2024年3月22日金曜日

穏やかな天気

天気予報通り穏やかな朝でした。
ハナノキも咲き出しましたし道端にはクサイチゴの白い花が咲いていました。
朝ドラ「ブギウギ」第25週「ズキズキするわ」 (121)

水城アユミ(吉柳咲良)の「ラッパと娘」よかったですね(^_^)v
ラッパと娘は、スズ子が羽鳥善一と出会った最初のジャズ
そして機会あるごとに歌われてきました。
面白いなと思ったのは、台所でスズ子が料理を作りながら歌ったり
蒲団を叩きながら歌っていると愛助が参加する場面など…
そして昨日は、大野さんが楽しそうに青森弁?で歌っていました。
白いかっぽう着が似合う曲だなとも思いました(^_-)

1956(昭和31)年第7回NHK紅白歌合戦
笠置シヅ子が大トリで歌った曲が「ヘイヘイブギー」(趣里さんのバージョン)。
(この年、美空ひばりは出場していません)
「福来」という芸名は、「ヘイヘイブギー」の歌詞からも名づけられたのかな?

水城アユミのモデルについて、私的には三人娘をうまく塩梅しているように思います。
美空ひばりについては、SNSでよく見かけたので
後の二人について服部良一さんの著書より転記しますφ(.. )
 戦後のジャズ・ポップス界

