2023年8月14日月曜日

明日は…

見る度に進路が近くを通る予報になっている…
お昼前に買物に行くと、パンの棚が寂しくなっていた。
明日は……
台風が通過した後、しばらく山のエリアには入れないだろうなぁ…

台風7号 15日に近畿上陸のおそれ 土砂災害や暴風に警戒」(関西NHK)
NHKアカデミア 「戸髙一成(前編) いま、太平洋戦争から学ぶ

博物館を、例えば大和ミュージアムを、ずっと1回見て1回2回見て分かったと思ってほしくないんですね。
というのは 博物館の中で何を知ることができるかっていうと100字とか200字で短い文字で書かれた説明が並んでいるにすぎないんですね。
それぐらいで物事を分かったと思われたらこちらは思わず違いますよと、そうじゃないですよと言わなきゃいけない。


……

戦艦大和はかっこいいと思うから興味を持って勉強する。
そうするとかっこいいだけじゃないとこへたどりつくことができる。
こんなものは勉強してもいけない。
もう知ってもいけない。
そういうふうに戦争のことなんか何も知らなくていい。
平和だけが大事なんだっていうふうに抑えたらですね本当のとこへたどりつけないですね。
やはり無知はダメです。


……

財団法人史料調査会っていう海軍の歴史を専門に扱っていた史料館でいた時に海軍の古い人たちがですね
自分たちの反省を後世に伝えようと思って開いた研究会があるんですね。
海軍反省会という名前でやりました。
その反省会、131回やったんですけどもその時記録のためにとっておいたテープが最後に私が、ずっと保管するように頼まれた……


番組の中でテープの内容が紹介されていました。
明日は「終戦記念日」なんだけど…。
こういう言葉を誤魔化して本質から目をそらすのは今に始まったことではないですね。

3 大東亜共栄圏――詐術としての戦中用語
 転進


 文字どおりに解釈すれば、行動の方向を変えることだから、それが<敗走>に直接つながるとは限らない。
しかし太平洋戦争の戦場で日本の軍隊が「転進」したとたびたび報道されるうちに、受けとる国民は、敗走したと解釈するようになる。
日本軍が<退却>し、戦線を離脱したことを、戦況が日本に不利になりつつあることを、徐々に知るようになった。 
 その時期は、開戦の次の年の昭和17年、「真珠湾」の輝かしい「戦果」から1年もたたない17年の初秋あたりからである。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)
 さらに18年に入ると、控え目に使われていた「転進」が、だんだん目立つようになる。
17年4月のアメリカ空軍による日本本土初空襲のときは、東京の空に入ってきた敵機は一機だけで、被害もわずかだったが、「いつかは……」という悪い予感は、多くの国民の頭に拡がっていった。
ヨーロッパ戦線では、18年2月2日にドイツ軍がソビエト領内から撤退をはじめ、イタリアもドイツを助けて参戦したものの、5月12日北アフリカで大敗し、同じ年の7月24日、ファシスト大評議会で、指導者ムッソリーニの失脚が決議される。
 「転進」の新聞発表には、ほとんどの場合、現地での<任務>や<作戦>を「終了」したための行動という説明がつけられたが、国民は次第にそれを素直に受けとらなくなる。
日本軍が敗北し、逃げ出した、と暗黙のうちに察知した。
ガダルカナル島にいた日本軍は総攻撃で潰滅的な打撃を受け、運良く逃げ出した兵力だけが、フィリピンやラバウルへ、いのちからがら「転進」する。
その18年4月18日、連合艦隊司令長官の山本五十六提督が、ソロモン海域を空から視察しているうちにアメリカ空軍に狙いうたれ、戦死した。
 太平洋戦争の主導権が、敵ににぎられていることを、国民はもう、いやおうなく認めざるを得なかった。
 それでも、国内の日本人の大衆を、より以上に戦争と献身にかり立てるため、<標語>がつぎつぎに作られていく。
「進めつらぬけ米英に、最期のとどめ刺す日まで」「山本司令長官につづけ、一億玉砕」「元帥の仇(あだ)は増産で討て」など。
 山本元帥戦死の次の5月12日には、アメリカ軍がアリューシャン列島のアッツ島に上陸し、やがて守備部隊の山崎保代部隊長以下全将兵戦死の報がつたわる。
すると、「アッツの仇は増産で」という標語が作られる。
この「アッツ島」での悲劇的敗戦には、もう「転進」などというごまかしはきかない。
全員が「玉砕」と発表された。
 日本軍の守備隊がいたマキン・タラワ(南方海域)両島にも、11月には米軍が上陸、凄惨な戦闘ののち、日本軍の全滅が伝えられた。
国内でも次の月の12月に「学徒出陣」がおこなわれ、一般の男子に適用される「徴兵適齢」が20歳から19歳へと引き下げられた。
 餓島転進

