2023年11月5日日曜日

気温は高いけど

天気予報では、27度を超えるみたいです。
それでも風が吹いていて気温が高いわりに涼しかった。
天気は、これから崩れるみたいです。
イギリス各地でパレスチナ支持のデモ 即時停戦を求める」(NHK)

こころの時代 「アーカイブ・シリーズ ガザに暮らして(1)ガザに“根”を張る

ラジ・スラーニさん

加害者にとっての「善き犠牲者」にはなれません。
善き犠牲者」にはなりません。
拒否することは 人間として大切なことだからです。

私たちが失わなかったものがひとつだけあります。
人間としての尊厳」です。
誰であれ私たちの「」を故郷の大地からは引き抜けません
私たちには「」があります
なぜなら世界各地で自由を求める献身的な人々が
パレスチナ人を支え、連帯してくれのをこの眼でしっかり見ているからです。

……
 10月27日の記事で「目には目を歯には歯を」を転記しましたが、

イスラエルの攻撃は

 血で血を洗う(中国古典)
 血を分けた親族が争うこと。
また、復習したり悪事を重ねたりすることの譬え。
〔類〕骨肉の争い 〔類〕骨肉あい食む 〔類〕目には目 〔反〕琴瑟(きんしつ)相和す(琴と大琴が調和することからいう)
(『世界ことわざ比較辞典』 日本ことわざ文化学会編、時田昌瑞、山口政信監修、岩波書店 2020年)
 血で汚れた体を別の血で洗えば体はいっそう穢れるとするのが原意。
 中国の『旧唐書(くとうじょ)』(源休伝)に由来するもので日本での古いものは鎌倉期の鴨長明『発心集』(第1)に「血を以て血を洗うが如し」の形で用いられている。
以降の用例は江戸前期まで見られないが、江戸期は全般的に多用された。
言い回しは見出し形がほとんどであるが、「血で血を洗う」「血を以て血を洗う」とも言う。
明治以降も比較的よく使われており、現代の常用度は3。
 外国のものは、同想のものが多いなかで、鶏にたとえた「一籠の中の鶏の争い(インドネシア1番目)」はユニークな存在だ。
日本でもよく知られる「目には目を」を挙げたものが多いが、日本では復讐する意で用いられている。

…中略…

フランス (中略)〔反〕血は血で洗うのではなく涙で洗うもの(V・ユゴー、殺人犯の死刑中止を訴える「ガーンジー島民への書簡」):Le sang se lave avec les larmes et non avec le sang.

…後略…

(『世界ことわざ比較辞典』 日本ことわざ文化学会編、時田昌瑞、山口政信監修、岩波書店 2020年)
宗教改革について転記しますφ(.. )

