2023年9月3日日曜日

誕生参り

ここまでくると風が違う
木陰を通る風が気持ちいいです。
と、思ったけど日向は強烈な暑さ(^_^;
南総門及び東西回廊修理について
 工期
 南総門 令和4年末~令和6年末
 東西回廊 令和7年~
平成30年・31年に襲来した台風により、南総門及び東西回廊や神楽殿などの檜皮屋根が破損したため、現在修理工事を実施しております。
南総門は令和6年12月の完成を目途に修理を取り進めており、南総門完成後には引き続いて東西の回廊・西勤番所・神楽殿の修理を計画しております。
しかしながら、南総門及び東西回廊などの建造物は未指定の文化財であるため莫大な経費を必要とし、更には修理範囲が広いため長期に亘る工期が見込まれております。
皆様には修理期間中何かとご不便をおかけ致しますことご理解いただき度存じます。
本修理は皆様よりのご協力なくして到底為し得ない事業であり、私達共有の文化財を後世へ護り伝えるためにも何卒お力添えを賜りますよう謹んでお願い申し上げます。
  石清水八幡宮
此會式(このえしき)は久(ひさ)しく退轉(たいてん)せるを
   今年再興し給ひて云々
     霊元天皇(れいげんてんのう) 
     石清水放生會(いわしみずほうじょうえ)の宣命(せんみょう)より

意味
原文では、ここに掲げた御詞に続いて「納言(なごん)、参議(さんぎ)、辯(べん)、外記(げき)、史(し)、諸衛(しょえい)等を差定(さしさだめ)て放生會(ほうじょうえ)に行幸(ぎょうこう)の儀(ぎ)の如(ごとく)に供奉(ぐぶ)せしめ…」とあり、即ち天皇は「この放生会(現在の勅祭・石清水祭)の儀式は(応仁・文明の大乱以来、実に二百有余年にわたり中絶していたものを)今年(延宝7年)再興し、朝廷より納言・参議以下の高官や諸衛府(えふ)(近衛<このえ>・兵衛<ひょうえ>・衛門<えもん>)の武官等を差遣して、放生会の神幸列に天皇行幸(ぎょうこう)の儀と同様の規模・格式を以て供奉せしめ…」と仰せ出されたのである。

出典
『石清水八幡宮史』史料第三輯(祭祀編下)所収、延宝7年(1679)放生会の項より
霊元天皇
承応3年(1654)~享保17年(1732)。第百十二代。
ご在位は寛文3年(1663)~貞享4年(1687)。
後水尾(ごみずのお)天皇の第十九皇子としてご生誕。御諱(おんいみな)は識仁(さとひと)
譲位後も長らく上皇、法皇として存在感を示され「仙洞様(せんとうさま)」と仰がれた。
特に和歌や書画等に秀でておられ、当宮ゆかりの歌会「石清水御法楽(ごほうらく)」を度々催され、また「八幡八景」で知られる柏村直條(かしむらなおえだ)を始め八幡宮関係者との和歌を通じての交流等、様々な御厚情の程が語り継がれている。
なお、正徳5年(1715)霊元法皇のご奉納の雅楽器三管(笙<しょう>・篳篥<ひちりき>・笛)三鼓(太鼓・鞨鼓<かっこ>・鉦鼓<しょうこ>)は、今も当宮殿内に奉安されているが、その「神宝楽器」の年に一度の貴重な「お披露目」の機会が、9月15日の勅祭・石清水祭における「勅楽奉奏」の儀である。

(「雅楽の楽器」 日本雅樂會)
今日は、この9月に数えの93歳になる父の誕生参り、本殿で祈祷を受けました。
日曜日ということもあってか、初宮参りのご家族も何組かいました。
 (二月)
十一日(とをかあまりひとひ)
雨いさゝかに降りて、止(や)みぬ。
かくてさしのぼるに、ひむがしの方(かた)に、山の横(よこ)ほれるをみて、人に問う(と)へば、「八幡宮(やはたのみや)。」といふ。
これを聞(き)きて喜(よろこ)びて、人々をがみたてまつる。
(『土左日記』紀貫之著、鈴木知太郎校注 岩波文庫 1979年)
山崎(やまざき)の橋みゆ。
(うれ)しきことかぎりなし。
こゝに、相応寺(さうおうじ)のほとりに、しばし船をとゞめて、とかく定(さだ)むることあり。
この寺(てら)の岸(きし)ほとりに、柳おほくあり。
ある人、この柳のかげの、河(かは)の底に映(うつ)れるを見てよめるうた、
  
