2023年11月7日火曜日

雨は止んだけど

夜中に「竜巻注意情報」のメールが届きました。
父によると雷がなっていたようです(両方とも気がつかなかった(^^ゞ…)。
今朝は、雨は止んだのですが、強い風が吹いていて寒いくらいでした。

北海道で記録的大雨 東・北日本で大気不安定 暴風高波など警戒」(NHK)
昨日の朝ドラ「ブギウギ」の最後にスズ子が眠れないので
美月を誘ってセッセッセーを始めたのですが
知らない歌詞がでてきました。
朝ドラ「ブギウギ」公式のInstagram

眠れない夜はせっせっせー👏
耳なじみのないせっせっせーは、昔の大阪のわらべ歌です。
大阪・船場での生活を記録した文献を参考に、当時の大阪で歌われていただろう数え歌の復活を試みました。

覚えるために練習中のお二人😆
地方によっていろいろなせっせっせーがあるようです。

 たいのこたいのこ <手合せ唄> 〔愛知〕

セッセッセ パラリコセ
一つ 雛(ひよこ)(*1)(もみ)(く)うて たいのこたいのこ
二つ 船(ふね)には船頭(せんど)さんが たいのこたいのこ
三つ 店(みせ)には番頭さんが たいのこたいのこ
四つ (*2)与兵衛(よへえ)さんお使いして たいのこたいのこ
五つ (*3)医者どの療治(りょじ)して たいのこたいのこ
六つ 昔は(*4)丁髷結(ちょんまげい)って たいのこたいのこ
七つ (*5)泣き虫蜂(はち)に食(く)われて たいのこたいのこ
八つ (*6)山ではコンコンさんが たいのこたいのこ
九つ 乞食(こじき)がお椀(わん)持って たいのこたいのこ
十(で)殿様御馬(とのさまおんま)に乗って (*7)たいのこたいのこ
(『わらべうた』町田嘉章、浅野 建二編 ワイド版岩波文庫 1993年)
たいのこたいのこ
 「おっくんさん」などと同じく三河の海岸地方の唄。
数え歌形式のものとして関東から以西の西日本一帯に広く分布する。
千葉県野田市地方の表情遊戯唄、京都市の物まね遊び唄、福井・大阪・鳥取・広島・徳島地方の手合せ唄、山口県祝島・大分県国東郡地方の遊戯唄、対馬の手毬唄等、同系の唄も多い。
お正月になると、今でも子供達に愛唱されている。
方法〕これも数人で円く輪になって、いろんな手真似や仕草をまじえながら歌うもので、数え歌の一から十までで一通りの仕草が終る。
*1 「豆を食って、さいのこさいのこ」とも。「豆食ってサイノコサイ」(千葉)。「ごんべら食って、たいらくないない」(三重)。「ままくてたいらかねんねん」(京都・山口)。「米の虫たやくねんね」(大阪)。「まま食うて平らかね」(広島)。「米のめしタイノコタイノコ」(徳島)。「豆食うて、さいしょこないない」(対馬)。タイノコタイノコは語義未詳。一説に賽コロの意かと。
*2 
「横浜異人さんが」とも。或は「横浜別嬪(郵便)さんが」(千葉・徳島)・「嫁さんが簪さして」(大分)など。
*3
 「医者には薬箱」・「池には金魚さんが」とも。「医者さんが薬持って」(三重・大分・対馬)。
*4 「鎧着て」とも。
*5 「泣き味噌ひねりもち」とも。
*6 「山伏ほら貝を」(徳島)
*7 ハイドウドウ(広島)。
(『わらべうた』町田嘉章、浅野 建二編 ワイド版岩波文庫 1993年)
朝日新聞鷲田清一「折々のことば」

民族間の紛争といった、部分システム間の摩擦を解決する大原理というものを人類はまだ発見していない
       梅棹忠夫
 
 地球の一体化が濁流のように進む一方、諸民族は国家としての自立を求めて分岐してゆく。
だが相互の衝突を回避できる普遍的原理は未(いま)だ見いだせていないと、文化人類学者は1979年の講演で述べた。
とにかくひたすら話しあいを重ね、火種をもみ消すほかないと。
以後、世界にどれだけの血が流れたか。
『二十一世紀の人類像』から。
2023・10・31
 国際紛争の理解のために
  紛争解決の原理


