2023年8月3日木曜日

予想できないなぁ…

今朝は、自転車で公園に…
いつもと違う場所で自転車を止めるとネムノキが咲いていました。
この暑い時期に…
台風の進路予想が難しいみたいですね
太平洋高気圧に影響されているみたいです。
大阪に来襲する可能性もあるかも…

台風6号 宮古島など暴風域 影響長引くおそれ 厳重警戒を」(NHK)
高気圧が東シナ海付近で2つに分離し、台風の両脇を挟み込むような配置になる見込みです。
公園の ゲートの近くでちょこんと座っていたクロ猫
左耳の先が「V」カットされています。
今まで「耳かけ」なんて呼んでいたのですが、「さくら耳」と呼ぶそうです。

『さくら耳』は不妊手術済みのしるし」(どうぶつ基金)
7月25日に放送された
言葉にできない、そんな夜。第2シーズン (35)
で、梶井基次郎の『檸檬』が紹介されていて

 空虚な空気のなかに
 [  ?   ]と一人取残された。 

[ ?  ]の中に入る言葉を皆さんで考えていました。
『檸檬』は、何度か読み返しているのに分らなかった(^^ゞ
目で読んでいるだけでは、言葉が残らないので転記したいと思います。
今日の文章には、[ ? ]の中の言葉は出てきませんが(^_-)
   檸 檬

 えたの知れない不吉(ふきつ)な塊(かたまり)が私の心を始終圧へつけてゐた。
焦燥と云はうか、嫌悪と云はうか――酒を飲んだあとに宿酔(ふつかよひ)があるやうに、酒を毎日飲んでゐると宿酔に相当した時期がやつて来る。
それが来たのだ。
これはちよつといけなかつた。
結果した肺尖(はいせん)カタルや神経衰弱がいけないのではない。
また背を焼くやうな借金などがいけないのではない。
いけないのはその不吉な塊だ。
以前(いぜん)私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。
蓄音機を聴かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初の二三小節で不意に立ち上つてしまひたくなる。
何かが私を居堪(ゐたたま)らずさせるのだ。
それで始終私は街(まち)から街を浮浪し続けてゐた。
(『梶井基次郎全集 第一巻』筑摩書房 1999年)
 何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚(おぼ)えてゐる。
風景にしても壊(くづ)れかかつた街だとか、その街にしても他所他所(よそよそ)しい表通よりもどこか親(した)しみのある、汚い洗濯物が干してあつたりがらくたが転してあつたりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通が好きであつた。
雨や風が蝕(むしば)んでやがて土に帰つてしまふ、と云つたやうな趣(おもむ)きのある街で、土塀が崩(くづ)れてゐたり家並が傾きかかつてゐたり――勢ひのいいのは植物だけで時とすると吃驚(びつくり)させるやうな向日葵(ひまはり)があつたりカンナが咲いてゐたりする。
 時どきわたしはそんな路を歩きながら、不図(ふと)、其処が京都ではなくて何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのやうな市(まち)へ今自分が来てゐるのだ――といふ錯覚を起さうと努める。
私は、出来ることなら京都から逃出して誰一人(だれひとり)知らないやうな市へ行つてしまひたかつた。
第一に安静。
がらんとした旅館の一室。
清浄な蒲団。
匂ひのいい蚊帳(かや)と糊(のり)のよく利いた浴衣(ゆかた)
其処で一月ほど何も思はず横になりたい。
希はくは此処が何時の間(ま)にかその市になつてゐるのだつたら。
――錯覚がやうやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具(ゑのぐ)を塗りつけてゆく。
何のことはない。
私の錯覚と壊(くづ)れかかつた街との二重写しである。
そして私はその中に現実の私自身を見失ふのを楽しんだ。
 私はまたあの花火(はなび)といふ奴が好きになつた。
花火そのものは第二段として、あの安つぽい絵具で赤や紫や黄や青の、様ざまの縞模様(しまもよう)を持つた花火の束、中山寺の星下(ほしくだ)り、花合戦(はながつせん)、枯れすすき。
それから鼠花火(ねずみはなび)といふのは一つづつ輪になつてゐて箱に詰めてある。
そんなものが変に私の心を唆つた。
 それからまた、びいどろといふ色硝子で鯛や花を打出(うちだ)してあるおはじきが好きになつたし、南京玉(なんきんだま)が好きになつた。
またそれを嘗(な)めて見るのが私にとつて何ともいへない享楽(きやうらく)だつたのだ。
あのびいどろの味ほど幽(かす)かな涼しい味があるものか。
私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼児のあまい記憶が大きくなつて落魄(おちぶ)れた私に蘇(よみがへ)つて来る故(せゐ)だらうか、全くあの味には幽かな爽(さはや)かな何となく詩美と云つたやうな味覚が漂つてゐる。
 察しはつくだらうが私にはまるで金がなかつた。
とは云へそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰める為には贅沢といふことが必要であつた。
二銭や三銭のもの――と云つて贅沢なもの。
美しいもの――と云つて無気力な私の触角(しよくかく)に寧ろ媚びて来るもの。
――さう云つたものが自然(しぜん)私を慰めるのだ。
 生活がまだ蝕まれてゐなかつた以前私の好きであつた所は、例へば丸善(まるぜん)であつた。
赤や黄のオードコロンやオードキニン。
洒落(しやれ)た切子細工(きりこざいく)や典雅(てんが)なロココ趣味の浮模様(うきもやう)を持つた琥珀色や翡翠色の香水壜。
煙管、小刀、石鹸、煙草。
私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあつた。
そして結局一等いい鉛筆を一本買ふ位の贅沢をするのだつた。
然し此処ももう其頃の私にとつては重くるしい場所に過ぎなかつた。
書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取の亡霊のやうに私には見えるのだつた。

…つづく…

(『梶井基次郎全集 第一巻』筑摩書房 1999年)