  さゞれなみよするあやをばあをやなぎのかげのいとしておるかとぞみる
 (さざ波が寄せては作る水面の模様をば、青柳が水に映っている枝影の糸でもって、織り出しているのかと見ることだ。)
(『土左日記』紀貫之著、鈴木知太郎校注 岩波文庫 1979年)
十一日。
あめがすこしふって、やんだ。
そこでまた、かわをさかのぼっていく。
すると、ひがしのほうに、やまがこんもりよこたわっているのがみえた。
たずねてみると、はちまんのみやだという。
これをきいてみなよろこび、やまにむかって、おがみもうしあげる。
(『竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』堀江敏幸 他訳 河出書房新社 2016年)
やまざきのはし(山崎の橋)がみえる。
もう、うれしくてたまらない。
さて、相応寺(そうおうじ)のほとりでしばらくふねをとめ、これからのみちのたどりかたなどを、あれこれそうだんした。
このおてらのたつきしべには、やなぎがたくさんある。
そのかげが、かわぞこにうつっているのをみて、あるひとが(私が)こうよんだ。
さされなみよするあやをはあをやきのかけのいとしておるかとそみる(さざれ波寄する綾をば青柳の影の糸して織るかとぞ見る)。
さざなみで、みなもに、もんようができる。
それはまるで、あおやなぎのかげをたていとにしておった、いちまいのぬのかと、みまちがえるほどのうつくしさだ。
(『竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』堀江敏幸 他訳 河出書房新社 2016年)
船よ さようなら――山崎

✿ 船は石清水八幡宮(=京都府八幡<やわた>市)が鎮座する男山(おとこやま)を望みながら山崎(=京都府乙訓<おとくに>郡大山崎町)に至る。
山崎は鵜殿から約5キロメートル、摂津国と山城(やましろ)国(=京都府南部)の国境で、この当時は淀川をまたいで大橋が架けられていた。
京までは直線距離にして12キロメートルほど。
船の人々は山崎の橋を見て、手を打ちながら喜んだことだろう。
相応寺は山崎橋の西にあったと伝えられる寺だが、現在は廃絶している。
…後略…
(『土佐日記(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』紀貫之著 西山秀人編 角川ソフィア文庫 2007年)
谷崎潤一郎文学碑

 芦刈抄

    谷崎潤一郎

 わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ、まだどこやら夕ばえの色が残ってゐる中空に暗く濃く黒ずみわたってゐた
(碑文の字は、昭和8年に刊行された潤一郎自筆本による)
 谷崎潤一郎(1886年~1965年)は、関東大震災を契機に関西に移住して以来、その風土と伝統文化に魅せられ、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表した。
小説「芦刈(あしかり)」は、「春琴抄」等とともに女性を讃美し、永遠の美を追究した中期の名作群の一つとされている。
 大山崎から橋本へ渡る淀川の中洲が小説の舞台であり、男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられている。
 この文学碑は、「やわた文学碑建立事業」の第三基目として、谷崎生誕百年にあたる1986年7月24日に除幕された。
  八幡市

2 件のコメント:

  1. こんばんは~
    今日も暑くなりましたね。

    お父様、お誕生日おめでとうございます。

    石清水八幡宮までお参りされるって、
    お父様すごくお元気で、ちょっとびっくりです。
    なにより嬉しいことと思います。

    お元気なお父様とご一緒にお詣りできるって、(^^)/
    すごくいいなぁ~と読ませていただきました。(^^)/

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    1. カイさんおはようございます(^^)/
      9月になっても暑いですね(^_^;
      父は、膝や肩の痛み、ヘルニアだけでなく
      本当は、医師から精密検査をすすめられている病気があります。
      でも、母や弟が検査や手術の後、亡くなったこともあって検査を受けようとはしません。
      私も妹も父がもうじき満92歳になるので父の意思を尊重したいと思っています。
      そのことを考えると昔の人は我慢強いと思います。
      戦争などで苦しい思いをしてきたからだと思います。

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