2023年11月3日金曜日

文化の日

天気予報を見ていると季節外れの暑さになるとか…
ウィンドブレーカーと手袋を着用して自転車で公園に向かいました。
公園に着くと日の光で暖められて霧のようになっていました。
国連広報センター

私たちの同僚マイは、10/7以来、ガザで殺害された72人のひとりです。

マイは12歳の時、筋ジストロフィーと診断され歩く能力を失いました。
しかし、この困難に立ち向かい、一般中等教育証明書試験では98%の高得点を獲得。
その後
 @UNRWA のウェブ担当者として活躍しました。

May she rest in power.

今日は「文化の日」なんですが、父の時代は「明治節

 教室に迷路をつくる文化祭  落合水尾(すいび)

 文化の日は昭和23年に制定された国民の祝日。
かつては明治天皇の誕生日で、天長節、明治節として祝い、戦後になって改められた。
今は自由と平和を愛し、文化をすすめる日だという。
それに関する催しが各地で開かれるが、学校の文化祭では教室が迷路の遊び場に化したというのだ。
生徒たちの名案だろうが、文化と迷路の取り合わせには、うがったおもしろさがある。
 迷路の歴史は古い。
宗教的にはそれが魔除(よ)けであったり、死であったり、天国との障害だったりすることがあった。
日本の城下町では敵がすんなり攻め入るのを防ぐための迷路を造った。
これを娯楽化したのはイギリスが早く、16、7世紀には庭園迷路が登場する。
日本でも迷路の施設がたくさん商業化されているが、迷路に入った文化となると、これは俳諧だ。
  1937~埼玉県生まれ。「浮野」主宰。句集『谷川』『徒歩禅』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)

  祝祭日と近代社会 ◆高木博志◆

 農村では日露戦争後の地方改良運動のなかで、風俗矯正や町村是(ちょうそんぜ)が実行され、太陽暦の励行、五節句廃止の徹底と祝祭日への置き換えが国民教化運動として進行する。
神奈川県相原村の豪農相沢菊太郎(あいざわきくたろう)の日記では、1905年の紀元節に、初めて小学校での遙拝式と宴会に出席し、日露戦争後、生活のなかで祝祭日が定着してゆくさまがうかがわれる。
また1月1日における、国民的神道儀礼としての社寺への初詣(はつもうで)が創出され、官公庁や小学校の新年節と連動しつつ都市から農村へと全国的に広まってゆくのも日露戦争後である。
1907年1月3日付の『京都日出新聞』では、「大人は市議事堂へ、子供は学校に君ヶ代を寿ぎ奉りて帰れば、父子夫婦相携へての神詣で物見遊山」に出かけると報じ、近代学校行事の新年節とセットになる家族の娯楽としての初詣の成立を伝える。
また旧暦も残存し、たとえば1880年代まで、旧暦の正月のため登校しない小学校の児童や、神社仏閣への旧暦正月参詣も盛んなさまがしばしば新聞に報道される。
旧暦の残存は農村では日露戦後や、ところによっては高度経済成長期まで報告される。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)

 国旗「日の丸」についてみると、奈良県高市郡の事例でいえば、「日清戦争以前に於ては国旗を掲揚せしは諸官衙学校等位なりしも軍人の歓送迎並に戦勝を祝する際し国旗掲揚の必要を感ぜしにより之を作るに至れり、国旗の村内に行き渡りたるは明治天皇御大喪の時なり」(『奈良県風俗誌記載資料』1915)とされる。
もっとも全国民的諸階層への浸透は、08年の戊申(ぼしん)詔書に始まり、23年の国民精神作興に関する詔書を契機とする社会改良が全面開花する昭和期においてである。
特に第1次世界大戦後には、掲揚された国旗に国歌斉唱をもって忠誠を誓う「国旗の時代」が、アメリカから世界へと広がる。
 さて宮中の祭祀は、宮城内の宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われる。
08年9月18日公布の皇室祭祀令に、元始祭・紀元節祭・春季皇霊祭・春季神殿祭・神武天皇祭・秋季皇霊祭・秋季神殿祭・神嘗祭・新嘗祭のほか皇霊殿における祭典を大祭、歳旦祭・祈年祭・賢所御神楽・天長節祭などを小祭と定める。
大祭は天皇が自ら祭典を行い、小祭は天皇が自ら拝礼するが、こうした皇室祭祀と祝祭日が連動して国家的な祝祭となる。
27年に明治天皇の盛徳大業を祝う明治節が制定され、この頃には明治天皇の聖蹟調査などの顕彰が盛んになる。
こうして第2次世界大戦前の祭日は元始祭(1月3日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭(12月25日)、春季皇霊祭(春分)、秋季皇霊祭(秋分)、祝日は新年宴会(1月5日)、紀元節(2月11日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日)として完成する。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
幕末から明治維新への流れを考えると
尊皇攘夷から文明開化へと大きく舵をきりました。
指導者はどう折り合いをつけたのかなぁと思います。
公武合体・鎖国攘夷を貫いていた孝明天皇がご存命ならどうなったのだろう…
(「孝明天皇御胞衣埋納所」フィールド・ミュージアム京都)

第六章 動乱の幕末
 幕末の政争
 岩倉の再登場


 1866年(慶応2)12月、孝明天皇は天然痘にかかり、一時、小康状態のあと、急死する。
当時の記録に、最後に激症を呈したと記されたことから、死因として両説がある。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 一つは医師らの報告どおり激性の出血性痘瘡(とうそう)説であり、もう一つは砒素(ひそ)中毒説、つまり毒殺説である。
毒殺説では、岩倉具視下手人説が流布しており、今日でも研究者の論争が展開されている。
孝明天皇が、反慶喜派の列参に直面して「逆鱗」したことは先に紹介した。
天皇は攘夷論者であったが、このように慶喜を信任していた。
このあと、慶喜が十五代将軍に「宣下(せんげ)」(公認)されるのは12月5日、天皇は1週間後に天然痘を発病し、25日に急死した。
慶喜を強く信任していた孝明天皇が仮に健在であったならば、たとえ岩倉と薩長が連携したとしても、天皇を奪取する宮廷クーデターはとうてい無理であった。
その天皇が36歳で死去したのである。
毒殺説は当時からささやかれたし、今後も消えることはないであろう。
 新天皇は、中山忠能(なかやまただやす)を外祖父とする祐宮(さちのみや)16歳、後の明治天皇である。
新天皇の登場によって岩倉や中山忠能ら、処罰を受けていた公武合体派や尊攘派の公家たちが赦免される。
岩倉は翌67年(慶応3)3月から、ようやく月一度の入洛を許された。
この日まで5年にわたる隠棲であった。
大久保利通と岩倉は22人による列参運動の敗北後、文通する間柄になっていた。
岩倉を訪ねる最初の倒幕は武士は4月に中岡慎太郎であり、5月に中岡、6月に中岡と坂本龍馬である。
大久保が岩倉の隠棲宅を訪問するのは、「王政復古のクーデター」(12月9日)の直前、ようやく10月6日のことである。
岩倉と薩摩藩ら討幕派との結びつきは、じつに短期間のうちに形成されたのである。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)