2023年9月25日月曜日

秋らしい朝

朝、戸を開けるとヒンヤリとした風が吹いていました。
まだまだ残暑は続きそうなので安心できません。
足下にスズメバチ(コガタスズメバチ?)が来てウロウロしたので
ジーッとしていると水溜まりの水を飲んでいました。
スズメバチに刺されないためには、

森林レクリエーションでのスズメバチ刺傷事故を防ぐために」(森林総合研究所)
今朝の朝刊に
日本沖で操業、持ち帰れば「中国産」 全面禁輸1カ月、中国の魚事情〟(朝日新聞)

やっぱりなぁと呆れた。
中国が全面禁輸したときに中国船はどうなんだろうと思っていました。
日本近海での乱獲がなくなればいいと思ったけど…

今、中国は様々な火種を抱えているので、人民の目を外に向ける必要があるのでしょう。
一方、政府や東電にすれば中国の強硬姿勢に助けられていると思う。
政府の処理水(希薄水の方が適切だと思うけど)放出について漁業者への説明は不十分なまま強行されたけど
中国のおかげで国民の批判の矛先は政府や東電に向かずに中国に向かっている。
「トリチウムは生物濃縮しない」 処理水の疑問 専門家の見解は〟(NHK 9月9日)
の記事で最後に

長崎大学 鈴木達治郎教授が話しておられる通りだと思います。

国や東京電力は、処理水について『わからない』と思っている人たちがいっぱいいることをわかったほうがいいと思います。何を心配していて、どう応えていくか、別の方策はないかと一緒に考える共同作業でないといけないのに、説明が足りないと思っているだけだとうまくいかない可能性がある

海を生活の柱にしている方々にとってみたら、本当に必要ならしょうがないですけど、海洋放出はやってほしくないですし、もしほかの国が処理水を海に流したとしたら、相手が『安全だ』と主張しても、できればやめてほしいって思いますよね。食べ物とか、放射性物質に対する敏感さというのはそういうものだと思います

住民たちが心配してしまう構図がずっと続いています。福島第一原発の廃炉に向けた措置全体についても、独立した立場で検証や信頼関係の改善に貢献する機関が必要だと思います
昨日が、最終回でした。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が戦意鼓舞に使われていたんだとビックリしました。
番組の終わりの方を転記しますφ(.. )

シリーズ宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (6)「デクノボー」として生きる

…前略…

賢治の死から3年後、高村光太郎や賢治の父・政次郎(まさじろう)らによって賢治の碑が建てられました。
「雨ニモマケズ」詩碑。
碑が建立された翌年の1937年日中戦争が勃発。
戦火は、太平洋戦争へと拡大し青年たちは、次々と出征してゆきました。
国民は、窮乏生活に耐え、己を捨てて国家に尽くす滅私奉公の精神を強いられました。
これは、太平洋戦争さなかの1942(昭和17)年に発行された詩集です。
編集にあたった大政翼賛会文化部は、挙国一致の国家総動員体制を文化活動の側面から推し進めました。
「雨ニモマケズ」は、この詩集で戦時下の国民を鼓舞する作品として選ばれその全文が掲げられています。
北川前肇さん

一人一人の人格を蹂躙(じゅうりん)し、ある集団のもとに一つの価値観念を植え付けて、
その尊厳性が根こそぎ、刈り取られていくという、そういったことは賢治自身の生き方に全く反しますし、
また、仏教精神というものにも法華経精神にも、もとるわけですから
決して賢治の生涯求めたものとは重なりませんので
それらは、私たちが「ノー」と言い続けるそういうことが大事ではないかと。
そういう愚かな政治が、今もまた同様にその多様性という中で
それが、そんなこと許したら国が滅びるだとかですね
そんなことはやっちまったらダメだよとか
そういう、昔でいう国体論が最上の価値であって、世間的価値であって、
一人一人 一つ一つの命の尊厳性に目を閉じてしまうような政という
あるいは、法律というものは、やはり違うんじゃないかということだけは
やはり、しっかりと私たちは持たなければならんというふうに私は受け止めております。
賢治さんの一歩一歩の歩みの中をたどってみます時に
お一人お一人がただ一つしかない命であること
それを能力の問題として置き換えない。
一人一人が尊い人間として保障される。あるい、 誇りを持つ。
それは同時に他者の命もまた代え難いものという。
自己の尊厳性が、他者の尊厳性全人類の尊厳性となっていく方向性を
我々は、しっかりと哲学、信仰、あるいは何々宗だからという意味じゃなくてそこに立ちたいなと思っています。
そういう中で絶えず過去を自分の現在として
宮沢賢治さんの精神はどういうものであったかということを
繰り返し自分を照らす鏡として愚かな自分を照らす鏡として大切にしたい。
そういう言葉にしたいと思ってこのようなお話をさせて頂いているというところでございます。

シリーズ宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (6)「デクノボー」として生きる

番組のテキストは

宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』(北川前肇 NHK出版 2023年)

朗読詩集 常磐樹(大政翼賛会文化部編)』(近代書誌・近代画像データベース 国文学研究資料館)