 餓島(がとう)とは、太平洋戦争の激戦舞台の一つで、南太平洋上のソロモン諸島の一つ「ガダルカナル島」の略称。
「ガ島」が、その島に上陸した兵力約3万のうち、辛うじて約1万が撤退、2万人の戦死者はほとんどが餓死であったため「飢餓」の島、すなわち「餓島」と悲惨な宛(あ)て字で書かれるようになったものである。
 太平洋戦争中に、日本とアメリカの海軍の航空力が逆転(日本にとって不利に)する転機となった戦場の一つが、そのガ島で、その前に「ミッドウェー海戦」があった。
昭和17年の後半のことである。
 そもそもは戦争の初期、日本の海軍が<米豪分断作戦>というものをはじめた。
その一環として、海軍の設営隊が、このガダルカナル島に上陸して飛行場を作り、それが完成して、いよいよ海軍の戦闘機隊が乗りこもうとする直前に、アメリカの反攻がはじまる。
昭和17年の7月のことで、まもなく8月7日には、このガ島がアメリカ軍に占領されてしまう。
 当時、ニューギニア作戦(ポートモレスビー攻略)に全力をあげていた陸軍の第17軍は、ガダルカナル島奪還を大本営に命じられ、まず一木(いちき)支隊をガ島に投入する。
そのころは、せっかく日本の設営隊がつくった飛行場にアメリカの飛行機がわがもの顔に発着している。
苦心の末上陸した一木支隊は苦戦をつづけて全滅、つづく川口支隊もあいつぐ攻撃に失敗する。
 大本営も事の重大なのにおどろき、ジャワの第2師団・第38師団を夜間の駆逐艦輸送で急遽送りこむが、夜間はともかく、夜が明けると敵機に発見され、爆破・沈没・炎上がづづく。
やっと陸揚げした軍需品も焼かれてしまう、という有様。
夜は夜で、日本軍の頭の上30センチほどのところに一面の火の幕が張られたように<艦砲射撃>の砲火が集中し、二晩つづけて身動きできない、というところさえあった。
 ついに昭和17年の暮れも押しつまった大晦日に、御前会議で「ガ島撤退」作戦が決定する。
この作戦の名前が〝捲土重来〟の頭文字をとって「ケ号作戦」と呼ばれた。
 しかし、この作戦で首尾よくガ島を離脱できた兵士とは別に、<撤退もれ>があった。
私が、その作戦に参加した体験者から後年聴取したところでも、海岸近くにいたものはともかく、少しでも奥地に残された部隊には、生存者が最後までいたことは考えられるという話だった。
また食糧兵員の輸送船調達の問題で陸海軍が対立する、という事実もあり、海軍も協力をしぶるようになった。
 ついに決まったのが「撤退」だったわけである。
第三次「撤退」まで続いた。
 昭和18年2月、大本営は、ガダルカナルの部隊は、所期の目的を達して「転進」したと発表、これ以降、日本軍は太平洋の拠点からじりじりと後退していき、足早やに「転進」の季節に入ることになる。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)

新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実 前編」(NHK)
に、山本五十六元帥の戦死やアッツ島玉砕などについて描かれていました。
番組の最後に学生航空隊の宣誓を読み上げたのはアッツ島で戦死した山崎部隊長の次男保之(18歳)。
父の死から2週間しか経っていませんでした。