、糞尿処理を徹底し、コレラ汚染船を浦賀、佐世保に集結させ乗船隔離を行った。
一時は7万人を超える引揚げ者が海上隔離されていたという。
引き揚げ船が入港すると検疫官が臨船検疫を行い安全が確認された場合のみ入港を許可し乗船者を上陸させ、さらに検診所で精密検査を行った(『厚生省五十年史』1989)。
 こうした努力の結果、46年に全国で約3万2000人いた真性発疹チフス患者が翌年には2500人に激減した。
この威力を発揮したDDTはスイス・バーゼルのガイギー社P・ミューラー(48年ノーベル生理学・医学賞受賞)らが44年に殺虫効果を発見し日本でも戦時中から研究されていた。
 47年には前年から試作していた日本曹達が国内生産を開始、同じころ日瑞貿易が、ガイギー社と特許実施契約を結んでいた。
このDDTは40年代末から生体内に入ると分解されにくく体内に残留してしまううえ、植物連鎖を通じて濃縮されていくことが報告されていた。
71年に農薬や殺虫剤としての販売が禁止され、81年には製造、販売、使用が禁止された。
 ペニシリンと製薬業

 一方、DDT散布に象徴される伝染病の予防とあわせて、抗生物質ペニシリンの普及は各種感染症の特効薬として多くの生命を救った。
 ペニシリン自体は1928年、英国の医学者A・フレミングが発見し、39年には病理学者H・W・フローリー、化学者E・B・チェインらの研究グループ(三人は45年ノーベル生理学・医学賞受賞)により粉末として精製され、英米の共同戦時研究として大量生産が試みられていた。
そして、日本では44年1月、チャーチル首相がペニシリンで命拾いをしたという外電を契機に、同月陸軍軍医学校で稲垣克彦軍医少佐を中心に「碧素(当時はこのように呼んだ)委員会」が発足した。
悪戦苦闘であったが、11月には森永、萬有製薬両社で製造を始め翌月には軍医学校に納入されるまでになった。
 敗戦後は46年8月に上野精養軒で業界団体「日本ペニシリン協会」が設立され、その直後に研究者組織として「日本ペニシリン学術協会」も設立された。
また11月には米国のペニシリン研究の権威、J・W・フォスターが来日し、ペニシリンの製法や処方についての技術指導を厚生省講堂で行った。
 こうしてペニシリンの製造が本格的に開始されたものの一時は需要が追いつかず注射液に破格のヤミ値までついた。
46年10月に制定された「臨時物資需給調整法」により物資統制が行われていたが、GHQ公衆衛生福祉局(PHW)では日本の衛生事情改善の一環としてペニシリン生産を最重要課題とし、原材料、石炭、電力、輸送、資金融資などの割り当てを優先した。
 ペニシリンの販売は47年、「医薬品等配給規則」に基づいて行われたが、翌年には撤廃され生産、販売競争が激化していった。
そして、製法も、当初の数リットル程度のビンを使った表面培養法で製造していたものが、フォスターの技術指導を受けトン単位のタンクで米国と同様な深部培養が行われるようになった。
これが、量産体制のきっかけになったのである。
50年にはペニシリンに健康保険が適用された。
 ペニシリンをはじめとする抗生物質の生産体制は新技術の導入とともに製薬業の成長を促進させた。
国産ペニシリンは朝鮮戦争時に米軍で使用されるほど質、量ともに充実し戦後の輸出医薬品の第一号になったのである。
 駅、街頭はもとより職場、学校、宿泊施設などで頭からふりかけられたDDTの粉末を占領軍から受けた最大の屈辱と感じた人も多かった。
 C・サムス大佐率いるGHQ公衆衛生福祉局の「DDT革命」と呼ばれる政策には、予防接種、結核予防法の改正、栄養改善、保健所の改組、伝染病・死亡・出産等各種統計の整備、病院改革、医師、看護婦、助産婦教育および国家試験、赤十字改革、医薬品製造の技術指導、検定法の整備などが含まれ、これらは戦後日本の公衆衛生や医療の改善に大きな貢献をしたとともに医薬品産業進展の基盤にもなったのであった。
  (溝口元 立正大学)
(『戦後科学技術の社会史』中山茂 吉岡斉編著 朝日選書 1994年)

出まわるかペニシリン」(NHKアーカイブス 1948年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カワセミに出会えて喜んでいました!
二羽の間が離れていますが、つがいのようです。

 カワセミ
  将来を見据えたメスは オスをプレゼントで品定め


 オス(男性)がメス(女性)にプレゼントを贈るということは人に限らず、動物でもよく見られる行動です。
繁殖期のカワセミのオスは、メスに気に入ってもらうためにエサをとってきて、メスにプレゼントします。
このような行動を、動物学的には「求愛給餌」といいます。
 プレゼントの質は、メスにとっては重要です。
まともなエサをとれない頼りないオスでは子育てに失敗してしまう可能性もあります。
メスはオスに子育ての能力があるかなどの品定めをし、気に入ったらプレゼントを受け取り、つがいが成立します。
オスはメスに気に入ってもらうために苦労してエサをとってきますが、メスも自身と子どもの運命がかかっていますから、冷たくあしらってしまうこともあります。
 なおカワセミといえば、キレイな川にしかすめないと誤解されがちですが、近年は都市部のドブ川でもよく見られるようになっています。
カワセミは都市化に適応した鳥の一種なのです。
ドブ川では外来魚やアメリカザリガニなどをとり、排水穴の奥で繁殖している例もあります。
通称「水辺の宝石」のカワセミは高嶺(たかね)の花ではなく、今は意外と身近な鳥なのです。
(『身近な「鳥」の生きざま事典』一日一種著 SBクリエイティブ 2021年)