宮沢賢治「雨ニモマケズ」(40~41) (42~43
宮沢賢治が1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さで亡くなって90年になります。 
番組で紹介されていた宮沢清六さんの著書より

 「臨終のことばから」
   ――賢治のメモへの一考察


 三十七年という時間が流れ去って、私の記憶も少しずつ霞んで来るようだし、兄の臨終についてはいままでみんなに書かれていることでもあるので、ここでまた改めて繰り返すこともないと思う。
 けれども、あの死のちょっと前の言葉で、私の気がかりになるのは、兄が法華経の頒布について遺言した後で、「その外には何かないのか。」という父の問いに答えた言葉である。
「それはいずれ後でまた起きて詳しく書きます。」といったのを私もはっきりと聞き、今までいろいろの伝記にも載っているそのことばについてである。
(『兄のトランク』宮沢清六 ちくま文庫 1991年)
「……また起きて詳しく書きます。」という言葉をそのまま素直にとれば、「喀血も治まり、病勢も静まったら起き上がって、もっと詳しく遺書などを書きます。」ということであろうが、私には兄の気質や、あの臨終の情況や、もうこの世での最後ときめて遺言もした、あのときの兄の目の色などから考えあわせると、あの言葉にはもっと深い意味が籠められていたように思われ、またそれを私の心の奥では強く期待しているのである。
     *

 賢治は小学校と中学校のころに、暁烏敏という容易に会い難い人の知遇を得た。
この真宗大谷派の碩学で清沢満之の高弟であった人から、いろいろな難しい言葉を平易なことばで教えられたようである。
 例えば「難思の弘誓(ぐぜい)は、難度の海(かい)を度する大船」というような言葉を私も子供の頃に聞かされたが、暁烏さんはこの言葉を多分「永遠の生命を思うということは人世という荒海をわたる大きな舟のようなものですね。」と嚙みくだいて若い頃の軟かい賢治の頭に染みこませ、それを賢治は素直に受け取ったのだろうと私は思っている。
 そのようにして中学校を終えてから、死ぬまで「久遠の生命」や「此の世を浄土たらしめる」ことについて説かれている法華経を傍に置いて離さなかったのだから、「……また起きて詳しく書きます。」ということばには、賢治の将来への悲願とか誓願が籠められていると考えていいと思うのである。
 この意味で「また起きて」という言葉の奥には「また生まれ変って」という意味があるように私には思われ、若い頃に賢治が書いた(堅い瓔珞は……)という詩、
  こんなことを今あなたに云つたのは
  あなたが堕ちないためにでなく
  堕ちるために又泳ぎ切るためにです
  誰でもみんな見るのですし また
  いちばん強い人たちは願ひによつて堕ち
  次いで人人と一緒に飛騰しますから
というのや、また、

  疾いま革まり来て
  わが額(ぬか)に死(しに)の気配あり

  いざ さらばわが業のまま
  いづくにもふたたび生(あ)れん

という文語詩などがこの「また起きて」を裏づけるものとして思い出されるのである。
 次には「詳しく書きます」ということばの反対の、

  天と菩薩をおもふべく
  黒き活字をうちねがはざれ

というような、書くことや発表することを否定するようなものも見られるが、

  さてはまたなやみのなかと
  数しらぬなげきのなかに
  すなほなるこころをもちて
  よろこばんその性(さが)を得ん

というようなものもあって、所詮はこのように相反するような作品は『春と修羅』の中の随所に現われる衆知の特徴でもある。
だからその臨終に言った祈願とか誓願を煎じつめれば――世界のぜんたいの幸福を願う――ということになって、そのぜんたいの中には一粒の砂も一本の草も、一匹の虫をも含んでいることは作品を見ればわかるのである。
しかしこのような誓願は人の一生や百生などの生まれ変りで成就できないことだと思うのである。
……後略…
(『兄のトランク』宮沢清六 ちくま文庫 1991年)
今朝の父の一枚です(^^)/
モズを写せて大喜びでした!
昨夜のダーウィンが来た!は
“はやにえ”が恋に効く!モズ最新研究」でした。
見逃し配信が10月1日まで見ることができます。

 モズ 孤独な鳥のプロポーズ作戦
 モズの呼び名


 モズは、都心のビル街にはいないし、かといって森の鳥でもない。
見晴らしのよい広い公園や河川敷、農耕地などを好んで生息している。
また、スズメのように人家に営巣したり、ツバメやセキレイのように益鳥として保護されてきたという歴史もない。
溺愛(できあい)されることもなかったが、かといって、まったく無視されてきた鳥でもない。
 モズの呼び名は、日本各地で50くらいも知られている。
キチキチ、キイキイ、キーキーモンズ、モンタロウ、タカスズメ、イレッチョ、アキウド、ケンカモズなど。
そのほとんどは、モズに特有の声、行動、形態などに基づくものであり、昔の人がいかにモズのことをよく観察していたかがしのばれる。
 モズは農耕民族としての日本人が、毎日の生活の中で、身近な鳥としてつき合ってきた代表的な鳥である。
詩歌にうたわれ、季節を知る手がかりとなり、数々の物語にも登場する。
いはば、人里の鳥として、人との距離をほどよく保ってきた最も代表的な野鳥といえよう。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)