 一見、地球の一体化がすすむようにみえて、しかし内容が分裂また分裂と、諸民族の実体的独立というところへすすんでゆく。
このふたつはひじょうに矛盾するようにみえますが、盾(たて)の両面なのです。
この傾向がわたしはまだまだすすむとみております。
民族学者としてみた場合、とうてい地球上の諸民族が自己主張を放棄するとはかんがえられません。
ますますつよくなるであろう。
民族国家への分裂が進行します。
 おそらく21世紀前半は、そういう意味で、文化も民族も実質的な民族国家への分裂の時代へはいるであろう。
きわめて複雑なことになってゆくでしょう。
(『二十一世紀の人類像―民族問題を考える―』梅棹忠夫 講談社学術文庫 1991年)
 それでは大国はどうなるか。
アメリカのようにあたらしい国、これも問題はありますが、これは別として、たとえばソ連邦なども、いたるところで紛争がおこります。
その紛争がすべて世界に波及してゆく。
たいへんざんねんなことですが、20世紀のおわりから21世紀の前半にかけては、大紛争時代なのです。
ひとつの紛争の火をけすと、またこっちに火がつく。
それをつぎからつぎへとしずめてゆくしかない。
これ以外にどうにも手はないのです。
それをいっきょに解決する大原理というものは、まだひとつもあらわれていません。
 ある意味で、宗教というのはそういうものの部分システム間のトラブルをかたづける、大原理であったわけです。
たとえば、むかしのイスラーム帝国のあった時代には、帝国の支配地域はすべてイスラーム教でむすばれていました。
あるいは中国やインドもそうです。
帝国がそれぞれ、儒教とか、ヒンドゥー教といった、ひとつの人間世界における大原理でもっておさめられていた。
 ところが今日では、それらの大原理でかたがつかなくなってきた。
どんな上等の宗教でも世界をひとつにむすびつける力がないということがはっきりしてきた。
 それででてきたさまざまな試行錯誤のひとつがイデオロギーであります。
ある意味で社会主義というものは、まさに宗教にかわる役わりのものとしてでてきたわけでありますが、それもみごとに失敗のようです。
社会主義に対する諸民族、民衆の期待といものが依然としてひじょうにおおきいのですが、おそらくこれでは解決できないでしょう。
社会主義が民族主義をのりこえることは不可能かとおもいます。
このことは、最近の東ヨーロッパにおける例、あるいは東南アジアにおける例でもあきらかなことです。
 民族間の紛争を解決するには、もっとべつの原理が必要です。
それはなんでしょうか。
わたしはそういうものは存在しないとおもいます。
これをのりこえる原理はありません。
紛争をさけるには、とにかくたえざるはなしあいしかありません。
会議をひらいてとりあえず火種をもみかすしか仕かたないのです。
たいへんなさけないことですが、民族間の紛争といった、部分システム間の摩擦を解決する大原理というものを人類はまだ発見していない、というのがわたしの現在の見かたであります。
(『二十一世紀の人類像―民族問題を考える―』梅棹忠夫 講談社学術文庫 1991年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ハクセキレイは何を見ているのかな?

ハクセキレイ ネオン街に眠る白色の小鳥たち
 長い尾羽を上下に振る


 ハクセキレイは、全身が白色、頭部と胸のあたりが黒く、目のところに黒い線(過眼線)が走り、尾の長いすらっとした鳥である。
 セキレイ科の鳥には、ハクセキレイの他に、体の黄色いキセキレイ、頭部や背・胸の黒いセグロセキレイなどもおり、どれも長い尾羽を上下に振るという習性がある。
石や庭を長い尾でたたいているように見えることから、地方によっては〝石たたき〟とか、〝庭たたき〟の名もある。
水田や河川などの水辺を歩き、小動物を捕食するため、ツバメとともに益鳥として保護されてきた歴史がある。
 セグロセキレイは日本列島にのみ生息し、河川の中流域やその上流に分布している。
キセキレイは日本では平地から標高2000メートルの高地にまで分布している。
ハクセキレイの場合は、ユーラシア大陸に広く分布し、各地に亜種が分かれ、日本だけでも、4亜種が観察されており、地球規模で分布している国際派の鳥といってもいいだろう。
そして、このハクセキレイが、都会の鳥として大いに注目されている。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)