2023年9月2日土曜日

9月2日

大きな石の上に草が生えているのをよく見かけるけど幼木(アキニレ?)が育っている。
この夏、あまり雨が降らなかったのにとビックリしました。
山を歩いているときは岩を抱くように大きくなっている木を見かけたけど
この幼木も大きくなれるかな?

無理矢理、ロックでこじつけているみたいだけど(^^ゞ
今朝の「NHK映像ファイル あの人に会いたい 鮎川誠(ギタリスト)
懐かしかったなぁ!
映画が公開されている「シーナ&ロケッツ 鮎川誠~ロックと家族の絆~
赤い風船が浮かんでいると思ったら
大阪工業大学 公園内 環境測定中」(学部は書かれていなかったけど)
クリーンセンター(ゴミ焼却場)があるので、以前、ダイオキシンのことが問題になったことがある。
もともとここは、ゴミ山だった。
そして「UNEP 国際環境技術センター」もある。

今、処理水への批判を書くと、中国に加担していると見られるだろうけど
2年前の懸念が解決されたとは思えません。
なぜ反対? 処理水放出決定に福島からは」(NHK 2021年4月26日)

そして中国の原発の排水はどうなっているのか
中国の原発、処理水で上限超え トリチウム、7割の地点で」(東京新聞 8月8日)

近畿大学の研究はどこまで進んでいるのだろう?
国は、研究を支援しているのかな?
汚染水からトリチウム水を取り除く技術を開発……」(2018.06.27)
関東大震災の朝鮮人虐殺 松野官房長官「政府内の記録見当たらず」〟(毎日新聞 8月31日)
日本政府は、都合の悪い事は、焼却したり、黒塗りの報告書を平気で出している。

財務省公文書改ざん 妻 “夫は法律に守ってもらえなかった”」(NHK 2022年11月25日)

日本では、裁判所でさえ重要な裁判記録を処分している。
捨てられた事件記録」(NHK 2023年2月17日)

最高裁の判決がどのようにして決定されたのかも公開されていない。
ETV特集「誰のための司法か~團藤重光 最高裁・事件ノート~」(2023年4月15日)
情報公開について日本がどれだけ遅れた国なのか!
コード・ガールズ』にみられるようにアメリカは、情報公開によって国民の知る権利が守られている。
一方、日本は、中国やロシアと同じレベルで、国民ではなく権力者が守られている。

100年前のこと
1923(大正12)年 9月2日 京浜地区に戒厳令。
朝鮮人暴動の流言ひろがり、市民の自警団による朝鮮人虐殺はじまる。

(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)
保阪正康さんの父は、関東大震災で父親を亡くして孤児となりました。
誰にも話さずにいた体験を亡くなる前に語ったのが