 …前略…

 江利チエミと初めて接したのは、24年7月の有楽座公演のときであった。
チエミは、ひばり、雪村いづみと同じ年で、当時、12歳。
ぼくが音楽を担当したエノケン・笠置の『お染久松』と、もう一本『あゝ世は夢か幻か』のほうに、エノケン・笠置の子供の役で出演し、舞台でブギを歌った。
日劇のひばりのような派手な演技ではなかったためか、反響は今一つであった。
(『ぼくの音楽人生  エピソードでつづる 和製ジャズ・ソング史』服部良一 日本文芸社 2023年)
 チエミちゃんの父親の久保益雄氏、かつてはぼくと同様、劇場のボックスでピアノやクラリネットを吹いていたミュージシャンであり、母親の谷崎歳子さんは東京少女歌劇団出身の女優である。
 このとき久保さんのあいさつは、
「この子は、カタコトをしゃべり始めたころから、母親の腰ひもを鴨居(かもい)にぶらさげましてね、カメの子だわしを結びつけて、それをマイクがわりに笠置シヅ子さんのマネばかりしてましたよ」
 であった。
笠置シヅ子が『ラッパと娘』や『センチメンタル・ダイナ』を歌っていたころからのファンだったというわけだ。
 そのころ、銀座に『銀馬車』というフロリダの津田又太郎さんが経営していたナイトクラブがあった。
バンドは与田輝雄(サックス)をリーダーとした、フランキー堺(ドラムス)、秋吉敏子(ピアノ)、松本文男(トランペット)らのシックス・レモンズで、ぼくは終戦後のジャズの傾向を研究するため毎夜のように通っていた。
 ある日、昼間ダンスパーティーがあって『銀馬車』へ入ったら、ちょうどチエミが舞台で歌っていた。
オヤジさんが、
「この子のブギをぜひ聞いてやってください。この前よりはずっとうまくなっているはずです」
 といい、チエミに『東京ブギ』や『ヘイヘイブギ』を歌わせた。
 なるほど、有楽座のときとはちがって、ビートがあり、子供の声から脱して巧みなフィーリングを身につけていた。
チエミは小学校の六年生のころから進駐軍のキャンプ回りをしている。
 キングとの契約の話もあるが。
ぜひチエミのために新しい曲を書いてくれと頼まれた。
 さいわい、それから間もなくキングで吹き込んだ『テネシー・ワルツ』が大ヒットした。
続いて『ツー・ヤング』や『ビブデ・バビデ・ブー』『カモンナ・マイハウス』とますますレパートリーをひろげ、独特の個性のある歌をレコードに吹き込んだ。
 その後、アメリカへ行き、帰国したチエミはジャズ・フィーリングに格段の進歩をみせ、ことに黒人唱法を身につけて他の追随を許さない実力を示すようになった。
 彼女も日本のジャズ・ポップス界に一時代を画した歌手であり、多彩なエンターテーナーであったが、思いがけない不幸な死を遂げてしまった。
 三人娘の最後は、雪村いづみ。
 彼女のデビュー盤『思い出のワルツ』は、チエミが渡米してる間にヒットした。
歌手でも俳優でもちょっと旅行したり、病気になったりすると、そのチャンスに彗星(すいせい)のように新人が登場する。
しかもS・ブロセンの『思い出のワルツ』は、チエミも帰国したら吹き込むつもりで本場のアメリカで練習していた曲だったというから油断もすきもないというものだ。
 そのヒット中であろう、ぼくは大阪駅の夜のプラットホームでビクターの今村氏にいづみちゃんを紹介されたのを覚えている。
おさげ髪の、ヒョロヒョロのカラスみたいな小娘という印象をうけた。
 雪村いづみの名付け親は小林一三で、本名は朝日奈知(とも)子、通称トンコ。
父親は昭和12年ごろ、コロムビアの専属だったヒロ・カレジアンス(スチール岡見如雪、ギター平沢信一、ウクレレ岡見清直、富永卓治、バス小原重徳)の主宰者だった。
 チエミは母親を亡くしたが、いづみは父親と死別しており、母親が腸結核で入院すると、一家は15歳のトンコが働いて収入を得なければならなかった。
 コロンビアのドラム田中和男の紹介で、試みにダンスホールで歌った「ビコーズ・オブ・ユー」の評判がよく、日劇ミュージックホールの丸尾長顕に認められて出演のチャンスを得た。
 当時、チエミが『テネシー・ワルツ』で一躍大スターになって進駐軍回りの歌手に困っていたころだ。
木倉マネージャーがいづみと契約し、月5万円の保証で一家の生活は救われた。
キャンプのステージに立っても、最初はレパートリーがなく、毎回同じ『ビコーズ・オブ・ユー』とアンコールに『支那の夜』を歌うだけだった。
 ビクターへ入った動機は、トンコが毎日のように行く日劇の喫茶店『エルデー』に吉田正、多忠修、磯部ディレクターらのビクターのスタッフも常連として現われていたことによる。
ある夜、トンコと一緒に帰る途中、自動車の中でルノーのエンジンの音に負けないような大声を張りあげて歌い出すのを聞いて、多忠修が気に入り、折りからアメリカで流行っていた『思い出のワルツ』をトンコ用に編曲して歌わせた。
 ビクターの幹部に、磯部ディレクターとともに推薦したが、どうも草葉ひかる以来、子供の歌手では頭を痛めていて乗り気ではない。
そこで、ゲイスターズの演奏で『思い出のワルツ』をアセテート盤で録音し、営業関係の試聴会の後で、
「実は、こんな新人がいるんですが」
 と聴かせたら、アッという間に六千枚の予約があった。
驚いた今村文芸部長が六千枚だけプレスしようと決裁して、発売の運びとなった。
結局、新人雪村いづみの『思い出のワルツ』は、当時としては空前の百五十万枚の売り上げを記録することになる。
 吹き込みのころ、日劇の『ジャズ・パレード』に出演して、ゲイスターズと『思い出のワルツ』『ジャンバラヤ』を歌い、一緒に出た先輩の歌手たちを完全に食ってしまったことも語り草として残っている。
 その年の秋には新東宝で『ジャズ娘乾杯』に出演して映画にも進出、『ジャンケン娘』では、ひばり、チエミ、いづみ、の三人娘が共演し、以後、レコードにステージに映画に三人娘の時代が続く。 
 この中で、アメリカ生活の長い雪村いづみが、今日に至るまでジャズ・ポップス界のトップ・シンガーの地位を保っていることは誰しも認めるところである。
(『ぼくの音楽人生  エピソードでつづる 和製ジャズ・ソング史』服部良一 日本文芸社 2023年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ジョウビタキ♂が朝ご飯を探していたみたいです。

質問34 多くの小鳥はどうして波形を描いて飛んでいくのでしょうか?

回答]ふつう小さく軽いスズメ目の鳥は、波状の上下動の飛び方をします。
合衆国の牧場や畑地ではゴシキヒワがこのような飛び方―ローラーコースターファッション―でいったりきたりしているのがふつうに見られます。
鳥はまずはげしくはばたいて上昇しています。
そこでそれまでの運動量を利用して滑空に移り下降します。
この両者のすばやいくりかえしで波形の飛跡ができあがります。
大型の鳥に比べて小さく軽い鳥の場合、前面の空気抵抗が比較的大きいので、滑空時にはほとんど翼をたたんで空中を下降することによって、エネルギーの損失を防ぐことができると考えられます。 
(『鳥についての300の質問 君が知りたいすべてに答える』A.クリュックシァンク H.クリュックシァンク著 青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 1982年)