第4章 近代への胎動――地理上の「発見」とルネサンス・宗教改革(15~17世紀)
 プロテスタンティズムの登場


 ルネサンスに引きつづいて生じた16世紀前半の大事件は、「宗教改革」です。
 1517年、ドイツの神学者マルティン・ルターが、カトリック教会とりわけ教皇庁の腐敗に反発し、中部ドイツのザクセン地方にあるヴィッテンベルク教会に「九十五カ条の論題」をはり出したのが、宗教改革の出発点とされています。
当時、教皇庁は「買えば魂が救済される」として、教会の資金集めに贖宥状(しょくゆうじょう<いわゆる免罪符>)を乱発していました。
 そこにおいてルターは、真に罪を悔(く)い、神の恩寵(おんちょう)を全面的に信仰する罪人のみが救済されるとする「信仰義認論」を展開しました。
そして彼は聖職身分を認めず、俗人との区別のない「万人祭司主義」と「聖書主義」を唱えました。
矢つぎ早に公にされた彼の著作は、後述する印刷技術の発明の波に乗り、全ドイツに広まっていきました。
(『ヨーロッパ史入門 原形から近代への胎動』池上俊一 岩波ジュニア新書 2021年)
 ルターは破門されますが、彼を擁護(ようご)するザクセン公をはじめとする領邦(りょうほう)君主もいました。
ルターの教えが受け入れられとところでは、当然、教皇権威は拒否されました。
修道会は解散させられ、教会財産は、貴族や都市当局が簒奪(さんだつ)しないときには、国家が没収し売却しました。
カトリック世界では教会が主要担当者であった慈善事業も、ルターの教えを受け入れたところでは地元の当局か保護団体が受け持つもとになりました。
ほとんどの改革派当局は、聖書と教理問答集を読める敬虔(けいけん)なキリスト者を創り出す目標を共有し、初等教育を規定する学校規則を導入しました。
そのため多くの学校が創設されました。
 一般信徒により密接に関係するところでは、聖書と典礼が俗語になったこと、カトリックの伝統的な宗教儀礼と慣習が祝日ととも廃止されたこと、聖人・聖遺物崇敬(せいいぶつすうけい)が禁止されたことなどが重要です。
また聖職者の結婚が認められたため、聖職者の境遇は一般の教区民に近づいて、その生活はむしろ安定しました。
 かくして「九十五カ条の論題」から10年たらずで、スウェーデンとプロイセンでルター派が公式宗教になりました。
またそれは中部・北部ドイツ、デンマーク、ノルウェーにも根を下ろし、さらに東欧にも普及していきます。
 ドイツでは、ルター出現後の宗教対立が一連の宗教戦争を引き起こしましたが、1555年のアウクスブルクの宗教和議で一応の決着を見、「領主の宗教がその地で行われる」原則が確認されて、ルター派の信仰が認められました(ただし、次に紹介するカルヴァン派の選択は許されませんでした)。
 ルター以外にも宗教改革の唱道者がいました。
フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンはスイスのジュネーヴで改革を進め、主著『キリスト教綱要』(1536年)などで予定説を唱えました。
予定説に従えば、信徒が神の救済に与(あずか)れるかどうかは、善行などの人間側の事情には一切無関係で、あらかじめ決定されています。
さらにカルヴァンは、職業は「地上における使命」であり、それにはげむことが神の栄光を地上に実現するのだと主張し、商工業者を中心に歓迎されました。
カルヴァン派は1550年代以後、ジュネーヴを起点として、フランス、ネーデルランド、イングランド、スコットランド、ドイツ、ハンガリー、ポーランドへと浸透(しんとう)していきます。
多くの信徒を集めたフランスでは、彼らはユグノーと呼ばれます。
 スイスにはもうひとり、チューリヒで宗教改革を始めたツヴィングリがいました。
彼はこの町で司祭をしていた時にルターの思想に共鳴し、おなじようにローマ・カトリック教会を非難しますが、ルター以上に聖画像、ミサをはじめとする教会儀礼や修道院制度を強く批判します。
1523年にはチューリヒの市参事会で彼の主張が認められ、改革が始まります。
しかし後には聖餐論(せいさんろん)などをめぐってルターと対立します。
 イングランドでは、政治がらみの宗教改革がありました。
国王ヘンリ8世が、教義は二の次にして、自分の結婚問題で対立したカトリック教会から離れたため、カトリック的儀式とプロテスタント教義が混在するイングランド国教会が成立したのです。
その制度的な根幹をなす主教制おようび独自の礼拝(れいはい)形式は、娘のエリザベス1世時代になって実現しました。
しかしその後も国教会は、カルヴァン派の影響を受けたグループであるピューリタンらによる体制批判がつづき、なかなか安定しませんでした。
 その後、イングランド国教会を批判して離れた分離派のピューリタン(ピルグリム・ファーザーズと呼ばれます)は、1620年、帆船メイフラワー号に乗船して北アメリカにわたり、北米イギリス植民地のさきがけとなるプリマス植民地を建設しました。
 その一方で、プロテスタント改革はまた、「対抗宗教改革」と呼ばれるカトリック教会の強力な改革運動を呼び覚ましたことも見逃せません。
対抗宗教改革は1540年頃から本格化します。
その波は、ほぼヨーロッパ全域の古いカトリック地域におよびました。
まったく無縁だったのはイングランドくらいです。
 対抗宗教改革を推進すべく、教皇パウルス3世の主導で1545年にトレント公会議が始まり、1563年までつづいて多くの決議がなされました。
そこでは、救済における伝統的な善行の役割が示され、聖職者の神聖な性格、七つの秘蹟(ひせき)・聖人崇敬・マリアの価値が主張されました。
不在司教や司教職兼任が非難されるとともに、未来の聖職者には、カテキズム(教理問答)と説教を通じて適切な道徳的・知的・宗教的指導ができるよう、方策が練られました。
さらに禁書目録で不適切な書物の発行を禁じたり、不道徳・エロチックな絵画を禁止したりもしました。
 この運動から生まれたカトリック教会の二つの重要なグループは、スペイン、ポルトガル、ポーランド、その他のヨーロッパ諸国をカトリックの枠内に留めるのを助けたイエズス会(イグナティウス・デ・ロヨラにより創立、1540年教皇により正式認可)と、1552年ローマで聖フィリッポ・ネリが創設し、青少年教育や聖歌の発展につくしたオラトリオ会でした。
ローマ教会の立て直し策は強力に進められたものの、それでもカトリック教会は宗教改革によって幾分弱体化し、ヨーロッパの一部はもはやその支配下になく、カトリックに留まった諸国でも、王たちが彼らの王国内の教会制度を支配し始めました。
 ヨーロッパ史レベルで見た宗教改革の最大の意義は、中世にずっとあったひとつの普遍的な「キリスト教共同体」が決定的についえたことでしょう。
以後、ヨーロッパはプロテスタントとカトリック両陣営に分かれ、単に分かれたのみか、国同士、また国内部でしばしば厳しい対立、抗争が起きました。
 ところが、ヨーロッパの「外部」に対しては、あるいは再異教化を背景にした悪魔の策謀に対しては、おなじ「キリスト教世界」として相変らず一体化した意識を持ち、キリスト教的価値観が共通して持ち出されたことも忘れてはなりません。
魔女迫害や海外植民地での布教や蛮行に、新教と旧教の区別はありません。
(『ヨーロッパ史入門 原形から近代への胎動』池上俊一 岩波ジュニア新書 2021年)