約束された死

 …前略…

 二日目の午後になって、青年たちが徒党を組んで殺気だった様子で町を徘徊しはじめた。
手には棒をもち、なかには大工道具をもっている者さえいる。
「朝鮮人をやっつけろ」とさわいでいて、避難してくる人に「お前のうちはどこだ」「お前は日本人か」ときいている。
不審な受けこたえをするといきなり殴りつける。
なかには日本刀で切りつける者もいる。
殴られ、傷つけられた者が、道路に倒れている。
 青年たちは「山の方に鮮人が逃げこんでいる」と叫んで走りだしていく。
(『父の履歴書』保阪正康 立風書房 1986年)
 父は父親のことが気になった。
それで家にはいり、机の上に「僕は生きています」と書いた紙を置き、玄関にも父親あてにそう書いて貼りつけた。
そして、吉浜町までいってみることにした。
近所の人は、街は焼けただれているし、まだこれからも地震があるからいってはいけない、と止めた。
しかし、父親の消息が知りたかった。
東神奈川、神奈川、横浜、桜木町と歩いていくことを決めた。
四時間はかかるかもしれない。
それでもただひとりの肉親を失ったらどうしようという不安が父を怯やかしていた。
 青木通りを進んでいくと、家屋は倒れ、まだ火はくすぶっている。
道路の端には木刀を手にした自警団がいて「朝鮮人を五人殴った」とか「ひとりで十人倒した」と自慢しているのを耳にもした。
朝鮮人らしい撲殺死体をいくつも見た。
父は道路に倒れた家の間をぬって市内にはいっていった。
中学生がひとりで逆の方向にむかっていくのを見とがめ「坊や、市内にはいっていくのは危ないよ」と止める人もいたが、父はそれをふりきって進んだ。
夕方にはまだ間があった。
 どこのあたりかは覚えていないが、道路の端に、殴られたのか荒い呼吸をして横たわっている背広姿の青年がいた。
 その脇をとおりすぎようとすると、青年が呼び止めた。
「水、水をください」と言った。
父はその近くの家にはいって、茶碗を借り、水を入れてもらった。
青年の口に茶碗をあてると、青年は身体を起こして水を飲み干した。
 整った顔をしていた。
なぜ彼が自警団に殴られたのかがわからなかった。
朝鮮人にまちがわれた日本人だろうと思った。
「私は朝鮮人ではない」
 と青年は言った。
しかし、アクセントは日本人のものではない。
父は青年より父親のほうが心配だった。
茶碗を返してまた歩きださなければと立ちあがったとき、青年は父の足首をつかんだ。
話をきいてほしいと言っているのだ。
父はまた腰をかがめた。
「私は朝鮮人ではない。中国人です。上海からきているワン……という者です」
 父はききとりににくいので口に耳をあてた。
青年は、ワン……ともういちど言った。
上海から来ている留学生のようであった。
さらに左耳をあてたとき、父はいきなり後ろから木刀のようなもので肩を数回殴られた。
 後ろには数人の若者がいた。
手には木刀や鳶口をもっている。
「お前も朝鮮人か」
 とひとりの若者が言った。
父は、若者たちの目が異様に光っているのにふるえあがった。
「いえ、ちがいます」
「うちはどこだ」
「青木太田町に住んでいます」
 ひとりが帽子の章を見て声をかけた。
「二中の生徒だな。なんで朝鮮人に水を飲ませていたんだ」
その声が父にはやさしく聞こえた。
「この人が水がほしいと言っているのです」
「ばかやろう――。こんな奴に飲ませることはないんだ」
 別な若者が、目をとじて寝転り苦しみの声をあげている青年を足蹴りにした。
中国人の青年はもういちどうめき声をあげた。
 鳶口をもった若者が、父を中国人の青年から引きはなすと青年の背広をはだけシャツを破り、腹部を広げた。
そこに鳶口をあてた。
それから勢いよく横ざきにした。
青年は悲鳴をあげた。
人間の発するそんな悲鳴を父は初めて聞いた。
内臓がとびだしてきた。
それでも若者たちはうめき声をあげている中国人を憑かれたように棒で殴りつけた。
中国人の青年はやがて声をあげなくなった。
「坊や、早くうちに帰れ」
 手を振って父に早くいくようにと示した。
父はいま来た道を家にむかって走った。
「ひどい光景だった。かわいそうに……。あんなことをしてはいけない。あのころの日本人は無茶すぎた。ふだんはおとなしい若い人があんなことをするなんて信じられない。あの中国人に申し訳ないという気持をいまでももっている……」
 と父は目を伏せた。
それから母の寝室を横目で見た。
母には聞かせたくない話だったのだろう。
声を押さえて言った。
「あの光景がいまでも目に焼きついている。横浜にいくとそのことを思いだしそうで怖いんだ。あれを見て、人間っていうのはどんなことをするかわからん、っていうことがよく判った。人間っていうのはとんでもないことをするものなんだなあ。臆病だと笑うかもしれないが、横浜の街はなつかしくてたまらないけれど、その半面で怖くて怖くて足を踏みいれることができない。中国人のうめき声が聞こえてきそうな気がするんだ」
 それが小心さのためだと笑われるのを恐れているのか、父は一層低い声で話した。
この話は初めて口にするのだろう、声が震えているように、私には思えた。
「大正の終わりに朴烈事件っていうのがあるのを知ってるだろう。朝鮮人が天皇暗殺をはかったといって逮捕された事件だけど、あれは日本が口実をつくるためにつくった事件だね。関東大震災のあと、それも二、三日してアメリカやヨーロッパで〝日本を救え〟という国民運動が起こって救援物資が横浜にぞくぞく陸揚げされたんだ。ところが日本人が朝鮮人虐殺を行ったというので、キャンペーンはすぐにやんでしまった。それで日本は朴烈事件をでっちあげたんだ」
 父は私の見るところ、政治にも思想にもまったく関心のない男だった。
そんなことは終生自分には縁がないという素振りで生きてきた。
その父が朝鮮人虐殺だけはどうしても納得できないと言っている。
正直言って、私は驚いた。
朴烈事件の詳細について父は何ひとつ知ってはいなかったが、事件の真相を見ぬく直感だけでは十四歳のときからずっともっていたのだ。
…後略…
(『父の履歴書』保阪正康 立風書房 1986年)

金子文子(かねこふみこ)」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)