2023年8月9日水曜日

台風の影響で

台風の動きが遅いですね…
大阪は、雨なども少しだけですが
これまでの台風は、九州などに近づくにしたがって勢力が弱まっていましたが
海水温が高く、エネルギーが供給されるので勢力を維持したまま近づいてきている。

台風6号 鹿児島県 熊本県 長崎県の一部が暴風域に」(NHK)

日別表層水温」(気象庁)
台風の影響で屋内での開催になった
原爆投下78年 平和祈念式典で鈴木市長 核兵器の廃絶訴える」(長崎NHK)

今朝の朝日新聞の「天声人語」
……
長崎市内にあった福岡俘虜(ふりょ)収容所……
……第14分所は爆心地から1.7キロにあった。
原爆投下時には約200人の捕虜がおり、8人が犠牲になった。
赤痢や肺炎などで終戦までに亡くなったのは100人を超える。


核兵器は、無差別にその地にいる人びとを地獄に引きずり込みます。
 Ⅳ 廃墟の中で
2 敗戦の日を迎えて
 2 外国人被爆者


 古くから長崎に居住し、1938年に中国領事館が閉鎖された後も新地を中心に残留していた華僑(かきょう)は600名といわれている。
そのなかにも、かなりの被爆者がいたと推定されている。
 当時、日本の植民地のひとつだった台湾からも、就職したり留学していた人がいた。
長崎医科大学では23名の台湾出身者の爆死が確認されている。
 このほか、中国から日本へ強制連行されてきた約4万名の中国人のうち、長崎で被爆した人は約650名、うち死亡者は156名と推定されている。
(『ナガサキは語りつぐ 長崎原爆戦災誌』長崎市編、長崎国際文化会館監修 岩波書店 1991年)
 また、キリスト教の普及のため来日していた外国人宣教師たちは、戦時下では、「敵性外国人」として各地の抑留所に隔離・監禁されていた。
8月9日の被爆時に長崎にいたのは、爆心地から約3.5キロにある修道院「聖母の騎士」に抑留されていた2、30人の外国人修道女らであった。
しかし被爆後、まもなく各地からもどった修道士たちとともに救援と復旧のために、ただちに活動を開始している。
 爆心地から1.7キロメートルの幸(さいわい)町に福岡俘虜(ふりょ)収容所第14分所があり、ここには初めのころイギリス人、オランダ人、アメリカ人、オーストラリア人の捕虜約480名が収容され、三菱造船所等の軍需工場で就労していた。
その後、他地の収容所に移動した人もあり、原爆被爆当時は170~200名ほどが長崎に残っていた。
この大半の人びとは重軽傷を負ったといわれており、そのうち原爆による死亡と確認された人が8名いる。
 捕虜のひとりR.E.ブライヤーは、不安のままに迎えた終戦の日までを、1969年にイギリスから寄せた手紙に、つぎのように書いている。
 (前略)
 見ると町全体が燃えている瓦礫(がれき)の固まりで、私はドイツの電撃戦でロンドンに落とされた投下機雷をこの目で見ているだけに、これだけの広大な地域を破壊したこの爆発が普通のものでないことはわかっておりました。
しかし、残骸(ざんがい)の中をたくさんの人びとが動いているのを見るにつけ、われわれの仲間でどうにか達者な者はできるだけの手助けをしようということで、丘を降りました。
 この時分には火勢はいよいよつのりはじめていて、はずれ落ちた電線や針金で作業はなかなかはかどらず、そのうちわれわれの仲間の一人が足をはさまれているのを見つけ、やっとのことで助け出し、丘の方へ連れて行きました。
ちょうど丘の中腹に岩穴を見つけ、半分ばかり水浸しになっておりましたが、さしあたり彼をそこに休ませました。
 イギリスに帰国後、私はテレビの番組で彼と対面することになりましたが、今でも彼とはときおり文通しております。
彼を丘の中腹に移したあと、私はまた収容所に帰り、われわれのキャンプの隊長となっていたオランダ人指揮官を戸板に乗せて救出し、また丘の中腹まで運びましたが、彼は頭部に重傷を受けていたため、丘の上に達したときに死亡しました。
最後に収容所から運び出す自分には何もかもあらゆるものが燃えていて、丘の方に引き返すのにずいぶん苦労しました。
 丘の上から見たすっかり破壊されたあの惨状は、けっして忘れることはないでしょう。
あのあとに、血のように真っ赤な太陽がこつぜんとふたたび現われたとき、同じような攻撃がまたくり返されたのではないかと直感して、思わずみんなからだを地上に伏せてしまいました。
その晩は、原爆と盲となりやけどしたインドネシア人といっしょでした。
私どもは丘の上におりましたが、町の方は一晩中燃えつづけ、他の地方から来た日本軍の兵隊が、われわれをまたいっしょに集めました。
 翌朝、私どもはガスタンクの先までもどり、そこで曲りくねったトタン板を延ばして、負傷者の臨時収容所をつくりましたが、太陽がかんかん照りつけ、しかも周りの火の熱といっしょで大変な暑さでした。
 私どもの仲間で動ける者は残った建物の中から遺体を収容し、材木を積み上げて、その上に二〇体ずつ置き毎晩火葬しましたが、これは数日つづきました。
 その後、私ども一同は長崎市内からちょっとはずれた丘にある空き家になった兵舎に移動を命ぜられましたが、とても大きな兵舎で私どもはその片隅に落ち着きました。
すぐそばに小川が流れおりましたが、ある日私が草の上にすわっていると、年寄りの日本人警備員がやって来て、SENSU OWARI(センスー・オワリ)といいましたので、私は「戦争が終わった」という意味だろうと判断して、一同に伝えましたが、みんなとても信じられない気持ちでした。
しかし、翌日一人の日本軍将校が来てこれを確認し、私どもに別れを告げ、彼の部下を引率して町の方へ下って行きましたので、やっと私どもは自分のからだになったわけです。      
      (『原爆前後』第三巻)
(『ナガサキは語りつぐ 長崎原爆戦災誌』 岩波書店 1991年)
今朝の父の一枚です(^^)/
スズメが朝ご飯を見つけていました(ハラビロカマキリ?)

動きの遅い台風6号。
お盆のお供えに送ってもらうように頼んでいた品物。
今日、お店から沖縄には今日から配送できるようになったと電話がありました。
でも、今までの荷物が滞っているので時間がかかるとのこと
また、徳之島へは、まだ発送のめどがたっていないとのこと。

台風6号 鹿児島県内の交通機関への影響」(鹿児島NHK)